野中の道 #12
(……素晴らしい!……)
『紫の驢馬』の通り名で王都周辺の裏社会では知らない者は居ない小柄な老人は、深めに被った麻の帽子のツバを指で摘んで少しズレていた位置を直すと、気分を落ち着かせようとお茶の入った陶器のカップを口に運んだが、取っ手を持つ指は微かに震えていた。
(……この若さでこの知力!……いや、若さはもはや関係ないか。いくら歳を重ねてもこの域に到達する者は限られている。つまり天分。ほんの一握りの、いやいや、見渡す限りの砂漠の砂の中から一粒の宝石を見つけるようなものだ、こんな人間に出会える確率は。……『黄金の穴蔵』では個人的な会話をする事は叶わなかったが、こうして真正面から対峙すると、改めてこの男の飛び抜けた才能に圧倒される。まさに異才!……)
(……私は今まで何人もの部下に、「組織の首領になる気はなかった。気づいたらなっていた。」と話したが、理解した者は誰一人として居なかった。皆、巨大な組織の頂点に立つ者は、その地位と権力を渇望し、誰よりも貪欲に周りを食い散らかし、敵を蹴落としてきた者だとばかり考えていた。……)
(……確かにそういう組織は山とあるだろう。特に少人数で思いつきで行動するような組織なら、全員で殴り合って最後に立っていた者がボスになるといった状況も多い事だろう。……しかし、構成人数の多い巨大な組織ともなれば、それだけでは駄目なのだ。腕力に野心、頭の良さと胆力、それらが全て揃っても、まだ足りない。他の多くの人間にはない「何か」が、巨大な組織のトップに立つ人間には必要だ。「何か」を持っていなくてはならない。その「何か」がなんであるのかは、私自身でさえ良く分かっていない所がある。しかし、確実に言えるのは、その「何か」がない者は頂に立つ事は出来ないという事だ。……)
(……そう、まさにこの男が言ったように、人がその地位を望み選び勝ち取るのではなく、その地位こそが、最適な人間を選んで自分の元に引き寄せるかのように。……もしも、その地位に値しない人間が権力を握ったとしたら、どんなに優れた法や制度を定めようとも、組織は、あるいは社会は、いづれ内側から瓦解する。資質の足りない分量によって、崩壊が早いか遅いかの違いでしかない。……この私が何十年とナザール王都の裏社会の首領の地位に居続けているのは、私がこの地位に相応しい人間だったからだ。私には、この地位に収まる資質があった。私は「何か」を持っていた。……これは、決して自慢や傲慢で言うのではない。極めて冷静に自分が歩んできた人生を省みて分析した結果、そうとしか考えられないから言っているのだ。……)
(……だからこそ、私は探し求めていた。自分がいずれ老いて、この地位を担う力が衰えた時、私の築いてきたこの秩序ある巨大な組織を託せる人間を。私と同じ「何か」を持つ者を。……しかし、ついぞそんな才の持ち主に出会う事のないまま、私はここまで歳を重ねてきてしまった。もう、自分の人生の終わりが見える所まで、時間の中を歩いてきてしまった。人間は誰しも老いからは逃れられない。どんなに危険を避け、自分の体をいたわって生きたとしても、この世に生きていられる時間は限られているのだ。……)
(……ここまで来ては、もう生涯見つかる事はないと思っていた。すっかり諦めていた。それなのに……ついに、私が長く求め続けた、この強い光を宿した人間に出会えるとは!……)
(……この男は、私が望んで王都の裏社会の首領の地位に就いたのではない事を理解していた。この男は、私と同じ視点を持っている。つまり、私と同じ「何か」を持っているという他ならない証拠だ。……)
(……この男こそ、まさに私が探し続けていた人物……いや……)
『紫の驢馬』は表情こそ変えずにいたが、内なる興奮と感動でもはや味が感じられなくなったバターと塩のたっぷり入った茶を口に含み、老いた喉を動かして飲み下して、その後、深く長いため息を吐いた。
