野中の道 #16
「何が『金貨一千枚の男』だ! お前が勝ったのはイカサマじゃねぇか! 親父の店でふざけた真似しやがって!」
『紫の驢馬』を警護するため後ろに控えていた頰傷の男が、二人の話を聞いてカッと腹を立て割り込んできたのだった。
大股で『紫の驢馬』の前に歩み出て、ティオに掴みかかろうという男の勢いを、「やめろ!」と素早く『紫の驢馬』が腕を伸ばして制していた。
ティオは少し目を見開いたものの、「えぇ……」とつぶやいたのみで、その場から動く事はなかった。
納得は全くいっていないようだったが『紫の驢馬』の命令を聞いて渋々後ろにさがった頰傷の男に、『紫の驢馬』は、ハーッと心底呆れたようにため息をついていた。
「……お前は一体何をしているんだ? 私達の話を聞いていたんじゃなかったのか? いつも言っているだろう? 人の話を良く聞けと。人の話に真剣に耳を傾け理解する事から学べるものはたくさんあるのだぞ。」
「も、もちろん聞いていましたよ、親父! 親父の話は、いつも一言も漏らさないように真剣に聞いています!」
「それで今の理解なのか? ハア、全く困ったものだな。……お前のそういう浅慮な所を直したいと思って、今日はこうしてわざわざティオ殿との会談の場にお前を残してやったと言うのに、どうやら私が期待したような効果は見られなかったようだな。」
「親父! こんなインチキ野郎の話なんか聞いたらダメです! コイツは、ええと……ヘラヘラしてるし、見た目もヒョロヒョロで情けないし、そ、その、なんか信用のならないヤツです!」
「だから、人を見た目だけで判断するなとあれ程……ああ、もういい。黙って後ろに立っていろ。私はティオ殿とこれから大事な話があるんだ。……今度私達の話を邪魔するようなら、即刻この場から出て行かせるからな。」
「親父!……グ、グゥ!……」
頰傷の男は『紫の驢馬』にピシャリと言われ押し黙ったが、その悔しさが憎悪に変換されたらしく、しばらく『紫の驢馬』の後ろから、殺しそうな勢いでティオの事を睨みつけてきた。
ティオはそんな男にニコッと笑いかけたものの、逆効果のようだったので、スッと視線を逸らし……
その後は、頰傷の男の事は、風景や建物の一部のように、視界に入っても意識を向ける事なく対処していた。
頰傷の男に代わって、『紫の驢馬』がティオに静かに頭を下げた。
「ティオ殿、私の部下が失礼な態度をとって申し訳ない。」
「いえいえ、全然気にしていませんよ。俺は周りから、ヘラヘラしてるとか、信用ならないヤツだとか、しょっちゅう言われていますしね。むしろ、そういう風に思っていてくれる方がホッとします。俺なんかは、ぞんざいに扱われるのがちょうどいいんですよ。むしろ、ご老人のように、やけに丁寧に接してくれる人には、ずいぶん買いかぶられているんじゃないかって、ちょっと落ち着かない気分になるぐらいです。……まあ、それはいいとして……」
「それでは、昨日の『黄金の穴蔵』での事は、もうこれ以上触れる必要はない、と受け取って構いませんか?」
「もちろんです。先に言いました通り、ティオ殿の行動を咎める気なら、昨晩店を出る前に止めておりますよ。時間が経った今更蒸し返して非難しようなどとは更々思っておりません。ティオ殿がドミノ牌を裏からでも見分けていた話など、貴重な裏話が聞けて、非常に興味深かったです。そして、卓越したドミノの腕を持つあなたに、改めて賞賛の気持ちを伝えたかった。純粋にそれだけです。……どうかもう、昨晩の『黄金の穴蔵』での事は気にしないで下さい。私も、過ぎた事を持ち出して因縁をつける小さな男だと思われたくはないですからな。」
「そうですか。では、これで『黄金の穴蔵』での話は終わりという事で。」
「はい。」
ティオと『紫の驢馬』は和やかに微笑み合って、一旦話を切った。
が、大きな問題が一つ片づいたように見えるこの現状で、実は新たに大きな問題が浮かび上がってきている事を、ティオはしっかりと感じ取っていた。
「それで、改めてお聞きしますが、俺に話というのはなんでしょう?」
