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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十三章 野中の道 <第一節>眠り羊亭にて
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野中の道 #5


 『紫の驢馬』……その名を、このナザール王都近辺の裏社会に属する人間で知らない者は居ない事だろう。

 それはナザール王都を本拠地としてこの辺り一帯の裏社会を仕切っている首領の通り名だった。

 本名はあるのだろうが、ここ三十年来『紫の驢馬』の名で知られており、もう誰も本名で呼ぶ事はなかった。


 しかし、通名が広く知られる一方で、その実像を知る者はほとんど居ない。


 『紫の驢馬』も、若い頃は血の気の多いやくざ者で……

 売られた喧嘩はもれなく買っていたとか、自分をバカにした者を容赦なく半殺しにしたとか……

 裏切り者が情婦と床に居る所を、首を掻き切って殺したとか……

 仲間内だが対立していたグループのアジトに単身乗り込んで、あっという間に十人近い人員を切り刻んだとか……

 虚とも実ともつかない数々の噂が残っている。

 まあ、若い頃の『紫の驢馬』は、頭に血がのぼるとためらいなく人を刺し殺すような、残虐で苛烈な人間であった事は間違いないようだった。


 しかし、いくら表の社会の法に馴染めなかった無法者達が集まる裏の社会とはいえ、ただイカれた暴力的な人間というだけでは、これ程大規模な組織の頂点に君臨する事は叶わない。

 そう、『紫の驢馬』は、頭が切れた。

 そして、人を、社会の情勢を、この世の行く末を、見抜く慧眼を持っていた。

 三十年程前から、『紫の驢馬』の名は裏社会の喧騒の中からフツリと消える。

 しかし、それは亡くなったり酷いケガを負ってどこかへ去った故ではなかった。

 裏社会の表舞台(裏社会にも表舞台があるというのは皮肉な話だが)に姿を現さなくなっただけであり、もっと深い闇の奥で、彼はコツコツと現在の王都の裏社会の基盤を作る事に専念するようになっていった。

 自分を頂点とする組織化と、法の外の規律の制定。

 王都の繁華街を中心とした娼館や賭博場などの組織の主な収入源となる店を一律自分の監視下に置き、その営業形態を秩序だったものに整えた。

 表社会から零れ落ちた半端者達を拾い集め、まとめあげ、適切な地位と役割を持って各所に配置し、自分はそれをつぶさに観察出来るように、かつ、自分の命令を組織の隅々まで行き渡らせられるように、人脈を築き上げた。


 まあ、やっている事は、基本的に軍隊と変わりない。

 いくつもの部署があり、そこに配置された人員を管理する人間がおり、その管理者から定期的に、または緊急事態が起こった時に、自分にしっかりと報告が入るようにしておく。

 そして、自分は、組織が経営に絡んでいる店の売り上げをチェックし、問題ありとの報告があればそれを解消し、いさかいが起これば話を聞いて裁決を下す事で、組織を安定して機能させ、裏社会の秩序を保ち続けた。

 収入面以外は、現在ティオが傭兵団においてやっている事とほぼ同じである。

 団長であるサラを頂点とした徹底した組織化と、上意下達の命令系統の整備、秩序だった規律の制定。

 ただ、『紫の驢馬』は、あくまで裏社会の人間だ。

 ティオがサラを団長に、ボロツを副団長に据えながらも、小隊長達幹部を集めて朝夕欠かさず会議を行い、傭兵団の運営方針を伝えたり、意見を出し合って討論しているのに対して……

 『紫の驢馬』は、自分自身が組織のトップであり、彼の命令は組織の人間にとって絶対服従を意味していた。

 傭兵団の運営は、実質的にはほぼティオ一人が考え回していたが、あくまで民主的な形態を取っているのに対して、『紫の驢馬』の仕切る裏社会の組織は、彼一人が全ての権力と決定権を持つ、いわゆる独裁政治だった。


 しかし、『紫の驢馬』の独裁状態とはいえ、それによって、多くの人間が入り乱れる王都の裏社会の秩序が保たれているのは事実だった。

 むしろ、まともに表の社会で行儀良く生きていけない者達にとっては、『紫の驢馬』の機嫌を損ねると途端に始末されるような強権政治の方が、大人しく従う者が多かった事だろう。

