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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第二節>紫の驢馬
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野中の道 #9


「俺がいつご老人の正体に気づいたか? ですか。」


 ティオは、テーブルの中央に置かれていた平皿の上に並べられた焼き菓子を一つ手に取り、ポリポリと齧りながら言った。


「『黄金の穴蔵』に入ってすぐ、ですかね。」


「店に入ってぐるりと一通り中の様子を見回したんですよ。初めて来る所でしたし、どんなふうになっているか内部の構造を把握しておきたかったんです。いざという時の退路を確認する意味もありました。その時、赤チップ卓の壇上で、従業員用のえんじの制服を着て働いているご老人の姿が目に入ってきたんです。それで、『ああ、この人が噂のナザール王都の裏社会のドンかぁ』と思ったという訳です。」

「一目見ただけで気づいたのですか。それは……参りましたね。」


「これでも、『黄金の穴蔵』では、十年以上従業員として働いてきたのですがね。もちろん毎日という訳ではありませんが。時間が空いた夜は、あそこで一従業員として勤めてきました。……先程『趣味なのですか?』と聞かれましたが、確かに趣味のようなものかもしれませんね。『紫の驢馬』としての名前が知れ渡り、周りの人間は、私を敬う者か、恐れる者か、あるいは憎む者かの、大体三種類だけになってしまいました。ですが、従業員の服を着て、『黄金の穴蔵』に立っていると、誰も私の事を『紫の驢馬』とは思わず、普段の素顔を見せてくれるのですよ。一般人にまぎれて、王都の夜の底から眺める風景や人間模様は、『紫の驢馬』として夜の街を見下ろす時には、見えてこないものだったのです。いくら部下達の報告によって王都の裏の状況を把握しているとはいえ、すっかり『紫の驢馬』としては人前に出る事のなくなったこの身といたしましては、たまにはあんなふうに一従業員に身をやつして賭博場の喧騒の中に居ないと、現場の空気を忘れてしまいそうな気がしましてね。夜の街の空気を、自分の肌で感じていたかったのですよ。」


「いやはや、それにしても、私としてはすっかり『黄金の穴蔵』の従業員としての立ち回りも板についていたと思っていましたが、まさか、一目で正体を見抜かれてしまうとは。まだまだ、私も未熟者ですな。老い先短くなったこの身で、研鑽の時間が残っていると良いのですが。」

「いえいえ、ご老人は、どこからどう見ても、立派な『黄金の穴蔵』の従業員でしたよ。」

「しかし、あなたは、すぐに私の正体に気づいてしまった。何か、私の言動に違和感を覚えるような要素がありましたかな? この機会に忌憚のない意見をうかがいたい所です。」

「アハハ、単に俺の勘が当たっただけすよ。山勘もまた勘、という言いますか。俺は昔から勘はいい方なので、たまたま当たったんです。そう、本当にたまたま。ご老人の従業員振りは完璧だったと思います。……ただ、まあ、難を言えば……」


「完璧過ぎ、だったでしょうかね。」


 ティオの意外な返答に、『紫の驢馬』はシワに埋もれた細い目を少し見開き、興味深そうに「ほう」と発した。


「天下の『黄金の穴蔵』も、その賭博場を象徴するような赤チップ卓周りの接客を一手に引き受ける人間となると、まず、当然として、計算が出来ないといけませんよね。正確さは必須なのに加えて、客を待たせないように、なるべく早くスムーズに。それから、赤チップ卓の客は店へのツケを許されている上顧客なので、借用書を書く場面もある事でしょう。昨日俺がドゥアルテさんとした最後の勝負のように、客同士の同意のもと特殊なルールや契約を結んで勝負を行う場合、後になって揉めないよう書面に起こしておく事もあるかもしれません。そんな時、第三者の立場としてその書面を確認する必要も出てくると思います。要するに、文字が読めて書く事も出来ないといけない。」


「ご老人は、この食堂のテーブルで俺が来るのを待つ間、何かを読んでいましたよね。おそらく、あなたが仕切っている組織の各部署から上がってきた報告書だと思います。そこには、各店舗の売り上げや営業状況、問題点の報告、他には、対立している別組織の情報など様々なものが含まれているのでしょうが、あなたはそれらをスラスラと読み進めていた。文書での状況把握と処理にとても慣れた人だという印象を受けました。まるで、王宮勤めの高位の文官のような雰囲気でしたよ。」


