夢中の決闘 #17
サラの指先にわずかに掛かったティオの色あせたマントの裾は、次の瞬間にはスルリと離れていき、サラがギュッと手を握りしめるより先に遠のいてしまっていた。
そして、次の瞬間には、フワリとサラの視界の中で空に向かって上昇していく。
バッと顔を上げてティオの動きを追ったが、その時には、もう、ティオはサラから後退しつつ上方に浮かび上がっており、二人の距離は3、4mから、更に開きつつあった。
「ああっ! 空飛ぶのズルイ!」
「……サラ、今俺に触っただろう?『勝った!』って言わないのか?」
虚空の中の架空の地面でジタバタ手足を動かしながら真っ赤な顔で抗議するサラに、なお上空に遠ざかりながらティオがサラを見下ろして言ったが……
サラは、ピンッと、肩に掛かっていた自慢の長い金の三つ編みを指で弾いて背中に回しながら、さも当たり前と言った口調で答えた。
「私がティオに勝つ条件は『ティオを捕まえる』でしょ? 触ったぐらいじゃ捕まえた事にならないよねー?」
「やけに自分に厳しいんだな。」
「私、そういう『ズル』はしたくないの。正々堂々とティオに勝つんだもんねー。……それに……」
「ここって、そういう『ズル』はダメでしょう? 嘘がつけないっていうのもあるけど、『ズル』をしようとすると、力が出なくなる気がする。特に私は、元々嘘が嫌いだから、そういう誤魔化しをすると、やましい気持ちになって落ち込んで、ますます力が出なくなる。……違う?」
「でも、逆に、正々堂々と真剣にティオを捕まえようとしていれば、私はドンドン力が湧いてくるし、力は強くなる。」
「ティオ、言ったよね? 私は意思が強いって。」
「そう、ここ精神世界での私の一番の武器は、意思の強さ!」
「ここでは、私は、『物質世界』みたいに身体強化の異能力が使えないけど、その代わり、意思の強さなら、ティオにも、誰にも、負けない!」
サラは、キッと上空のティオを睨み上げると、ドンと自分の胸を叩いて宣言した。
「私は、絶対にティオを捕まえる! 私は、絶対にティオに勝つ!」
「私がそう思っている限り、絶対に、私は勝つ!」
「チッ」と、宙に浮かんでいるティオが小さく舌打ちして渋い表情を浮かべていた。
『物質世界』においては、考えなしに思ったらすぐ行動するタイプのサラは、知識や経験や思慮深さが足りない故に失敗する事も多かったが……
ここ『精神世界』においては「それこそが正解」だった。
精神と意思が何よりも重要なこの世界において、あれこれ策を講じたり、リスクとリターンを天秤に掛けたりといった思考は、むしろその者の力を削いでしまう。
この『精神世界』で最も強い力、それは混じり気のない純粋な意思であった。
しかし、「強い意思」を持つと言っても、思う程簡単な事ではない。
大抵の人間は、どんなに心を強く持とうと試みても、その「意思」の中にごくわずかな「迷い」や「ためらい」を含んでしまう。
ティオ自身、相当に意思は強い方だったが、彼の頭の良さ、知識の豊富さ、思慮深さが、どうしても彼の思考に微量の「不純物」を紛れ込ませる結果となっていた。
サラのように、全く疑いを持たず、塵一つ程の混ざり物もなく、どこまでも純粋に強い思いを持てる人間は、そう居ない。
そんな人間は、『物質世界』においては、余程のバカか、あるいは頭のネジがぶっ飛んでいる者として呆れられるに違いない。
それは、ある意味、狂人とも言えた。
しかし、サラは、そんな稀有な狂人だった。
自分の思いを、意思を、何の迷いもなく完璧に信じ抜ける人間だった。
もちろん、サラ自身、『精神世界』における自分の強さの源がどこにあるかなど、深く考えたりはしていなかった。
ただ「なんとなくそう感じている」だけだった。
ティオは、この『精神世界』におけるサラの強みを察してはいたが、サラ自身がその事に自覚を持った事で、ますます厄介な相手となってしまったのを感じて、眉間に深いシワを刻んでいた。
「……まあ、いい。要するに、俺は、朝になって『物質世界』でサラが目を覚ますまで、このまま逃げ続ければいいだけだからな。」
「だ、か、ら! 私からは逃げられないって……言ってるでしょー!」
宙に浮かび上がりながら徐々に遠ざかっていくティオに向かって、サラは、ダダダダダーッと全力で走りこんできたかと思うと……
グググッと両足に力を込め、その力の溜まった筋肉をバネのようにして、ダン! と空中に向かって大きく飛び跳ねた。
□
(……ティオを、このまま一人きりにしておいちゃいけない。……)
その感情、あるいは勘のようなものは、サラの心よりも深いどこからか自然と浮かび上がってくるものだった。
いつから、サラは、それを感じていたのだろうか?