(……良過ぎる。……)
(……この男では、むしろ地位の方が不釣り合いだ。この男は、ナザール王国などという辺境の小国の、しかも裏社会に居るべき人間ではない。たとえそれが、どんな巨大な組織の頂点であろうともだ。……この男に相応しいのは、もっと大きな、もっとこの世界にとって重要な……参ったな、私の想像の範疇も超えるか。……)
(……まあ、どの道この男はどんな条件を提示した所で私の後釜になど座ってはくれまいよ。元より金や地位、権力といったもので動く部類の人間ではない。その程度の人間なら、こんなに私も欲しがりはしないのだが、欲しいもの程手に入らないというのも人生皮肉なものだ。……)
(……それに、会談のはじめに、先手を打たれて釘を刺されてしまっていたのだったな。……)
『紫の驢馬』は、自分がそろそろ引退を考えている事を告げた時のティオの言葉を思い出していた。
『……この世界の長い歴史を顧みるに、どんなに優れた制度を作り、ひいき目なく能力のある者に地位を与えた国であろうとも、滅びる時は滅びるものです。……』
『……これは俺個人の意見ですが、どこかで諦めるのが肝要だと思っています。自分が生きている時はともかく、自分の死後まで永遠に理想を貫く事はどだい不可能です。自分の生きている範囲で出来る限りの事をすれば、それで良いのではないでしょうか。それ以上の事を求めるのは、人間のなせる範疇を超え、いらぬ執着と未練を執政者の中に残す事になるだと思っています。……』
ティオが、『紫の驢馬』の中にわずかにあった、自分が長い年月をかけて築き上げた秩序ある組織への誇りと執着を見抜いていたのかは分からない。
ただ、一般論として「歴史上どれ程優れた国家であっても滅びなかった国はない」という話を、会談の導入として世間話的にしただけなのかもしれなかったが、それは、自分の後継者が見つからずにいた『紫の驢馬』の現状に、存外刺さる結果となってしまっていた。
(……確かに、なるべく長く組織が秩序を保ち安泰である事を願ってはいるが、それも私が死んだのちはどうする事も叶わない。人間は皆、妻や子供や孫といった家族、仕事に友人、財産、地位、名誉、人生をかけて積み上げてきた様々なものに執着を持つが、ひとたび死んでしまえば、どれ一つ思い通りにはならないものだ。それが「世界の道理」か。ならば私も、後進を育てつつも、あまり強い願望を抱かぬ方が良いのだろう。後は野となれ山となれ、という程無責任な事は出来ないが、どこかで自分から今の地位を、この組織を、手放すべきなのかもしれないな。……フフ、まだ足腰の確かな内に引退を決め込んで山の中の小さな村に引きこもり、日々畑や家畜の世話をして過ごすのも楽しいかもしれない。……)
(……私をこんな気持ちにさせるとは、やはりこの男は「何か」を持っているのだろうな。……昨晩の『黄金の穴蔵』でもそうだったが、この男自身は全く意図せず、何人もの人間の人生の岐路に立ち会う事となった。まるで運命の神ででもあるかのように。そして、彼らは、これまで歩んできた自分の人生に相応しい道を自ら選び進んでいく結果となった。……ドゥアルテは、これまでの放蕩のツケを払って落ちてゆき、腹違いの弟のチェレンチーという男は、逆にドゥアルテから完全に解放されて自分の新たな生き方を見つけたようだ。長いことくすぶっていた貴族の三男も、ようやく腹を括ったようであったし、地方の地主は、全財産を失いかけたおかげで家族の大切さに気づけたらしい。……)
