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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第一節>眠り羊亭にて
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野中の道 #6


「ギャッ! 刃物っ!」


 料理を注文し終えると、『羊屋』の女将は一旦階下に降りていって、しばらくして飲み物を持って戻ってきた。

 しかし、ついでにテーブルの上に食事の準備をしようと、女将がティオのそばに銀のナイフを置いた途端、ティオは裏返ったけたたましい悲鳴を上げ、バババババッと即座にテーブルの下に隠れてしまった。

 ティオの想定外の異常な行動を前に、老人の後ろで控えていた頰傷の男は上着の下に専用のベルトを使って身につけているナイフに思わず手を掛け、女将は驚いて持っていたお盆を引っくり返しそうになっていた。

 老人だけは、テーブルの端に肘をついて指を組んだままだったが、さすがに、シワに埋もれた細い目を見開いて少々驚いていた。


「……怖い、怖い、怖い、怖いぃ! あああぁぁ、刃物怖い、怖いよぅー!……」


 ティオは、三人が呆然とするのも目に入っていない様子で、テーブルの下で膝をついてうずくまり頭を抱えてたっぷり一分以上ガクガクブルブル震えた後、ようやくヒョッコリと白いテーブルクロスから顔をのぞかせた。

 スッと立ち上がり姿勢を正したものの、まだその顔は蒼白で、ズレていた眼鏡を直す指先も小刻みに振動していた。


「……た、大変お見苦しい所をお見せしてすみませんでした。」

「……刃物恐怖症とはうかがっていましたが、食事用のナイフもダメでしたか。」

「は、はい。傭兵団では木で出来たスプーンかフォークぐらいしか出ないので、うっかり失念していました。」


 傭兵団の食事は、争いにならないよう、肉やパンは前もって調理場で一人分に切り分けられてから配膳されるのが常だった。

 概ね木で出来たスプーンとフォークで事足りるようになっており、どうしても食べにくい場合は皆手掴みで食べていた。

 と言っても、傭兵団が特に無作法だった訳ではなく、一般庶民にとって金属製のカトラリーは高価なものであり、また大きな肉をナイフで切り分けて食べるような豪勢な食事もなかった事から、王都でも中流以下の家庭の食卓では普通の光景であった。


「では、木で出来たフォークを用意させましょう。……おい、これを下げてくれ。」

「あっ! フォ、フォーク自体が要りません! すみません!……い、いや、傭兵団では他の団員達は使っていますが、俺はずっと木のスプーンだけで食べているんです。スプーンも、出来たら木製のものをお願いします。金属のあまりギラギラしたものだと、刃物を連想してしまって、やっぱりダメなんです。」

「そ、それは、さぞ不便で難儀されている事でしょうな。……傭兵団のような所は、毎日戦闘訓練を行なっていると聞きますが、そちらの方も木で出来た剣を使っているのですかな?」

「いやいやいやいや! 木で出来ていようがいまいが、あの形状はダメです! ちょっと思い浮かべただけで震えが止まらなくなります! 当然、木剣もまともに握れない俺は、戦闘訓練には全く参加していません! だからこその『作戦参謀』なんですよ! これも一種の役得と言えるのかもしれませんね、アハハハハ!」


 ティオは冷や汗をダラダラ流しながらペラペラと早口にまくし立て、女将が白いテーブルクロスの上に並べたナイフを片づけたのを横目でチラと確認してから、ようやくほうっと胸を撫で下ろしつつ元の椅子に腰を下ろしていた。


(……な、なんだぁ? この男、食事用のナイフを見ただけであんなにビビりやがったぞ! まだほんの若造だって言っても、武器の一つも扱えないなんて、良く傭兵団みたいな荒くれ者の巣でやっていけるな。それ以前に、人前であんなみっともない姿を見せて、男として恥ずかしくねぇのかよ?……)


 頰傷の男は、銀のナイフを見た時のティオの怯えぶりに呆れていた。


(……いくら頭が良くったって、コイツはダメだろう。いざという時戦えないようじゃあ、男じゃねぇ。親父は、一体なんでこんな若僧を高く買ってるんだ?……)


 確かに、ティオは、頰傷の男がこの『羊屋』とその周囲に敷いていた警備網をことごとく見破ってはいたが、この店が屈強な男達に取り囲まれている事を知っていながらも、呑気にやって来たティオの危機感のなさを、男は逆に内心あざ笑っていた。