それはおそらく、サラが初めてこの『精神世界』でティオの精神領域を訪れた時だったに違いない。
無数の『宝石の鎖』に身体中を縛られて、宙に磔になった状態でうなだれ目を閉じて微動だにしないティオを見て、サラはその正義感から「助けなきゃ!」と反射的に思った。
しかし、サラに気づいたティオは、すぐに目を覚まし、自分から鎖から抜け出して自由に動き出すと共に、『宝石の鎖』はどこかに掻き消えていった。
そんな状況を目の当たりにしたサラは、「なんだ、全然平気なんじゃん!」と安心すると共に、拍子抜けした気持ちになったのだったが。
しかし、それからティオとの交流が進むにつれて、再び彼を縛る『宝石の鎖』が見え出したサラは、ティオが自由に鎖から抜け出し鎖自体も消えていったのは、彼のパフォーマンスだったと知る事になった。
ティオは、サラに自分の実情を知らせぬため、自分を縛る『宝石の鎖』を透明な状態に変えて見えなくし、サラに「鎖は消えた」と思い込ませていたのだ。
だが、実際はティオは、サラが来てからもずっと、『宝石の鎖』によって、自分の全身を縛り拘束し続けていた。
(……ティオを、助けなきゃ。……)
その思いが、サラの中で再燃したのは、その時だった。
初めて『精神世界』の彼の精神領域でティオの姿を見た時に感じた自分の危機感は間違っていなかったと気づいたサラだった。
だが、ティオが自分を『宝石の鎖』で常に拘束し続けている理由を探ろうとした結果、サラは想像だにしなかった大きな難敵に阻まれる事になった。
ティオの精神領域に、『宝石の鎖』と共に『不思議な壁』が密かに潜んでいた事を知ったのだったが……
それは、サラには到底どうする事も出来ない代物だった。
見た目は、上下左右どこまでも果てなく続く巨大な壁のようなもので、無機的にも有機的にも見える不思議な模様を描いて無数の溝が走っている。
溝の中を覗くと、そこにはまた無数の溝が走っていて、その溝の中にもまた溝が……という構造が延々と続いている。
そして、その溝が、あるいは壁そのものが、時折生き物のように回転したり動いたりしているように感じる事があるが、どこがどう動いているのかはさっぱり分からない。
この『不思議な壁』が一体なんなのか、サラには未だに全く理解出来ないままだった。
ただ、ティオの説明によると、「触れた者の意識に、脈略なく膨大な情報を流し込んでくる」という性質を持つらしい。
サラも、それを知らずに一度触れてしまい、一時的に自分が何者か分からなくなる程精神が混乱した事があった。
ティオの話では、更に、この『不思議な壁』には、触れた人間の心を映す鏡のような性質もあるらしく、欲望や恐怖が何十倍にも増幅されて、膨大な情報と共に意識に入り込んでくるとの事だった。
そのため、『不思議な壁』に触れた人間は、精神が崩壊しかねない危険があった。
サラも、以前触れたという二人の男も、すぐにティオが引き離したので最低限の被害で済んだが、それでも男達はしばらく後遺症に悩まされたらしい。
(……あの『不思議な壁』が一体なんなのか?っていうのは……実は、正直どうでもいいんだよね、私。教えてもらった所で、私が『あれ』を理解出来るとは思えないし。ティオが言うように、『あれ』は「そういう存在」って事で、それ以上深く考えようとは思わないなぁ。ティオでさえも、『あれ』の全てが分かっている訳じゃないみたいだったもんね。……だから、今私にとっての一番の問題は……)
