過去との決別 #155
「ところで、チェレンチーさん。」
ティオは、ジョッキの中のヤギのミルクを一口二口飲み下して喉を潤したのち、話題を変えた。
チェレンチーに話しかけてくるティオの口調は軽やかで、その表情も、すっかりいつものように飄々とした掴み所のない笑顔に戻っていた。
「チェレンチーさんは、俺に、あなたの腹違いのお兄さんにあたるドゥアルテさんを『ドミノで完膚なきまでに叩きのめしてほしい』そう言いましたよね?『金輪際賭博に手を出したくなくなる程徹底的に』というのが、希望でしたよね?」
「あ、ああ、うん。」
「チェレンチーさんは、今自分が持っている全財産をはたいても俺を雇いたいと言って、俺は結局金は受け取りませんでしたけれど、『俺がドゥアルテさん相手に儲けた分の金から、傭兵団の資金として必要な分を引いて、その残りを全てチェレンチーさんが受け取る』という条件で、あなたの依頼を受けました。」
「確かにそうだったね。……そう、僕はあの時、傭兵団でひと月分働いた銀貨二枚しか持っていなかったら、後でどこかで必死に働いて、ティオ君への報酬を払おうと思っていたんだ。今は、その銀貨二枚を最後の勝負で外ウマに賭けたから、ティオ君のおかげでずいぶん増えたけれどね。それでも、君への報酬には全然足りないなぁ。」
「いや、お金の事はいいんです。最初に、俺は、チェレンチーさんからは一切お金を受け取らないと言ったでしょう。あ、でも、その代わり、先程のドミノ賭博で得た『傭兵団の資金分を引いた儲け』は、必ず受け取ってもらいますよ。まあ、今はこんな形ですが、その内ちゃんと金に換えますので。」
そう言って、ティオは、色あせた紺色のマントの中を探り、上着の胸ポケットに入れてあったドゥアルテにサインさせた借用書を取り出してチラと見せると、また元のようにしまっていた。
「まあ、この手のものは額面通り回収するのは困難なので、かなり目減りしてしまうとは思いますが。」
「ハハ。そうだね。えーと、『銀貨1500枚』の借用書が全部で七枚だから、合計で銀貨10500枚にもなるね。金貨なら1050枚かぁ。凄いね、たったの一晩のドミノ賭博で、ひと財産もふた財産も稼いじゃうなんてね。今晩の事は、この王都の繁華街の伝説として語り継がれるんじゃないのかな? アハハ。」
「今は慌ただしいので金に換えるのは難しいですが、時間が出来たら必ずチェレンチーさんに渡します。しばらく待っていて下さい。」
「うん、分かってるよ。ちゃんとその借用書の分のお金は僕が受け取るよ。」
チェレンチーはジョッキのビールを口に運びながら、ティオの確認に気安くうなずいていたが……
それは、さすがのティオも、ドゥアルテへの借金を回収出来ないだろうと予想していたためだった。
今ティオがマントの下の上着の胸ポケットに入れて持っている七枚の「銀貨1500枚」の借用書は、このナザール王国の法律上、正式な借用書であるとされる条件が整った、公的な効力を有するものだった。
つまり、法律的には、ティオの持つ七枚の借用書には、合計「銀貨10500枚」分の価値がある事になる。
しかし、それはあくまで法律上の話で、実質的にどうかと言うと難しい問題になってくる。
ナザール王国の法律は、殺人や強盗といった警備兵が駆けつけてくるような凶悪な犯罪にはその場ですぐに適応され、そのため王都の秩序と治安は守られている訳だが……
金の貸し借り、詐欺、商売上の契約不履行といった、警備兵が出張ってこない緊急性の薄い案件に対し、即座に強権を発動する事はあまりなかった。
不満のある者は、その一件の詳細を王国の役人に訴えて、それを役人が判断し、処遇を決める事になる。
もちろん、役人が下した処遇に不満があれば、もう一度訴える事も出来、それは複数の役人による話し合いや、上級役人に判断をうかがうよう連絡が挙げられたりもする。
しかし、そうした一般人の、主に金銭絡みの揉め事に関する訴えには、殺人や強盗などと違って、役人に訴えるのに手数料が掛かる。