「そんな、一般市民を逸脱した高い教養と技能を持っていて頭脳労働の出来る人物が、王都の繁華街で人知れず働いている事に違和感を感じる人間は、少なからず居るのではないでしょうかね? まあ、『黄金の穴蔵』のオーナーが、あなたの能力を高く買って、自分の使用人として雇った、と言うのなら、一見辻褄は合いそうですが……しかし、だとしたら、それはどこから?……あなたの教養や技能は、ここナザール王国の一般的な貴族のそれに匹敵するか、それよりも高い水準でしょう。落ちぶれた貧乏貴族を金にあかせてスカウトして裏社会に引き込み、自分の秘書に据えて重要な事務処理仕事を任せるために囲い込んだ、なるほど、そんなケースもあるかもしれません。……ですが、あなたからは、貴族や富豪の家で育ってきた人間のような気配は、全くしていませんでした。」


「貴族とか、富豪とか、そういう、子供の頃から何不自由ない環境で育った人間には、特有の気配というか、雰囲気がありますよね、ご老人なら分かってくれると思いますが。上手く表現出来ずにすみませんが、こうふわっとしていると言うか、のんびりしていると言うか。良く言えばおおらか、悪く言えば甘い、という感じですかね。その後の人生で、不幸にも転落し、裏社会に入っていくつもの修羅場をくぐり抜ける事になったとしても、そういった雰囲気はどこかに残っているものです。『三つ子の魂百までも』とは、まったく良く言ったものです。……そうですねぇ、ご老人からは、そういう『表』の不純物は微塵も感じられませんでした。幼い頃から社会の底辺を這いずり回るように必死に生きて、青年になってからは、裏社会で常に命の危険にさらされながら人がやらないような危険な事にも手を染めてきた、そういう人間が持つ隙のないひりつくような鋭い気配。そんなあなたの身にまとった独特の気配は、何不自由ない貴族生まれの人間がいつまでたっても甘さが抜けないように、多少笑顔を綺麗に取り繕った程度では完璧に隠せるものではありません。……あなたは生粋の裏社会の人間だ。そうでしょう、ご老人?」


 ティオは、遠慮なくまた手を伸ばし、テーブルの中央の皿から、上に香草を飾った四角い焼き菓子を手に取って、口に運んだ。


「俺が特に気になったのは、あなたの発する言葉でした。全くと言っていい程癖がない。」


「社会の底辺で生きている人間は、生きていくために裏社会と関わる事が多いですが、そういう者は大体言葉遣いが荒い。貧民街や、裏社会特有の語彙や発音の仕方、言葉遣いってありますよね。その辺りでも、大体その人物が社会におけるどの階層に属しているか分かってくるものです。しかし、ご老人の話し方には、全くその癖がなかった。上流階層の人間のように、とても綺麗なものでした。」


「それどころか、訛りさえもなかった。……この辺りの地方に住む人々は、言語体系こそ、この中央大陸で最も広く使われているいわゆる『中央大陸語』ではありますが、大陸東南部独特の訛りがあります。その傾向は、人の行き来の少ない山奥などの田舎に行けば行く程強くなり、特に高齢の方は同じ『中央大陸語』とは思えないぐらい強い訛り方をしています。そんな強烈な訛りはさておき、このナザール王都辺りまで出てくると、訛りもある程度薄くなってきている事もあって、自分の訛りを気にする人間はほとんど居ない状況です。ひと所に定住してどこにも移動しない人間はもちろんの事、この近辺の国々を行ったり来たりして生活していたとしても、皆同じ訛りがあるので、特に違和感や辺境の地という劣等感を覚える機会がないせいでしょう。むしろ、大陸中央部のアベラルド皇国の人々の話す所を聞いたら、遠い異国の訛りに感じられる事でしょうね。今や、かの皇国の発展により、大陸中央部の発音はこの中央大陸の標準という認識が広まっていますが、ナザール王国の辺りまでくると、その認識も相当希薄になってくるようです。このナザール王国では、貴族でも多少訛って喋っている人が多いですからね。高い教育を受けて教養を身につけている上流階級の人間でさえ、自分が訛っているという意識がないのでしょう。だから、それを直そうなどとは考えない。……そんな中で、全く訛りのない、つまりアベラルド皇国のある大陸中央部の発音で話すご老人は、かなり異質に感じられましたよ。」


