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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第十一章 幻の記憶 <後編>黒い星
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幻の記憶 #9


「サラ! サラ! しっかりしろ!」

「……んん……ティ、オ?……」


「ギャアァーッ! 何これー!?」


 ティオに両肩を掴まれて揺すぶられ、ようやくうっすらと目を開けたサラは、目に映った光景を見て、思わず汚いダミ声で悲鳴を上げていた。


 サラのすぐ目の前には、『不思議な壁』があった。

 いや、あったと言うべきなのか……

 それは、壁に触れたサラの手と同化し始めていた……

 サラの手が壁に同化し始めていたと言った方が正しいかもしれない。


 無機質でありながら有機的でもあり、全体に複雑な文様が刻まれている『不思議な壁』……

 壁に手を触れた方のサラの腕は、肘近くまでその『不思議な壁』の形状に作り変わり、今もジワジワと侵食が広がりつつあった。

 自分の腕の肘から先が、『不思議な壁』となって、溝の中に更に溝が刻まれてゆく無限の入れ子形式の奇妙な文様が走り、その文様が自分の意思とは関係なく、ズゾゾゾ……と揺れ蠢く様を目の当たりにして……

 サラは、酷く混乱し、壁に触れていない方の手で頭を押さえて叫んでいた。


「……い、嫌ああぁぁぁーー!!」

「サラ! 落ち着け! 心を乱すな! ますます『これ』に入り込まれるぞ!」


 サラが思わずギュッと目をつぶって叫び声を上げると、そんな動揺したサラの隙につけ入ったかのように、更に、ゾゾゾゾゾ……と『不思議な壁』の侵食が腕を駆け登り、あっという間に肩を覆う程になっていた。

 サラは、一旦は頭を押さえていた手を外して、閉ざしていた目を見開き、現状を確かめようとしたが……

 『不思議な壁』に触れ、肩まで壁と同化してしまった腕だけでなく、壁に触っていない筈の、先程まで頭を押さえていたもう片手が、パキパキ、ペキ……と、ひび割れたかと思うと、サラの目の前で『不思議な壁』と同じ形状に変わっていった。


「キャアァァァーー!!」


 痛みはなかった。

 ただ、もう『不思議な壁』に変わった部分は、「自分ではない」という感覚に包まれていて、恐怖で声が枯れるまで悲鳴を上げていた。

 サラの意思とは無関係に、『不思議な壁』と化した腕や手は、ゴゴ、ゴゴゴゴ……と、地鳴りのような低い音を立てて、蠢き、組み変わり、変化し続けていく。

 サラは、自分の、子供のようなあどけない赤みのある柔らかな頰が、ピキピキ……と割れ始めたのを感じ取って、サァッと全身の血の気が引いた。


「サラ!! 俺を見ろ!」


 思い切り張ったティオの声が、サラの鼓膜を貫き頭の中に直接突き刺さるかのように響き渡った。


「……あ……あ、う……」


 サラは、間近にティオの真剣な顔を見て、ボロボロと涙が零れた。

 その零れた涙の一つ一つも、また、零れた端から次々と『不思議な壁』に変わっていく。

 それでもティオは、奇妙な溝がみるみる広がっていくそんなサラの頰を包むように手を当てがい、ジッと真っ直ぐに、涙の溢れるサラの瞳を見つめてきた。


「サラ!」

「……う、うう……ううう、ううっ!……」


「……うっうっ!……ぉ……ぃお……う、ううっ!……てぃお……」


「……ティオ!……」


 混乱し、我を忘れ、幼い子供のように、ただただボロボロと涙を零していたサラの混濁した瞳に……

 ティオの名前を呼んだ瞬間、キラッと、小さくもまばゆい、明けの明星のごとき光が宿っていた。



(……こ……ここ、は?……えっと……)


(……『セイシンセカイ』に、ある……ティオ、の、セイシンリョウイキ、だっけ?……)


 いつの間にか、ティオの気配が一際濃く強くなっているのをサラは感じていた。


 サラが『不思議な壁』に触れようとした時、ティオの気配は一旦スウッと薄れた。

 それは、『精神世界』からではサラを止められないと判断したティオが『物質世界』に意識の比重を移し、眠っているサラの肉体を起こす事で、強制的に『精神世界』からサラを退去させようとしたためだった。

 しかし、結局、サラは、逆にティオの意識が『物質世界』に割かれ『精神世界』が手薄になった隙をついて『不思議な壁』に触れてしまった。


(……う、ううん……アタマが、まだヨくマワらないよー……タ、シか、ワタシ、『フシギなカベ』にサワって……サワって……それで、どれぐらいタったんだろう?……)