 話の通じない相手には、ある程度の暴力による脅しは有効であった。

 そして、独裁政治であったとしても、その独裁者が聡明で理知的な人物であれば、組織の安定ははかれるものだ。

 暴力のない皆が平等で平和な社会……それは、誰しも理想とする所だろう。

 しかし、現実はそう甘くない。

 『紫の驢馬』はまさに、甘い理想ではなく、殺伐とした人心という現実を冷静に見つめ、暴力と血によって無法者達へと冷酷無比に秩序を課す存在であった。


 そして、彼はまた、深謀遠慮の辛抱強い人間でもあった。

 『紫の驢馬』は、裏社会の奥に身を潜めてから何十年と時間をかけて、少しずつ、しかし着実に、自分が頂点となる組織の形態を築き上げていった。

 十年戦争後の長い太平の世における王都の発展により、多くの人間が王都に流入し人口が爆発的に増えていった。

 その際、裏社会でも、昔から居た者達の勢力と新たに入ってきた者達の勢力との衝突が各所で起こり、当たり前のように多くの血が流れたが、やがて全てを飲み込んで一つの大きな組織と化し、裏社会なりの秩序を得たのは、ひとえに『紫の驢馬』の功績が大きかった。

 『紫の驢馬』の名は、王都近辺で犯罪を目論む者達にとって、震え上がる程恐ろしいものである一方で……

 そんな無法者達の理不尽な暴力によって搾取されていた貧しい下級階層の者達にとっては、狼達に首輪をつけ鎖に繋いでくれた偉人として、尊敬の念を持って語られていた。

 『紫の驢馬』は、国王や王国の兵士の手が届かない王都の暗部で、最下層の貧民にも平等に人権を保障してくれる神のような存在でもあったのだ。

 王都の光と陰。

 光の王者がナザール国王であるならば、陰の王者が『紫の驢馬』であった。



 しかし、『紫の驢馬』の名が知れ渡るにつれて、その人物の実情を知る者は減っていった。

 まぎれもなく『紫の驢馬』は、ナザール王都を中心とした裏社会の首領であったが、その圧倒的な存在感に反比例して、本人の姿を見かける機会が減った事により、彼の人相や風体を知る者はほとんど居なくなってしまった。

 権力争いや勢力抗争により襲撃や暗殺が横行する裏社会の状況を鑑みて、既に自分の地位を固めた『紫の驢馬』は、それ以降陰に身を潜め、自分の姿をさらす事による危険を回避するようになったのだった。

 今となっては、『紫の驢馬』の姿を知る者は、裏社会でも彼の側近とも言うべきごくわずかな幹部のみだった。


 そんな「誰もが名前を知っている」が「姿を知る者はほとんど居ない」という『紫の驢馬』の名を語って悪事を働く愚か者がたまに現れたが…… 

 すぐに本物の『紫の驢馬』に連絡がゆき、偽物は制裁を下される羽目になった。

 そんな、『紫の驢馬』の逆鱗に触れ無残に処刑されたならず者達を見て、人々はますます盛んに恐怖と共に『紫の驢馬』の名を語り、そうして彼に逆らう者は次第に減っていった。



 傭兵団の作戦参謀として王都で情報収拾に勤しんでいたティオは、当然かなり早い段階で『紫の驢馬』の名前と実績を知る事となった。

 さすがのティオも、非常に用心深く闇に身を隠し息を潜めている『紫の驢馬』の姿を見る事はなかった。

 ただ、その人となりは、伝え聞く彼の過去の行動から概ね推し量る事が出来た。

 また、『紫の驢馬』が巷で暴れていたまだ若かりし頃の逸話には、彼の身体的な特徴の情報がわずかに残っていた。

 そこから推定するに、『紫の驢馬』は現在七十代半ばの老人で、小柄な人物のようだった。

 また、彼の左肩には、『紫の驢馬』の通名の由来となったロバの刺青が彫られているという話だった。

 裏社会の目立つ場所で活動していた頃から長い時間が流れても、身長などの大まかな身体的特徴は変わらないため、そこに経年分の老いを重ねて考えれば、非常にザックリとだが『紫の驢馬』の外見を想像する事が出来た。


