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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第十節>長き旅路(前編)
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過去との決別 #138


(……概ね、僕の推理していた通りだった。でも、こうして兄さんの口からはっきりと証言を聞けた事で、僕の考えていた事がただの妄想ではなく、実際に起こった事実だったと確定した。そういう意味では、少しだけスッキリしたかな。……)


 チェレンチーは、特に真実を追求したかった訳ではなかった。

 亡くなったばかりの父の口から甘い花の香りがしたのに気づいた時に、もう、夫人と兄が父にした事の全容をほぼ察しており、こうして今実際に兄の口から当時の状況を聞いたところで、特に目新しい事実は浮かんでこなかった。

 ただ、しみじみと、本当に夫人と兄の二人が父を死に追いやったのだと改めて実感しただけだった。


「……お、俺がやった事を、い、いや、母さんがやった事を、みんなにバラすつもりなのか?……しょ、証拠はないぞ! 今更探したって無駄だぞ!」

「先程も言いましたが、僕は兄さんと奥様がした事を皆に知らせる気はありませんよ。そう思っていたら、もっと早くに行動していた筈でしょう?」

「じゃ、じゃあ、なんで今更そんな話をした? 俺を責めるつもりだったんじゃないのか? 正義面して、俺の罪を裁こうとしてたんだろうが!」

「責める?……いえ。ですから僕は、『最後に兄さんと少し話がしたかった』だけですよ。そう、ただの思い出話です。傭兵団の兵舎のそばにあの黄色い花が咲いていて、『ああ、いつの間にか春が来たのだなぁ』と思った。その感慨を語りたかっただけです。」

「う、嘘をつけ! お前は、俺を陥れようとしているんだ! あ、あの時の事を、父さんが死んだ時の事を、俺が殺したせいだとみんなの前で話して、俺を犯罪者にしようとしてるんだ! そ、そうなんだろう!?」

「……」


 チェレンチーは、恐怖と不安からブルブル体を震わせ、真っ赤な顔でギャンギャン吠え立ててくる兄を見下ろして……

 一旦は口を開きかけたが、やがて、何も言葉を発する事なくそのまま静かに閉じた。


 チェレンチーは、兄にも、夫人にも、彼らが金のために父を毒殺したと気づいた時から、その人間性に心底愛想が尽きていた。

 以前は、自分に指示を出していた父が亡くなったのち、父の遺言に従って、兄と夫人を次なる自分の主人とし、従順に命令を聞いてゆくつもりでいた事もあったが、それは父によって刷り込まれた反射的な行動であり、チェレンチー本人の心が望んだものではなかった。

 しかし、結局は、父の死後、とうの兄と夫人によってドゥアルテ家を追い出され、そして今日、兄ともドゥアルテ家とも完全に決別した。

 今となっては、チェレンチーの胸の中に残っているのは、兄と夫人へのヘドが出るような嫌悪感のみだった。

 それは、燃え盛る炎のごとき激情を伴った憎悪ではなく、どこまでも凍てついた荒野のような諦めの果ての侮蔑だった。


 チェレンチーの本心としては、最後に一つ引っかかっていた、喉に刺さった魚の小骨のような事実を確かめたかっただけだった。

 それが済んだため、もう今は、兄に話す事は完全になくなってしまっていた。

 目の前の兄への興味関心が完全に消え去った。

 元々、特に憎しみに駆られていた訳でもなく、むしろ嫌悪感の方が強かったため、用事がなければ口もききたくないし視野にも入れたくないという感覚だった。

 チェレンチーの心は、目の前の醜悪な汚泥が何やら見苦しく騒いでいるのを見て、スウッと無関心という方向へ冷めていった。

 もはや、あれこれ一々この醜い生き物に説明するのも億劫だったが、その騒音があまりに耳障りだったので、感情が失われたような淡々とした口調で語った。


「僕は、あなたの罪を公表したり、裁いたりする気なんかありませんよ、兄さん。」


「兄さんが言う通り、父さんの遺体は葬儀の後埋葬されましたし、あれからもう時間も経って、証拠などどこにも残っていないでしょうしね。でも、もしも、この世で、兄さんが犯した罪を誰かが責めると言うのなら、それは僕ではありません。」


「それは、兄さん、あなた自身です。」


「傭兵団の団員達が話しているのを聞いた事があるんです。殺す気もないのに、人を殺めてしまった事があるのだと。ナイフを持って襲いかかってきた相手から身を守るために殴り飛ばした時、倒れた相手は打ち所が悪くて、そのまま数日後に亡くなってしまったのだそうです。そして、その話をしていた傭兵団員は、ずいぶん苦しんでいるようでした。」