 『不思議な壁』に触れた瞬間、サラの意識は、壁の流し込んでくる情報の渦にあっけなく飲み込まれた。

 しかし今回は、ティオから事前に説明を受けて警戒しており、サラの意識が抵抗したために、流し込まれてきた情報は、どれもポコポコと虫に食われたような空白が目立つものだった。

 それでも、サラは、何十分、何時間、いや、何日もの時間の流れを体験した。

 だが、実際には、それはほんの数秒程の間の事だったのだろう。


 ティオは、『不思議な壁』に触れたサラが、その数秒間でみるみる壁と同化していく様を見てしまった。

 『精神世界』ではっきりと精神体を保っている人間の意識を、『物質世界』に強引に移行させるのは、精神に負担が掛かる。

 ティオとしては出来ればしたくない対処法だったが、サラが『不思議な壁』に接触するよりはまだ危険が少ないと判断して『物質世界』で彼女を起こそうとしたのだったが。

 しかし、サラは、結局『不思議な壁』に触れてしまい、壁の見せる情報の中で茫然自失な状態になるどころか、サラの精神体が壁に侵食され始めてしまった。

 精神体の一部が、『不思議な壁』と同化した状態で、強引に『精神世界』から弾きだしたらサラがどうなるのかは、ティオにも想像がつかなかった。

 未知の危険を予想し、ティオは『物質世界』で眠っているサラの肉体を起こすのを中断した。

 そして、自身の意識の比重のほとんどを『精神世界』に集めると、『不思議な壁』に侵食されつつある、ぼんやりとした状態のサラの肩を揺さぶり、必死に呼びかけたのだった。


「サラ! サラ! 何か話せ! なんでもいい!」

「……ティ、オ……ええ、と……ええと、ね……」


 ティオはサラの意識を覚醒させるために、自己をハッキリと認識させる手段として、自分と会話をさせようとした。


 『不思議な壁』が見せたいくつもの不思議な記憶の中のどこにもサラ本人はおらず、サラは見知らぬ誰かや何かに意識を重ねた状態か、もしくは、空にぼんやりと浮かんでいる状態だった。

 そのため、サラは、「自分」を忘れかけていた。

 自己を、自分がどんな人間かを、自分の存在を、忘れかけ、サラの意識は朦朧とした状態になっていた。

 舌が上手く回らず、自分の思考を言語化する能力も著しく低下していた。


 と、ガクッとサラの体が傾き、慌ててティオが抱きかかえる。

 見ると、サラの右の脛が、不思議な壁と同じ奇妙な文様の入った不可思議な材質に置き換わり、不揃いの小さなレンガが崩れたかのようにボロボロになっていた。

 足の一部が自分の意識の制御を離れた事によって、力が入らなくなり、倒れそうになったのだろう。

 そんなサラの『精神世界』における体を、精神体を、ティオは必死に抱きとめていた。


(……クソッ! なんでこんな事に!……い、いや、俺のせいだ! 俺が不甲斐ないから!……サラ!……)


(……考えろ、考えろ! どうしたら、こんな状態のサラを助けられる? サラと『コイツ』を分離する方法は? サラの精神に悪影響を及ぼさない方法で、一刻も早くサラを『これ』から遠ざけないと!……)


(……クソッ! クソッ!……ダメだ、何も思いつかない!……チクショウ!……)


(……サラ! サラ!……)


 祈るように、念じるように、ティオはサラの『不思議な壁』に侵食された頰を撫でたが……

 それは、一向に治る気配はなく、むしろ、ピキピキ、パリリ……と少しずつ広がりつつあった。

 

「……ティ、オ……ワタシ、ね……トリだったよ……」

「と、鳥?」

「……うん、ツチ……ツチでデキてるの、トリ……それで、ね、ダレかをミてた、キ、キのウエ……ギンイロのフシギなカミのオトコのコ……トリのムネ、キンゾク、あって、ね……おシャベり、フタリ、ダレかワかんない、オトコのコ、ミてた……ツチのトリ……」