(……『あれ』が、ティオと「同じ存在」だって事なんだよね。……)
(……あの、なんだかサッパリ分かんないけど、とにかくすっごくヤバそうなものが、ティオと「同じ存在」だなんて。……)
あの『不思議な壁』が、なぜティオと「同一の存在」であるのかは、サラは当然ながら、ティオ本人にも理由は不明なままらしい。
しかしティオと『不思議な壁』が間違いなく「同一の存在」であるという事実は、サラにもヒシヒシと感じられていた。
幸い、と言うべきなのか、『不思議な壁』と同じ存在であるところのティオは、自分を「番人」と称して、壁を制御するために全力を傾けていた。
初めてこの自分の精神領域にやって来て、『不思議な壁』の存在を知り、自分との切っても切れない関係を悟って以降、それこそ血の滲むような努力を重ね、貪欲に様々な知識と技術を習得し、壁を制御しようと必死に試み続けた。
『宝石の鎖』は、そんなティオの気の遠くなるような試行錯誤の結果、彼の異能力を活かす発想で編み出されたものであり、今のところ最も効果を上げているようだった。
それでも、未だ『不思議な壁』は、完璧にティオの意識の制御下に置かれているとはとても言えない状況にあるらしい。
そのためティオは、四六時中『宝石の鎖』で自分自身を拘束する事で、同じ存在である『不思議な壁』をある程度抑え込むと共に……
引き続き新たな知識や技能を求めて、また『宝石の鎖』を強化するための新しい宝石集めに、世界各地を旅して回っていた。
そして、自分と同一の存在である『不思議な壁』の影響を周りの人間が受けないよう、他人とは物理的にも心理的にも距離を置いて、なるべく一人で過ごすようにしてきたようだった。
(……ティオの考えは、正しいんだと思う。……)
(……私は、ティオみたいに頭が良くないし、私の異能力は『物質世界』では強いけど、この『精神世界』ではまるで役に立たない。ティオ本人さえもどうにも出来ない『不思議な壁』を、私がどうこう出来るとはとても思えない。……)
(……たぶん、このままティオが一人で研究を続けた方が効率がいいんだろうな。私がここに居ると、ティオは私に気を使って、全神経を『不思議な壁』に割けなくなる。役立たずの私がそばに居ても、ティオの足を引っ張るだけ。……それは、私だって良く分かってる。……)
(……でも……)
もう、二年もの間、誰も居ないこの場所で、一人きり『不思議な壁』と対峙して、自分の体を『宝石の鎖』で拘束し、眠る事もせず『不思議な壁』を人知れず見張り続けているティオの孤独と苦難を思うと……
サラは、張り裂けるように胸が痛み、目頭に熱い涙が込み上げてきた。
(……こんな事をいつまでも続けてたら、ティオの「心」がもたないよ!……)
(……今までの二年間、こんな事をしてきたのだって、信じられないぐらいなのに!……)
それは、天才と呼ぶべきティオの頭脳と技能、そして特異な異能力、強い意志、そして何より、「他人を傷つけたくない」という優しい心があってこそ、成し得た事だった。
他の誰でもない、ティオだからこそ、出来た事だった。
しかし、そんなティオの精神も、この二年間で、相当に疲弊し、消耗し、摩耗し……
強い力でそれぞれの端を反対方向に引かれ続けた糸のごとく、千切れかけていた。
ティオは、日頃そんな自分の危うい精神状態を他人には見せないように取り繕っており、幸か不幸か、彼はそんな「嘘」が得意な人間だった。