「自分が相手に刺された訳でもないのに、なぜ苦しむのかって?……それが人間というものでしょう? 人を殺めた人間は、たとえ法的に罪に問われる事がなかったとしても、その後何十年と罪の意識に囚われ苦しむ、という話を聞いた事があります。むしろ罪を責められ裁かれた方がずっと楽だったと、後になって述懐するのだそうです。それ程までに、人を殺めた罪悪感というものは重く辛いものなのでしょう。僕が話を聞いた傭兵団員は、殺してしまった相手の死に顔が目に焼きついて離れない、毎晩夢に見る、そう言っていました。」


「兄さん、あなたも、もう既に、何度も父さんの夢を見て、うなされて夜中に起きたりしているんじゃないんですか?」


 チェレンチーの言葉を聞いて、ドゥアルテは丸めた背中をビクッと痙攣させた。

 避けるように視線を斜め下に落としていたので目をのぞき込む事は出来なかったが、その反応を見て、チェレンチーは、自分の想像通り兄が父の幻に怯えて暮らしている事を察した。



 ドゥアルテは人一倍臆病な性格だ。

 そして、彼は、父が死ぬ時その場に居て、苦しむ姿を目の当たりにしてしまったのだろう。

 おそらく、兄は、母親である夫人に父を毒殺する事を持ちかけられ、夫人の高圧的な態度に逆らえず、また、ドゥアルテ家の財産を早く自分の自由にしたい欲望から、手助けする事を決めた。

 父に毒を飲ませるのは自分がすると夫人に言われ、ドゥアルテはただ少しの間誰かが来ないように見張っていればいいものだと考えたに違いない。

 しかし、実際は、毒花を煎じた茶を飲ませてから父が息を引き取るまで、おそらく十五分以上の間があった。

 ドゥアルテは、茶を飲ませたらすぐに父は死ぬと思っていたのだろうが、予想を大いに裏切って、父は、夫人と兄の前で苦しみもがき続けた。

 父が亡くなった後に屋敷に帰ってきたチェレンチーは、苦悶に歪んだ父の死顔と寝具の乱れ具合から末期の苦しみの激しさを想像したのみだったが……

 目の前で見ていた夫人と兄は、かなりの衝撃を受けたに違いない。

 骨と皮だけになり、自分一人では食事も用を足す事も出来ず、一日の大半をベッドに沈み込むように横たわって朦朧とした意識で過ごす父を、ドゥアルテは(もう死んでいるようなもの)とでも思っていた事だろう。

 しかし、毒を飲まさせられた父は、強い生への執念を見せ、酷くもがき苦しんだ。

 目を剥き、涎を垂らし、全身を引きつらせ、また痙攣させ、地鳴りのような呻き声を発して悶絶する父の凄惨な最後の姿は、小心なドゥアルテの脳裏には特に鮮明に焼きついたものと思われる。

 ドゥアルテはその場から逃げたくてたまらなかったのだろうが、父が死ぬのを見届けるため、逃げる訳にもいかなかった。

 いや、恐怖で足が竦んで物理的に逃げられなかったのかもしれないが。

 父が息を引き取るまでの十数分は、ドゥアルテにとっては、実際よりもっと長く、何時間にも感じられた事だろう。


 そして、その時の強烈な恐怖体験は、今もドゥアルテの精神を蝕んでいると推察された。

 夫人の方は、元々地方豪族の娘で、自分以外の人間を見下す傲慢さと酷薄さを持ち合わせていたので、しばらくすれば贅沢な暮らしの中で嫌な記憶を消していったのだろうが、臆病で小心なドゥアルテの方はそうはいかなかった。

 思えば、父の死後、兄の放蕩に拍車がかかり際限なく金を使って遊びまわっていたのは、父の死の忌まわしい記憶から逃れるためだったのかもしれない。

 しかし、結局逃避は不完全であり、不可能でもあった。

 なぜなら、ドゥアルテが心底逃げたいと思うそれは、返り血のようにベッタリと彼自身の体と心の奥底に染みつき、享楽という水で洗っても洗ってもぬぐい去れないものだったからだ。

 誰しも、自分自身からは決して逃げる事は出来ない。

 自分が今まで歩んできた人生からは、絶対に逃げられない。

 長い苦悩の末、ようやくドゥアルテ家との縁が切れた今のチェレンチーは、それを誰よりも実感していた。



「さっきも言ったように、僕には、兄さんのやった事を断罪する気は全くありません。それ以前に、今夜この店を出たら、もう二度と兄さんに会う事もないでしょうしね。」


「でも、兄さん、あなたは、これから先もずっと、折に触れて父さんの死を思い出すでしょう。そして、恐怖に怯え苦しむ事になる。」


「誰も、兄さんの罪を暴いたり、兄さんを罰したりはしませんよ。安心して下さい。僕は誰にもあの事を話していませんし、これからも話しません。他に気づいている人間も居ません。全ては闇の中です。……でも、もし、兄さんに罰が下ると言うのなら……」