 頰傷の男が属する裏社会の組織では、人々の尊敬を集める要素は、何を置いても「強さ」だった。

 最も分かりやすい「強さ」は腕っ節の強さだが、頰傷の男が尊敬している『紫の驢馬』が持っている圧倒的な権力もまた「強さ」と言えた。

 頭の良い者も一目置かれてはいたものの、腕力や権力の強さに比べると、その評価は大きく落ちる印象だった。

 そして、頰傷の男の生きる組織では、胆力のない者は、皆からバカにされた。

 いざという時に、真っ先に危険の中に突っ込んでいける勇気のある者がもてはやされるが、逆に、恐れて足がすくむ者は見下されて相手にされない。

 そんな価値観が一般的な環境にあって、頰傷の男は、自分の度胸に並々ならない自信を持っていた。

 男の頰傷は、以前喧嘩になった際、相手がナイフを抜いてきても、微動だにせず真正面から受けたためについたものだった。

 避けたり逃げたりしたならば、ここまでスッパリと大きな傷がつく事はない。

 男は、ナイフを持った相手に対して、一歩も引かず堂々と立ち塞がって対処した自分の度胸を誇りに思っており、また周囲の人間も彼を褒め称えた。

(……親父だって、俺のこういう所を買ってくれてるんだ。……)

 と、男は自負していた。

 実際、男が頰に大きな傷を負った顛末を聞いた『紫の驢馬』は、大きなため息を一つつき、「これからお前は私のそばに居ろ」と言って、それから男は『紫の驢馬』の最も近くを守る護衛の一人となった。


 しかし、今日、『紫の驢馬』が招いた青年は、全く男とはタイプの違う人間だった。

 ヘラヘラと笑って緊張感がなく、『紫の驢馬』の前で、「刃物が怖い!」とたかが食事用の銀のナイフに怯える情けない姿を見せた。

 だが、なぜか『紫の驢馬』は、このヒョロヒョロした見るからに頼りない男をとても高く買っており、王城に務める高位の貴族を招くのと同じぐらいの丁重さでもてなしていた。

 頰傷の男は、そんな『紫の驢馬』の意図が全く理解出来ず頭をかしげながらも、言いつけ通り『紫の驢馬』の後ろで、いつものように、「これが自分の使命」とでも言わんばかりに真剣に警備をしていた。


(……あの『黄金の穴蔵』で、たった一晩で金貨一千枚を稼いだ男だって言うから、警戒して、親父には内緒でいつもの倍の人数を配置したってのに。やれやれ、全く必要なかったな。……)


(……いや、待てよ! さっき食事用のナイフを怖がったのは、ひょっとして演技で、俺達を油断させるための……)


(……って、それはねぇか。あれはどう見たって演技じゃねぇよなぁ。……)


 頰傷の男は、先程のティオの大騒ぎを思い出して、唇の端を引きつらせて苦笑いを浮かべていた。


「うわっ! これは美味しいですね! 魚の身がほろほろと口の中で解けるように柔らかくて、それでいて外側はパリッと香ばしい! 下処理が丁寧で、香草の合わせ方が絶妙なんでしょうね、魚特有の臭みは全く感じません。つけ合わせの野菜も良いアクセントになって、一層魚の味を引き立てていますね。んん! やはり新鮮な食材は良いものですね! また、店主の腕も素晴らしい!」


 しばらくのち、頰傷の男は、運ばれてきた魚料理を両手に木のスプーンを持ったティオが、器用に小骨をスイスイと避けながら物凄いスピードで食べていくのを見て、また新たに呆然とする事となった。

 これには、老人も、卵に浸してバターで焼いたパンとミルクのたっぷり入った塩味のお茶を口に運びながら、苦笑いを浮かべていた。


「ティオ殿のお口に合ったようで何よりです。」



「いやぁ、すっかりご馳走になってしまって、なんだかすみません。」

「見事な食べっぷりで、見ているこちらも気分が良かったですよ。」

「お察しの事とは思いますが、傭兵団は貧乏世帯でして、こんないい料理は食べられないのですよ。それどころか、最近はあれこれ忙してくて、ゆっくり配給の食事をとっている暇もあまりない状況でして。まさに『貧乏暇なし』ですね。今日も昼飯にはありつけないかと思っていた所ですが、思いがけずこんなご馳走を振る舞ってもらえて、嬉しい限りです。」

「傭兵団のお仕事は想像以上に忙しいのですね。……良かったら、もう何品か追加で注文しましょうか?」

「いいんですか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます!」

「ええ、ティオ殿が満足のゆく限り、いくらでもどうぞ。……では、もう一度メニューを持ってこさせましょう。」

「ああ、それは大丈夫です。さっき見たので内容は覚えていますから。……うーん、そうですね、今度は、鴨のローストと、玉ねぎのパイ包みスープ、ビネガーソースを掛けたキノコのサラダと、後、卵料理も美味しそうですね、今ご老人が食べているものに、更にチーズを乗せて焼いたものを貰えますか? あ、飲み物は引き続き牛かヤギのミルクでお願いします。」


 ティオは、テーブルの端の置かれていたナプキンを手に取って口元をぬぐっていた所に、追加で頼んでいいとの事で、遠慮なくポンポンと食べたいメニューを口にしていた。

 女将が再び注文された料理を運んでくると、それも先程と同じ速さでみるみる平らげていった。

 頰傷の男の周りに居る人間は育ちの良くない者が多く、おかげで食事の際は、音を立てたり、汁を飛ばしたり、食器をガチャガチャ言わせたり、物を口に入れてクチャクチャ噛みながら喋くったりと、豪快を通り越して粗野な印象だったが、それに比べると、ティオの食べ方はあまりに異質だった。