そう、『紫の驢馬』は、先程頰傷の男をたしなめる時に「これからティオ殿と大事な話がある」と言っていた。
つまり、言い換えるなら、「今までの話はさほど重要ではなかった」という事になる。
『紫の驢馬』にとって、昨日の『黄金の穴蔵』での一件は、ティオとの会話を進める上での潤滑油のような役割、いわゆる話の枕に過ぎなかったらしい事をティオは察して、内心ゲンナリした気分になっていた。
まあ、少々パンチの効いた世間話ではあったが、ここまでの会話でお互いの考えや人柄を知る事が出来たので、全く必要のない会話という訳ではなかったとは思うものの……
この先『紫の驢馬』が自分に対してどんな腹づもりでいるのか、ティオにも想像がつかず、憂鬱な気分になってくる。
こちらを利用しようとしているのか、仲間に引き込もうとしているのか、なんなのか。
もっとも、そんな気持ちはおくびにも出さず、いつもの能天気な笑みを顔に貼りつけている辺りは、やはりティオだった。
『紫の驢馬』は、上等な陶器のカップの繊細な取っ手を指で摘んで持ち、少し喉を潤してから語った。
「実は、ティオ殿にお尋ねした事がいつくかあるのです。」
□
「ティオ殿は、私の事をどう思っておられますかな? いや、私達のような者、と言い換えた方が良いでしょうか。」
「と、言いますと?」
「先程ティオ殿は、自分もかつては盗賊団に入っていた事がある、と言っておられましたな。また、私がこのナザール王都の裏社会を長く仕切ってきた事を、『裏社会に秩序をもたらした』『それは結果的に、陰ながら王都の発展に寄与する事になった』と評価して下さいました。なので、ティオ殿が、我々のような表の社会から零れ落ちた者達を頭ごなしに否定している訳ではないというのは理解出来ました。ですが、念のために、もう一度尋ねておきたかったのですよ。」
「世の中には、我々のような裏社会に生きる人間を『完全な悪』と決めつけて見下す人間も多くおります。そういった人々は、まあ、裏の社会に関わる事のない恵まれた人生を歩んでいるのでしょうな。陽の当たる道をずっと歩んできた人間には、社会の影に身をひそめるように生きていかねばならなかった人間の事情や心情は分かりますまいよ。彼らにとって、私達のような人間は、社会にとってのゴミ、汚物、あってはならないもの、滅ぶべきもの……ようするに『悪』なのですよ。太陽の下で、国王の敷いた法にのっとって、健全な経済活動や生活を営んでいる自分達の事を『善』だと思っているのでしょう。我々のような落伍者が居るから、この社会は良くならない、犯罪はなくならない、街には闇が巣喰い、人間の心は汚れたままだ、そう思っているのでしょう。つまり、私達のような裏社会の人間や犯罪者をすべて排除すれば、この世界は良くなる、いや、むしろ、悪を完全に消し去る事でしか、完全に善良で清らかな世界は訪れないない、そう信じているかのようですな。」
「しかし、世の中は、そんな簡単なものではない。善と悪、白と黒、そうハッキリと分かれているものばかりではありません。……その事についてはティオ殿も言っていましたな。世の中は、実は全てが灰色で、白に限りなく近いものや、一見真っ黒に見えるものなど、濃淡があるだけなのかもしれないと。……そう、例えば、この世界から、黒に見えるものを完全に排除したとしましょう。するとどうなるか? 世の中が全て白一色になる? 私はそうは思いません。私は……『それまで白として扱われていた白の中で一番黒に近い灰色が、次は黒として扱われて排除の対象になる』……そう考えています。つまり、黒を排除したところで、黒がこの世から消えてなくなる事はなく、新たな黒が生まれるだけなのではないかと、思っている訳です。……真っ黒なものの次に、大体黒いものが消され、そこそこ黒いものが消され、半分ぐらい黒いものが消され……しかし、どこまでいっても真っ白にはならない。なぜなら、人間というものは、元々真っ白ではなく、白と黒が混じった灰色だからだ。まあ、実際に黒が濃いものから徐々に消していったとしたら、どこかで黒と白の数の逆転が起きてしまうか、あるいは、それよりも前に、黒と認定されたものが反発して反乱を起こし、それまでの社会構造が壊れる、といった所ではないでしょうか。……と、少し話が抽象的になり過ぎてしまいましたな。」