それでも、そんなティオが、無意識にサラに自分の危うさを見せてしまった場面があった。
それは、ティオが王宮の宝物庫に盗みに入った事がサラにバレ、サラがティオの処遇に迷っている時だった。
『俺の事は、さっさと兵士に突き出してくれて構わないぜ。』
そうティオは、頭を抱えて悩みに悩んでいるサラに至極あっさりと言った。
『……で、でもぅ……そ、そんな事したら、ティオは死刑になっちゃうんでしょう?』
『まあ、俺が今夜やった事や、これまでやってきた事を考えれば、捕まったら死刑になるのはごく当たり前だ。それは、ずっと前から覚悟してた。覚悟の上で、今までたくさんの盗みを働いてきたんだ。だから、俺は、後悔してない。それから……』
『俺を捕まえた人間を恨む気持ちも、一切ない。』
『悪いのは全部俺だし、捕まっちまったのも、俺がヘマをやらかしたせいだ。まあ、一言で言うと、「これが年貢の納め時」だな。俺の運もここまでってこった。』
あまりに簡単に、自分の死刑を肯定し、自分の死を口にするティオを前に、彼の悪事を暴いて優位に立っている筈のサラの方が激しく動揺した。
しかし、加えてティオはこう言った。
『俺は、特にこの世に未練はない。』
『元々俺は、いつ死んでもいいような人間だしなぁ。ただ「それが今だった」ってだけの事だ。むしろ、これで全部終わってスッキリするかもなぁ。』
あの時のティオの顔が、サラの脳裏にハッキリと思い浮かんでいた。
ヘラヘラといつものように掴み所のない能天気な笑みを浮かべているティオだったが、眼鏡の分厚いレンズの奥で細められた独特の緑色の瞳は……
全てを諦めきったような、無気力さが滲んでいた。
それと共に、どこか、肩の荷が下りたと言ったようなホッとした気配もわずかに漂っていた。
ティオの背負っている宿命を知った今のサラには、あの時のティオの気持ちがようやく理解出来た。
自分がこれで死ぬかも知れないという時に……
ティオは、いつ終わるとも知れない長い苦しみからの解放を思い描いていたのだろう。
ティオの才気をもってしても、未だ解決を見ない『不思議な壁』の対処に疲れ果て、絶望していただろう事がうかがえる。
また、ティオは、あれ程才能に恵まれていながら、自分の事を「どうなっても構わないような人間」と捉えていた。
『不思議な壁』と同一の存在として、周囲の人間に多大な被害を及ぼしかねない自分の事を、ティオは心の中で「俺は、いっその事自分は居なくなった方がいいんじゃないのか?」と考えていたのかもしれない。
もちろんティオは、自分の稀有にして苦難に満ちた境遇を前に、早々に逃げを決め込み自殺を図るような弱い精神の持ち主ではない。
しかし、人一倍強靭な精神力があったが故に、結果的に、一人で長い時間を孤独と苦痛に耐える道を選ぶ事になってしまっていた。
サラには、あくまで想像する事しか出来なかったが、ティオがこの場所で一人で過ごした二年間は、「精神的な拷問」と言ってもいいものだったに違いない。
そんな、果てのない「生の苦しみ」の中で疲れ切ったティオが、自分でも無意識の内に「死の安寧」に淡い期待を抱いていたとしても、サラには彼を責める事は出来なかった。
今はただ、サラはひたすらに悲しかった。
二年間もの間、ティオがこの場所で一人きり人知れず耐え続けていた事実を考えると、たまらなく胸が痛んだ。
だからこそ、サラは固く心に誓っていた。
(……もう、これ以上、絶対にティオを一人にしない!……)