何度も訴えれば、それだけ手数料はかさみ、こまごまとした金の貸し借りによるいざこざは、手数料よりも元々問題となっている金額が少額であったりするため、余程の事でない限り、民衆は訴えを起こす事はなかった。
それに、訴え出た所で、役人が自分に有利な決断をしてくれるとは限らず、しかも、その決定が下されるのには、ひと月ふた月、長ければ年単位で時間がかかってしまう。
つまり、金絡みで法律的な強制力を王国に期待するなら、「王国の役人に顔が利く」もしくは「役人に処遇を早く決めてもらうよう、国庫に寄贈という形で金を積む」必要があった。
実際、ドゥアルテの父は、この二つの手を使って、支払いのとどこっている取引相手から、ナザール王国の国家権力を背景に強制的に金を徴収していた。
要するに、借金を確実かつ即座に取り立てたいなら、社会的信用あるいは権力、そして、金が必要だった。
しかし、ティオは、ほんの半月程前にふらりとこのナザールの王都にやって来ただけの旅人だ。
今は、傭兵団の作戦参謀という役職に収まってはいるものの、その役職は傭兵団の組織化を進めるためにティオ自身が作ったものであり、いわゆる自称に近い。
そもそも傭兵団自体が、王都での信用などないに等しく、そのため、ティオには、社会的な信用も権力もまるでない状態だった。
そんな、地位も権力も持たないティオが、ドゥアルテ家やドゥアルテ商会から借金を回収するのは至難の業だろうというのが、チェレンチーの判断だった。
もちろん、借用書自体には公的な効力があるので、ティオ自らドゥアルテの所に行って、「金を返せ」と訴える権利はある。
しかし、その程度の事で、あのドゥアルテが素直に金を返すとはとても思えなかったし、商会もまた、のらりくらりと逃げ回るだろうと簡単に予想がついた。
つまり、ティオがドゥアルテにサインを書かせた借用書は、チェレンチーの中では「絵に描いた餅」という認識だったのだ。
まあ、自分の所に、その借用書によって取り立てた金が回ってくる事は、間違ってもないだろうと、チェレンチーはたかをくくっていた。
ドゥアルテをドミノ賭博で大敗させ、何枚もの借用書を書かせたティオには申し訳ないとは思ったが、まかり間違ってそんな大金を受け取ったとしても自分には扱いきれないので内心ホッとしている、というのが正直な所だった。
「じゃあ……チェレンチーさんから見て、俺は『ドゥルテさんを完膚なきまでに叩きのめす』というあなたの願いを達成出来ましたか?」
「ああ、それはもちろんだよ! 銀貨1500枚分の借用書を七枚も取るなんて、間違いなく大勝利じゃないか! 兄さんが番頭達に命じて持ってこさせたドゥアルテ商会の金も全部巻き上げたし、未だ『黄金の穴蔵』へのツケは丸々残ったままだしね。まあ、あれだけの大規模な商会だから、今日明日に潰れるという事はないだろうけれど、この夜ティオ君が兄さんに与えた打撃は、確実にドゥアルテ家とドゥアルテ商会の終わりを早める事になったと思うよ。……僕の望み通りだよ。」
「それに……あの兄さんの様子から言って、当分はドミノのドの字を聞くのも嫌なんじゃないかな。これを機に、ギャンブルからはキッパリ足を洗う、なんて事もあるかもしれない。兄さんは、いつも虚勢を張っているけど、本当はとても臆病で小心な人だから。さっきティオ君に与えられた恐怖は、良い薬になったんじゃないかな。良薬口に苦し、とは言うものの、ちょっと効き過ぎちゃったかもしれないね。」
ドゥアルテは、黒チップ勝負の終盤で、椅子を蹴って逃げ出そうとして、足元がおぼつかずに転倒したり、プレッシャーに耐えられずにゲーゲーと吐いたりしていた。
チェレンチーは、そんな姿を思い出すと、自分がティオに頼んで追い詰めてもらった結果ではあったが、さすがに少し哀れに思わずにはいられなかった。
チェレンチーの心には、もはや欠けらも兄に情は残っていなかったものの……
今までドゥアルテ家の莫大な資金力を背景に、この世で自分の思い通りにならないものはないとばかりにやりたい放題をしていた人間が、ほとんど自業自得とは言え、みるみる転落していく様は、世の無常を感じさせ、自然と感慨深い心境になっていた。