 おそらく、頰傷の男やその仲間達よりも速くかつ多い量を食べているのだろうが、全くそんな感じを受けない。

 木のスプーンでどうやってそこまで、と思えるぐらい素早く綺麗に全ての料理を口に運び、音もほとんどさせず、零す事もなく、皿に残ったソースなども、千切ったパンで余さず吸い取って食べているために、食事を終えた皿は洗ったように綺麗な状態になっていた。

 ティオの前に運ばれてきた料理がみるみる端から彼の口に入って消えていく様子は、まるで手品でも見ているかのようだった。


「いやぁ、美味しかったです。心の底から堪能させていただきました。本当にどれも素晴らしい料理で感動しました。ご馳走様でした。」


 ティオはそう言って一応メインの料理を食べ終えたものの、食後のお茶と共に運ばれてきた焼き菓子をサクサクと摘んでいた。

 ここまで頰傷の男が把握している範囲で、おそらく、軽く五人前は食べ尽くしたと思われる。

 ようやく少し落ち着いて会話が交わせるようになった状況を見て、老人が話しかけた。


「本当にお忙しいのですね、傭兵団の作戦参謀という役職は。ゆっくり食事をとっている暇もないとは、大変ですな。」

「ああ、いえいえ、役職とは言っても俺が勝手に作ったもので、俺が自主的にやっている事ですから。ハハ、自業自得ですね。」

「しかし、多忙なのはあなたの代わりとなる優秀な人物が居ないので仕方のない事なのでしょうが、傭兵団で提供される料理の質の方は、これからはだいぶ向上するのではないのですかな? 何しろ、昨晩『黄金の穴蔵』において、莫大な儲けが出た訳ですから。」


 老人の発言で、ピリッとテーブルの空気に緊張が走るのを頰傷の男は感じた。

 ここまで、老人は、賭博場『黄金の穴蔵』における昨晩の出来事には全く触れずに、ティオと和やかに昼食を食べていただけだった。

 ここにきて、カチリと、華奢な取っ手を指で摘んで持っていた上等な陶器のカップを受け皿の上に置き、改めて向かいの席に着いているティオを、鋭い眼光を宿した細い目でジッと見つめてきた。


「いやはや、私も『黄金の穴蔵』という賭博場をあの場所に開いてから何十年と見てきましたが、昨晩のあなたのような勝ち方は初めて見ましたよ。たった一晩で巨万の富を築き上げるとは、まるで魔法でも見ている気分でした。いや、実に良いものを見せてもらいました。長生きはするものですな。私の残り少なくなった人生の内も、まさか、あなたのような方にお会い出来る事になるとは思ってもみませんでしたよ。」


 一見下町住まいのありふれた老人のように見えて、今やヒリヒリと肌を指す程に裏社会の首領としての威圧感を漂わせる老人を前に……

 ティオは相変わらず特に緊張した様子もなく、コクリと、自分の陶器のカップからたっぷりとバターとミルクの入った塩味のお茶を一口飲んだ。

 そして、ニッコリと笑って答えた。


「それは俺も同じですよ、ご老人。」


「まさか、傭兵団の資金を増やそうと入った賭博場で、このナザール王都の裏社会ではもはや伝説となっている幻の『紫の驢馬』その人に会えるとは思ってもみませんでした。」


「しかも、自分の部下を、鳥の羽を飾った怪しげなマントを着せて名ばかりのオーナーに仕立て、あなた本人は制服を着て、一介の従業員の振りをしながら『黄金の穴蔵』を観察しているとは。確かに、『黄金の穴蔵』は王都の裏社会にとって最も重要な資金源だというのは分かりますが。」


「裏社会の首領というご老人の立場上、あなたの命を狙う者は多く、身を隠す必要もあるのでしょう。しかし、実際に一従業員として忙しく立ち働いているだなんて。……ここまでいくと、趣味なのですか?」


 ティオは長い前髪に半ば隠れた黒い眉をしかめて、目の前の老人に問うた。

 普通なら不躾に思える内容も、深く柔らかな声色と、少しおどけたような口調、丁寧な言葉選びによって、相手に不快感を与えない上品な冗談に聞こえるのが、ティオの話術の妙だった。


 今ティオの目の前に居る……

 麻布で出来た素朴な帽子を被り庶民的な服を着て、静かに昼食後のお茶を楽しんでいる小柄な老人は……

 まぎれもなく、昨晩、『黄金の穴蔵』において、赤チップ卓周りでチップ交換や飲食物の配膳などの雑用を一手に引き受けていた従業員服姿の老人だった。

 そして、ティオが『黄金の穴蔵』を出た所で、ティオを名指しで呼び止め、独特な紫色のインクでロバの描かれた印章が押された紙片を手渡してきたのも、また、この老人だった。


 そう、まさに、この小柄な老人こそが、王都の裏社会を仕切る『紫の驢馬』その人であった。


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