 しかし、ティオも、まさか自分が『紫の驢馬』に直接関わる事になるとは思ってもみなかった。

 仮にも王都に拠点のある傭兵団であり、団員達の中には犯罪歴のある者も多かったため、裏社会の存在は多少は気にかけてはいたが、いたずらに虎の尾を踏むような真似はすまいと思っていた自分が、いつの間にか『紫の驢馬』本人から呼び出しを食らっている現状に、ティオは少々頭を抱えた。


(……人前には姿を見せたがらない『紫の驢馬』が、俺を名指しで「二人きりで話しがしたい」とか。勘弁してくれよぅ。……)


 だが、こうなってしまっては、もはやどこに逃げ隠れ出来ない。

 ティオは内心心底ゲンナリしながらも、『紫の驢馬』の呼び出しに応じる事を決めた。

 あれこれ取り繕うのも面倒だったのと、相手は王都の裏社会を長年仕切ってきた海千山千の慧眼の持ち主という事で、ちゃちな演技はどうせバレるだろうと思い、気取らず肩肘張らず、いつもの調子でゆく事にした。


(……会談の場所には、当然厳重な警備が敷かれるだろうなぁ。俺がちょっとでも怪しい動きを見せようものなら、『紫の驢馬』の護衛をしている裏社会でも選り抜きの強者達に即座に囲まれて首を掻っ切られるって所か。……)


(……ああぁぁー、嫌だぁー! 俺、そういう暴力的なの大っ嫌いなのにぃー! 俺は平和主義者だっていっつも言ってんじゃねぇかよぅー!……)


(……うん。決めた。なんかヤバイ雰囲気になったら、ソッコー逃げよう! 俺、逃げ足だけは自信あるもんねー!……)


 『黄金の穴蔵』を出た後、ティオはボロツ、チェレンチーと共に繁華街の外れにある安酒場で時間を潰し、早朝に王城の片隅にある傭兵団の宿舎へと戻った。

 一睡もする間もなく、ドミノ賭博で稼いだ金を会議室の床下にしまう作業ののち、いつもの朝の幹部会議と、団員達を起こしてまわりながらの点呼、そして朝食を定刻通りに済ませ、午前中は訓練に参加した。

 本当は、少し様子を見たら城下に出る予定だったのだが、自分の代わりに訓練の監視を任せる筈の作戦参謀補佐であるところのチェレンチーが、酒の飲み過ぎで潰れてしまったため、ティオ本人が傭兵団の訓練に立ち会う事になった。

 なんの相談もなく傭兵団の資金を持って賭博場に行った事を怒っているサラと少しもめたものの、そろそろ昼食の時間という所でなんとか体調が回復したらしいチェレンチーがやって来たので、彼に今日の残りの訓練の管理を任せて、自分は今から城下に出る事を告げた。


「ティオ君、ごめんね、仕事に穴を開けてしまって!」

「そんな時もあります。気にしないで下さい。誰かが大変な時は他の誰かが支える、そのための組織でしょう?……それより、俺はこれから城下町に行って用事を済ませてこようと思うのですが、後の事は任せしてしまっていいですか? いつものように今日の訓練メニューはこちらに書き出してあります。隊長達が質問に来たら、読み上げてあげて下さい。まあ、最近は隊長達のもと、団員達もだいぶ部隊ごとの訓練に慣れてきているので、それ程問題は起こらないと思いますが。何かあれば、ボロツ副団長に相談して下さい。」


 ティオは、用意していた今日の訓練予定を書き出した紙をチェレンチーに手渡した。

 傭兵団には、ティオの他にまともに文字が読める人間がチェレンチーしか居ないため、ティオが組んだ訓練メニューの指示を代わりの出すのは、必然的に作戦参謀補佐であるチェレンチーの役目となっていた。

 傭兵団に軍隊らしい規律が整い、団員達も六つの小隊に分かれての訓練にも馴染んできた最近では、ティオは物資調達や情報収拾のために城下に出かけてしまう事が多く、こういった状況に慣れていたチェレンチーは、すぐにコクリとうなずいて了承した。


「用事……昨日の夜ドゥアルテ商会から買ったものを引き取りに行くんだね?」

「そうです。残りの半金を支払って受け取ってきます。」


 ティオは、昨晩のドゥアルテとのドミノ勝負で彼に銀貨1500枚の借用書を七枚書かせていた。

 つまり、ドゥアルテは傭兵団に属するティオに銀貨10500枚分の借金をしている事になる訳だが、この全てを回収する事は一朝一夕には難しいと、ティオもチェレンチーも考えていた。