「要するに、世の中には、自分の事を『善』であり『正義』であると捉え、我々のような社会の構造からはみ出した者達を『悪』であり『社会を腐敗させる原因』であると考えて、排除しようとする者達が少なからず居るという事が言いたかったのですよ。……しかし、現実では、いくら我々のような裏の社会に生きる人間を淘汰した所で、世の中は彼らの理想とする完全に善良で清らかな社会にはならない。次から次へと、我々のように『善』や『正義』に反するものが湧いてきて、一向に滅ぶ気配がない。それもその筈、彼らが思っている『社会を腐敗させる原因』は、社会の中のごく一部の、私達のようなはみ出しものが生み出している訳ではないのだから。」
「では、何が『社会を腐敗させる原因』なのかと問われれば、私は『人の心』と答える事でしょう。」
「誰しも、人間の心には美しい部分もあれば醜い部分もある、そう私は考えております。……まあ、熱心な光の女神教徒の神官様などは、『元々人の心は美しく出来ていて、それがなんらかの原因で汚れてしまっているのだ』などとおっしゃるのかもしれませんがね。そして『自分の心の汚れを捨て去る事で、光の女神様の御許へとゆく事が出来るのだ』と。確かに、広い世界ですからな、中には完全に清廉潔白と言えるような人間も居る事でしょうが、そんな人間は本当にごくごくわずかではないでしょうか。私には、人間というものは、大なり小なり醜いと言われる部分を持っているのがごく普通の状態に思えますな。何をされても怒らない、どんなものをも嫌わない、人が嫌がる事を喜んでやり、滅私奉公で自分の人生の全てを他人や社会のために尽くす……そんな人間が居たら、むしろ、気持ち悪く感じてしまいますな。お綺麗な理想を寄せ集めて凝りかためた人間像は、むしろ人間らしくない。……馬鹿にされれば怒るのは当たり前、傷つけられれば防御するのは当たり前、自分の利益が害されれば反撃するのは当たり前、違いますかな? それをしないのは、もはや人間として生きているとは言えないと私は思います。」
「怒り、悲しみ、恐れ、警戒、こんなもの、汚れでも腐敗でもなんでもない。現に、人間の心には、もっともっと醜いものがある。……他人を自分と同じ人間とは思わず、思いやりの心を持たず、罵り、虐げ、支配し、搾取する。このナザール王国は幸い禁止されておりますが、世界には奴隷を売っている国もあるそうですな。そこまでいかずとも、本人は立派な事業で儲けを出して社会に貢献していると思っていても、実際は使用人を安い賃金で奴隷のごとくこき使っているというのは良く聞く話です。金や権力の有る無し、生まれや今属する地位の高低、容姿の美醜、頭の良し悪し、そういった様々な違いを、すぐに他人と引き比べて、ちょっと自分が優れていると思えば鼻高々になり、劣っていると思えばうつむいて運命を嘆く。あるいは、自分より劣っている者を踏みにじって悦に浸り、優れている者を僻んで誹謗中傷し鬱憤を晴らす。そんな人間、石を投げれば当たる程、この世界にはごまんと居るではないですか。まあ、自分の利益のために他人を踏み台にする事を厭わない人間だけでも、相当な数居る事でしょうな。……私は、人間とは誰しも醜い部分もあると考えおりますし、それが人間らしさでもあると肯定してもいますが……ものには限度というものがありますな。さすがに、周囲の人間を傷つけてもなんとも思わずに身勝手に振舞い続けるようなあまりに有害な輩は、私の手の届く範囲内では、私の独断によって処断しておりますよ。」
「まあ、とにかく、我々裏社会の人間を社会のゴミだとのたまう者は、まず手始めに自分の心の内を良く良くのぞき込めと、私は常々思っている訳ですよ。そうして、自分の心が完全に清らかで一点の曇りもないと天地神明に誓って言い切れる者だけが、他人の醜さを非難出来るのだとは思いませんかな? 果たして、この世に、そんな人間がどれほど居る事でしょう。」