(……この男の周りには、目に見えない強風が常に渦を巻いて吹き荒れている。巨大な幸運と巨大な不運が目まぐるしく入れ替わり降りかかってくる。近づき過ぎれば、あるいは、こちらの身がバラバラに千切れ飛ぶ事もあるかもしれない。いかにこの男が比類なきまばゆい輝きを秘めた人間であると言えど、欲をかいて強引に手を伸ばせば、私でさえも危うい。そんな勘が、ピリピリと肌を刺すようにしている。……見た事のない黄金や宝石の詰まった宝箱の前で、強烈な欲望や羨望に目がくらむのと同時に、生命の危険を覚える底知れない恐怖を感じているかのように。……)
(……この男には、あまり深くまで踏み込まないのが吉だ。……この男は、私の手に余る。到底、私のたなごころに収まる人間ではない。……)
麻の帽子を被った小柄な老人は、未だ半分以上茶の残っているカップを静かに受け皿に戻した。
□
(……まあ、それはそれとして、この「ティオ」という男がどんな人物なのか、未だ底の見えない彼の人物像に、興味は尽きないがな。……)
それは『紫の驢馬』の趣味のようなものだった。
いや、実際には、『紫の驢馬』には趣味らしい趣味がない。
それ以前に、彼は、世の中の人間が「裏社会の首領」と聞いて思い浮かべるような……
豪華な食事をとって、高価な衣服に身を包み、毎夜何人もの美女をはべらせて豪邸に住む、といった生活からは程遠い毎日を送っていた。
彼は規則正しくシンプルで健康的な生活を心がけており、時にそれは、はたからは、酷く質素に見えるものだった。
毎朝決まった時間に起き出し、簡素な木綿や麻の服を着て、黒パンとスープと茶で朝食を素早く済ませる。
その後、幹部の報告を聞き、書類に目を通し終え、余った時間で本を読んでいると、大体昼頃になっている。
軽く昼食をとり、王都の街を下町を中心に二時間程自分の足で散策する。
街の空気を肌で感じるためと、日々老いゆく体を適度に動かして足腰を健康に保つ意味もあった。
夕方昼寝をし、夕食の後、夜は繁華街に居る事が多かった。
『黄金の穴蔵』で従業員服姿で働く事もあれば、その他の店の厨房などで裏方に混じって皿洗いや掃除をしている事もあった。
そうして、組織の持っている店の経営状況を観察しつつ自ら労働に従事する事で、程良い充足感を得て、夜が更ける頃に王都の下町の一角にある家の寝室で眠りにつく。
今日のように特別な客との会談が入って、高価な酒を開けながら豪華な肉料理を囲む事もあったが、基本的にあまり肉も魚も食べず、パンとスープに添える料理は野菜、豆、芋、きのこ、といったものが多かった。
煙草は吸わず、酒も客が居る時に付き合いで飲む程度だった。
彼が住んでいるのもまた、組織が所有している家の一室で、そこに、彼の警備をする役目の者を含め、部下達十人程と共に暮らしており、特別な豪邸を所有している訳ではなかった。
家の中も、何人もの人間が寝起きし、会議が出来るような広さはあるものの、食堂と居間と寝室があるごく一般的な造りで、テーブルやベッドといった家具もまた簡素な木製のものばかりだった。
同程度の階層の民家との違いは、ほとんど余計な物が置かれていない事だったろう。
普通の家庭は、生活していく内に、何かのきっかけで買ったり貰ったりと手に入れた物を、記念や生活の彩りとして、あるいは特に意味はないがなくなんとなく飾ってあったり置いてあったりと雑然としていくものだが、彼の住む組織の家にはそういった人の生活を感じさせるものが全くなかった。
まるで、昨日越してきたばかりのようであり、逆に明日引っ越していくかのようでもあった。
実際、彼の命を狙う敵に居場所が知られるような事件が起これば、別の場所に用意している同じようないくつかの家の内の一つを任意で選んでにサッと移れるように手配してあったが、この十年以上そんな危険にさらされる事もなく、それでも万全を期して不定期に腹心の部下達と共に住居を移動していた。
彼は、基本的に自分の身の回りの事は自分でなんでもする人間で、着替えも料理も時間があれば自分でさっさとしてしまう。