「人生の大半を、この土地から離れず、裏社会の喧騒に身を置いて過ごしてきたであろうあなたが、貴族や金持ちの家の子息のように家庭教師を雇って読み書きの教育を受けたとは考えにくい。となれば、全て独学、という事になるでしょうか? 裏社会の粗暴な言葉が飛び交い読み書き算盤を身につけようなどという意識のない輩ばかりの環境で、自分の言葉遣いを正し、コツコツと独学で貴族に負けない程の教養を習得し技能を磨いてきたあなたの向上心は、特筆すべきものだと思います。元より飛び抜けて頭が良く、かつ自己研鑽を惜しまないストイックさがなければなし得なかった事でしょう。」


「しのぎに成功した後、仲間達が朝まで酒盛りをしたり女遊びにふけったりしているような時、あなたは一人で机に向かい、本を読み文字を書いて、黙々と自己研鑽を積んできたのではないのですか? 裏社会でのし上がるためには、また、のし上がったのち、表の社会の人間とも同等に渡り合っていくためには、仲間の誰よりも優れた知識や教養や技能が、あるいは表の社会の権力者である貴族にも勝るとも劣らないそれが、絶対に必要だとあなたは確信していたのでしょう。その深謀遠慮でより高みを見据えた聡明さが、そして、何年もコツコツと一人きり努力を積み重ねてきたその忍耐強い精神が、あなたをナザール王都の裏社会のトップにまで押し上げた要因なのでしょうね。」


 ティオは硬めに焼かれた菓子をパキリと齧り折って、フフッと笑った。


「そんな傑物には、そうそうお目にかかれるものではありません。」


「それが『黄金の穴蔵』のような、裏社会の縄張りの真ん中なら尚更、一体どんな人物なのだろう? と思うのは当然ですよね。只者ではないと気づきます。」


「また、『黄金の穴蔵』で従業員の制服を着て働いているのは、二十代から三十代半ばの若い人達で、七十代半ばといった見た目のご老人は一人異質に見えました。……まあ、でも、あの店にやって来るの人間のほとんどは、従業員の人間性や背景など全く興味がないでしょうからね。ギャンブル狂の考えている事なんて、勝負の事と金の事と、せいぜい対戦相手の事ぐらいでしょう。一従業員として働いているあなたに興味を持って注意深く観察する者は、まず居なかったのではないですか? あなたと接する機会が最も多かった筈の赤チップ卓の常連客も皆、あなたの事は、ただの接客の上手い年寄りだと思っていたようでしたね。」


「俺は、『紫の驢馬』という通り名で知られる人物のおおよその外見を知っていたというのもあります。あなたは身の安全を確保するために、もう何十年も『紫の驢馬』として人前に姿を見せていませんでしたが、あなたが若くてまだ血気盛んだった頃の逸話はいくつも残っています。そこから組み立てられるあなたの外見的特徴は、小柄な男性で、現在の年齢は七十代半ば、左肩にロバの刺青をしている、というものでした。さすがに入れ墨の方は確認出来ませんでしたが、『黄金の穴蔵』の赤チップ卓周りに七十代半ばの小柄な老人で、裏社会に属しているとは思えない知識と教養と技能を持った人物が居たのなら、自然と、この王都の裏社会を仕切る例の人物が思い浮かぶというものです。」


「ハハ。と、まあ、今まで語ってきたのは後づけでしてー、本当に、店を入ってすぐ、あなたの姿を目にした時にピンときた、というのが全てなんですよ。その後、あなたの言動や立ち居振るまいを観察していて、大体こんな方なのだろうなぁと推察したんです。」


「俺の勝手な想像であなたの事を語ってしまってすみません。気を悪くされたのなら、申し訳ないです。」


 ティオはおどけたような仕草で肩をすくめてみせた。

 それまでずっと黙ってティオの話に耳を傾けていた『紫の驢馬』は、麻の帽子のつばの下から、向かいの席で飄々とした笑みを浮かべているうら若い青年をジッと見据えた後……

 フッと、こちらも砕けた苦笑を浮かべた。


「いえ、概ねティオ殿の推察通りです。」


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