「では、俺はチェレンチーさんの願いを叶えた、という事でいいんですね?」
「うん、そうだよ。本当にありがとう、ティオ君!」
「じゃあ、そのお礼と言う訳ではないですが……」
ティオは、改めて、ギッと椅子ごと体をチェレンチーの方に向けると、真っ直ぐに目を見つめて語りかけてきた。
「俺の願いを一つ聞いてもらえますか、チェレンチーさん。」
「ティオ君の願い……なんだろう? 僕に出来る事ならいいんだけど。」
「僕は、こんなだから、傭兵団に居るって言うのに、戦闘面ではまるで役に立たないからね。ああ、もちろん、これからもちゃんとティオ君の補佐は頑張っていくつもりだよ。作戦参謀補佐として、事務的な面で君を支えられるように尽力するよ。」
「それはとてもありがたい事ですが、それが今俺の言おうとしていた願いではないんです。それに、傭兵団において俺の補佐をお願いしたのは、俺の方ですから、その件については後日改めてきちんとお礼させて下さい。」
「え? いいよいいよ! 今日兄さんをドミノで追い詰めてくれた事だけで、もう充分過ぎる程お礼になっているよ!」
「いやいや、作戦参謀補佐の役割と、今夜の事はまた別の話ですから。俺は、一度した約束は果たしますよ。作戦参謀補佐の件は、必ず後でお礼します。」
「ええと……じゃあ、今夜僕の願いを聞いてくれた報酬として、ティオ君が僕に望む事って、なんだろう? お金、ではないんだよね? さっきも、僕からのお金は受け取る気はないって言っていたし。」
「俺がチェレンチーさんに望む事は、一つだけです。」
ティオはそう言うと、スッと手を伸ばしてきた。
長身の体に比しても大きく感じるティオの手……
まだうら若いティオの生命のほとばしりを感じさせる瑞々しい皮膚に包まれた形の良い長い指は、普通ならば繊細に見えそうな所だが、節が固くしっかりとしているために、頼もしく力強い印象が強かった。
その指先が、そっとチェレンチーの首の右側の肌に触れた。
そこには、もうほとんど目立たなくなった傷跡があった。
良く見れば、刃物のようなもので横一文字に切ったものである事が分かるが、傭兵団に入ってからと言うもの、ならず者達の巣窟では生傷など珍しくなく、誰も気にとめる者は居なかった。
その傷を、ティオの指先は、しばし、優しく押さえるように触れて……
そして、去っていった。
チェレンチーはハッと息を飲んで、反射的にその指先を目で追い掛け……
その先にある、ティオの瞳を真正面から見つめる事になった。
細かな無数の傷を負って白濁して見える眼鏡のレンズとは対照的に、その奥に秘められた翡翠色の瞳は、どこまでも澄んで、温かく優しく微笑んでいた。
「もう二度と、こんなバカな事はしないで下さい。」
「チェレンチーさんが居なくなってしまったら、俺はとても悲しいです。」
「ティオ君……」とチェレンチーは、彼の名前を呼んだつもりだったが、それは音にならず、代わりに両の目から熱い涙が溢れ出していた。
溢れた涙はあっという間に頬を伝って零れ落ち、燭台のロウソクが照らす古い木製のテーブルの上にポタポタと透明な水滴を撒いた。
(……ティオ君、きみは……知っていたんだね。僕が、兄さんに脅されて、一度は自分の命を絶とうとした事を……)
チェレンチーはギュッと膝の上で拳を握り締めると、溢れ続ける涙を拭う事なく、ティオを真っ直ぐに見つめ返して……
コクリと小さく、けれど、しっかりと、うなずいた。
「……ああ、誓うよ、ティオ君。僕は、もう二度と、あんな事はしないよ。」
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☆ひとくちメモ☆
「ティオの瞳」
細かい傷のビッシリついた分厚いレンズの眼鏡を四六時中掛けているため、ハッキリと見る機会は少ないが、独特な緑色をしている。
その色は、苔むした大樹が立ち並ぶ深い森を思わせる。
琅玕と呼ばれる翡翠に良く似ているというのがチェレンチーの感想である。