頭目が、自分達より朝早く起き出し、居間を箒で掃いたり、茶を入れたり、時には庭に適当に植えてあった木の手入れをしたのちに皆の洗濯物を干したりするので、部下達が酷く恐縮する場面もあった。
『紫の驢馬』には家族が居なかった。
城門を出た市民墓地の一角に置き捨てられていた赤子を貧民街に住む住人が哀れに思って拾ってきたというのが、彼の出生で、生みの親の顔を知らずに育ち、大人になってからも特に妻や子供といった特別な関係性の人間を欲しいと思った事がなかった。
若い頃は関係のあった女性も何人か居たが、それぞれその後に彼なしでやっていけるよう生活の面倒見て、今は完全に切れている状態だった。
彼には、幹部をはじめとした信頼出来る部下が多くおり、また組織の人間は末端まで数えるとゆうに千は超えていたが、しかし彼自身、部下に特に強い愛情や思い入れがあるかというとそうではなかった。
あくまで首領である『紫の驢馬』の立場は公平であり……
仲間が困っていれば手を貸し、手柄を上げれば褒賞を与え、一方で、怠惰なの者や失敗を犯した者は罰し、裏切り者や敵対する者は容赦無く切り捨ててきた。
彼の家族は、組織に属する者達とも言えたが、そうでないとも言えた。
大きな組織に属する者は、時に自分をその組織を構成する部品のように感じる事があるものだが……
そういった意味では、『紫の驢馬』にとって、組織は彼の所有物ではなく、彼自身が、誰よりも組織の忠実で精巧な部品であった。
ただ、部品とはいっても、替えのきかない最も大きな部品であったが。
そんな、人生の大半を、黙々と淡々とストイックに、ナザール王都を中心とした裏社会の秩序維持に努めてきた『紫の驢馬』の現在の唯一の楽しみとも言えるものが、人間観察であった。
『紫の驢馬』は裏社会の組織の首領という立場上、たくさんの人間に出会い、またその人間を見極めてきた。
彼には元々鋭い観察眼と洞察力があり、それに長い人生の中で培われた経験が磨きをかけていた。
そうなってくると、彼が出会う数多の人間の中で、際立った個性の持ち主がパッと一眼で見抜けるようになってくる。
『紫の驢馬』は、自分の人生やその功績、体験などを後世に残す事に全く関心がなかったため、日記のようなものはつけていなかった。
もしそういった日記やメモのような自分の情報が何かの間違いで他人の手に渡るような事もまた、王都の闇に溶けて姿をくらまし生きている彼の望む所ではなかった。
故に、文書にしたためる機会はなかったものの、いつしか彼は、自分の頭の中に、自分の出会った人間の記録を残していっていた。
さしずめ「人間図鑑」といったところだろうか。
中でも「印象に残る個性を持った人間」は、彼に取って貴重な記録となった。
子供が蝶を捕まえて、その美しい文様や珍しさを愛で、時にコレクションするように、『紫の驢馬』も、自分の出会った特異な人物を彼の記憶の中に集めるのが密かな楽しみとなっていた。
そんな個人的な興味を持ってして、『紫の驢馬』は、今自分の目の前に居る、今まで彼が見てきたどんな人物よりも「人間の範疇を逸脱した」青年を、細い目を一層細めてジッと見つめていた。
「ご老人、この木の実、実に美味しいですね! 名前や形状は知っていたんですが、なにぶん大陸東南部でしか流通していない上に貴重なもので、なかなか実際に食べる機会がなかったんですよ。……あ、もう後二、三個食べてもいいですか?」
「どうぞどうぞ、お気に召したなら、私に構わず全て召し上がって下さい。なんでしたら、追加を持って来させてましょうか?」
「いえいえ、さすがにそれは悪いですよ! これで充分です。……いやぁ、美味い! いい記念になりました!」
ティオは、自分を密かに観察している『紫の驢馬』の真意を知ってか知らずか、能天気に皿の上の木の実に手を伸ばし、パクパク口に運んでいた。