「……土で出来た鳥……胸に金属がはめ込まれてた……その鳥を使って、誰か二人の人物が、銀色の髪の少年を見てたって事か?……それは、まさか……」

「……オオきなトリ、イた……タカいヤマ、いっぱい、そのウエ、トんでた、ヒト、ノってた……」

「……高い山々、人を乗せる程の巨大な鳥……古代鳥か!……」

「……あ、あ、アトね……タイヨウが、シズまないの……イチニチジュウ、ぐるぐる、ぐるぐる、チヘイのそばをマワってる、の……」

「……それは、たぶん白夜だ、サラ。」

「……ビャク、ヤ?……」

「俺の故郷、北の大陸エルファナの更に北部では、夏にその現象が起きる。太陽が夜も沈まないが、昼も高い位置には上らず、ずっと地平の縁を辿るようにぐるりと一周するんだ。俺も、実際には見た事ないけどな。」

「……あ、はは、ヘンなの……ワタシ、ミてみたい、な……」

「ああ、そうだな。俺も一度はこの目で見てみたいと思ってるよ。」


 ティオは、たどたどしい口調ながらも『不思議な壁』に見せられた光景を伝えてくるサラに、真剣に答え、彼女の意識をなんとか繋ぎとめようと必死になりながらも、頭の片隅で違和感を覚えていた。


(……なんだ? 前にサラが『これ』に触った時に見ていたのは、もっと脈絡のない情報ばかりだったような?……)


(……今回は、やけにサラが見た情報に偏りがある。これじゃあ、まるで……)


 ティオが疑問を感じているかたわらで、気がつくとサラはピタリと黙り込んでしまっていた。


「……」

「サ、サラ! おい、サラ! ダメだ! ちゃんと話を続けるんだ! そうする事で、理性が働いて論理的に思考出来るようになる筈だ!」

「……」

「サラ!……サラ!……」

「……」


 いくらティオが呼びかけてもサラはキュッと唇を引き結んで、喋ろうとしない。

 ティオは、サラの容態が悪化したのかと青ざめたが……

 ティオの腕の中でジッと彼を見上げるサラの瞳は、むしろ先程よりはっきりとした意思が宿り、口よりも雄弁に彼女の感情を語っているかのようだった。



(……なんか、うまく、つたわらないなぁ……)


(……もっと、ティオに、ちゃんといろいろつたわったらいいのに……)


(……ここって『せいしんせかい』でしょ?『せいしんせかい』はせいしんといしがじゅうようなせかいなんだよねー?……だったら、わたしがいまおもっていることを、ことばなんかにしなくっても、しゃべらなくっても、ティオにつたえられたりしないかな?……ティオのきもちも、つたわったり、しないかな?……うーん、うーん……)


(……うん! いけるきがする!……)


 黙り込んでしまったサラを心配して、「サラ! サラ!」と必死に呼びかけているティオの目をジイッと見つめたまま、サラは心の中で強く呼びかけた。


(……ティオ!!……)


 その瞬間、ティオの表情にピクリと動揺が走ったように見えた。


「……サラ?」


 サラは、侵食はされているものの『不思議な壁』に繋がっていない方の手を伸ばして、自分を抱きかかえているティオの胸にそっと触れてみた。

 ティオに触れると……まだ言葉になっていない、はっきりとした形を持つ前の彼の感情が、雲のようにフワフワとした状態で、ぼんやりとだが感じられる気がした。

 そこには、不安や焦り、そして、自分を責める気持ちが読み取れた。


(……ティオ!……ティオ!……)

(……サラ?……ひょっとして、俺を呼んでるのか?……)

(……そう! そうだよー、ティオ! やったー! やっぱり、つたわってるんだねー! すごいすごーい!……)

(……驚いたな。……)


 ティオは、サラが呼びかけた心の声が聞こえたらしく、サラを真似て心の声で答えてきた。

 それだけでなく、ティオの思考の方がサラよりも論理立っているためか、明確に意味が伝わってきていた。


(……ティオ、ティオ、わふ、ふうふ、わわっ、ふわーっ!……)

(……いや、サラ、あのな、伝わってはいるけど、細かい所までは分かんないぞ。もうちょっとサラが伝えたいものをハッキリと整理して思い描かないと。……って言うか、声に出して言葉で伝えた方がいいんじゃないのか? お前の語彙力と知性だと、あんまり変わんないかもしれないけどさ。……)

(……しゃべるの、めんどくさいよー……このほうが、ちょくせつつたわるから、いいよー……)

(……いや、ダメだろ! 面倒臭いって、サラ、お前! ちゃんと人間らしく生きる努力をしろよ!……)

(……わわわ、わー! ティオ、わっわっー! わふふふ、ふー!……)

(……だから! そういう適当なのは読み取れないっつってんだろー!……)


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