 そして、それとはまた別に、外ウマの方で稼いだ金で、ドゥアルテ商会の所持するあるものを銀貨3600枚で購入していた。

 半金の銀貨1800枚分は、昨晩、ドゥアルテと取引が成立した時点で支払っていたが、残り銀貨1800枚は、今日購入したものと交換で支払う約束になっていた。

 ドゥアルテはすっかり金に目がくらんでいる様子だったので、半金の銀貨1800枚だけ持って逃げるような事はしないだろうとティオは踏んでいた。

 もう半分の銀貨1800枚もなんとしても手に入れようと、ティオがドゥアルテ商会から買ったものを部下に揃えさせて待っている筈だ。

 この取引を完了させるために、ティオは今日中にどうしても城下に出る必要があったのだった。


(……と、その前に『紫の驢馬』に会いに行かないとなぁ。スッゲー嫌だけど、まあ、嫌な事はさっさと済ませた方が精神的衛生上いいってもんだよな。……)


 ティオは昨晩の『紫の驢馬』からの招待を思い出し、城下に出るついでにそちらの方も片づけようと考えていた。

 もちろん、昨日の晩『紫の驢馬』から招待状を受け取った事も、これから本人に会いに行く事も、チェレンチーをはじめとした傭兵団の仲間には全く話していなかった。


 ティオの中に、このナザール王都の裏社会の首領である『紫の驢馬』との対面は、避ける事の出来ない重要なものという認識は確かにあったが、一方で、特に緊張はしていなかった。

 どういった意図で『紫の驢馬』が自分を呼んだのかは分からず、もし昨日の『黄金の穴蔵』でのティオの行動が『紫の驢馬』の怒りに触れていれば、最悪命の危険もある事も良く分かっていた。

 それでも、(まあ、いざとなったらケツまくって逃げよう。俺の逃げ足ならなんとかなる。)と思っていたティオにとって、恐怖よりも、ひたすら面倒だという感情の方がまさっていた。

 例えるなら、心の底から気の進まないお使いに行く気分だった。


 そんな軽い気持ちであった事もあり、チェレンチーや傭兵団の仲間の前では、『紫の驢馬』の存在も、これからその人物に会いに行く事も、ティオはおくびにも出さなかった。

 そうして、ティオは、ドゥアルテへの支払いの半金である銀貨1800枚を、かさばるため、金貨180枚に替えて、その金貨の入った皮袋を無造作に懐に突っ込み、いつものようにフラリと傭兵団の宿舎を後にした。


「ティオ君、大丈夫? 昨日は徹夜だったし、一昨日の夜は流行り病の症状が出た団員の看病をしていたから、この二日まともに眠ってないんじゃないの? それに、これから昼食なのに、食べずに出かけてしまうのかい?」

「ああ、俺、こう見えて割とタフなんで、このぐらいなんともありませんよ、チェレンチーさん。……では、遅くとも夜の幹部会議までには戻りますので、それまでよろしくお願いします。」


 宿舎を出ていくティオをチェレンチーが心配していたが、その内容は、当然『紫の驢馬』とは全く関係のないものであった。

 ティオは、相変わらず飄々とした掴みどろこのない笑顔で、ポンポンとチェレンチーの肩を叩き、色あせた紺色のマントをひるがえしてきびすを返した。


 そうして、傭兵団の宿舎がある王城を出たティオは、真っ直ぐに『紫の驢馬』の待つ『眠り羊亭』に向かった。

 『眠り羊亭』に近づくと、近くの民家や商店、立ち木や崩れかけた塀の陰、果ては建物の屋根の上など、あちこちに『紫の驢馬』の配下と思われる見張りが居る事に気づいたが……


(……あれま、思ってたより数が多いなぁ。俺一人に何もここまでしなくていいのに。……)


 警戒心の強い『紫の驢馬』が自分の周りを厳重に手下達で固めている事は予想していたので、あまり気にしなかった。

 そして、指定された『眠り羊亭』の前に着くと、先程から二階のテラスの手すりにもたれて鋭い目でこちらを観察していた三十代半ばの頰に大きな傷のある男に向かって、笑顔でヒラヒラと手を振った。


「どうもー。こんにちはー。お待たせしちゃってすみませんー。」


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