「兄さんがこれから先、一生、父さんにした事への罪の重さを抱えて生きていく。その事自体が、罰になるんじゃないですか。」


 ドゥアルテは、最後の方はもうずっと、握った両の拳をテーブルに押しつけてうなだれ、押し黙っていた。

 その肩が細かく震え、額にビッシリと冷汗が浮いているのを見て、チェレンチーは、まさに今も、兄が目に見えない獄中で「罰」を受け続けている事を察した。


 もう、全て自分の中にあるドゥアルテへの気持ちを言葉にして出し切ったチェレンチーは、ふと振り返り、ちょうど『黄金の穴蔵』のオーナーを中心とした話し合いが終わった様子に気づいて、きびすを返そうとした。


「それでは兄さん、僕はこれで。最後に話に付き合ってくれてありがとうございました。」

「……ま、待て! チェレンチー!……おま、お前、こんな時に父さんの話をするって事は……」


「俺がこの勝負に勝ったら、それをネタに俺を脅そうって魂胆なんじゃないだろうな? お前が味方してるあの若造が負けた時、この勝負をはじめからなかった事にするつもりなんだろう?」


 血走った目で唾を飛ばしながら吠えるドゥアルテの姿が、チェレンチーには、まるで臆病な子犬が歯を剥き出しにして唸っているかのように見えていた。


 チェレンチーは、スウッとゆっくり息を吸い込むと……

 見知らぬ赤の他人に対応するように、物腰柔らかに、けれどきわめて事務的に、微笑みを浮かべて答えた。


「そんな事はしませんよ。心配しないで下さい。」


「だって、この勝負に勝つのは、ティオ君ですから。」


「さようなら、兄さん。」


 そして、スッと視線をティオの居る自分の居場所に向けると、もうなんのためらいもなく、真っ直ぐに歩んで去っていった。



「『黄金の穴蔵』は、手続きの簡略化を了承いたしました。ただ、今回は非常に特殊な状況ですので、今回の勝負に限りという事になります。」

「分かりました、ありがとうございます。お手数お掛けしました。……もちろん今回の勝負限りで構いませんよ。俺としても、こんな勝負は二度としないでしょうし。と言うか、この勝負の決着がついたら、たぶんもう、この賭場には顔は出しません。」


 話し合いが終わって、『黄金の穴蔵』のオーナーの周囲に集まっていた幹部達が散会し、従業員服姿の小柄な老人がうやうやしい態度でティオに報告にやって来た。

 ティオはきちんと礼を言うと、待っている間に用意しておいた黒チップを老人に差し出してきた。


「では、さっそく手続きを済ませましょう。こちらに黒チップ188枚ありますので、数を確認の上、手数料分を受け取って下さい。」

「承りました。」


 ティオがテーブルの上に10枚ずつ積んで分かりやすく並べていた黒チップを、老人ともう一人チップ交換を担当している中年の従業員が数え始めた。

 既に、今回の借用書はティオの手により作成済みでドゥアルテからもサインを貰っているので、後はチップのやり取りのみだった。

 ティオがもう一度借用書に素早く目を通し、確認が済んだ所で……

 預かった黒チップを数えていた小柄な老人が、188枚の黒チップから手数料38枚を引いた150枚をドゥアルテに渡した。

 ここまで、ティオが発案時に明言した通り、作業の簡略化によってかかる時間が大幅に減っていた。

 また、『黄金の穴蔵』側の作業を指揮した小柄な老人の手際の良さもあって、あっという間に流れるように手続きが進み、そして完了していた。



 なお、ティオには、赤チップ5枚が、釣りとした渡された。


「黒チップに交換なさいますか?」

「わざわざこれっぽっち替えてもらうのも申し訳ないですよ。」

「いえいえ、これが私の仕事でございますので。」


 ここまで、ティオがドゥアルテに、『黄金の穴蔵』へのツケを返済するために銀貨1500枚を貸しつけたのは三回。

 毎回ティオは、黒チップ188枚を渡して換金してもらっており、余剰分の赤チップ5枚が、合計15枚手元に帰ってきていた。

 この勝負を始めるにあたって、ティオは、それまで裸チップや白チップも混ざって持っていたものを、出来る限り黒チップを変えた。

 その時に交換出来なかった端数としての赤チップもチップ箱には残っており、釣りで返ってきた15枚を入れると、確かに従業員服姿の老人の言う通り、黒チップ2枚分にはなっていた。

 ティオは従業員の手間を考えて遠慮していたようだったが、気を利かせて両替を提案した老人の言を受け入れて貯まった赤チップを交換し、老人は作業を終えたのち一礼してさがっていった。


 「さて」と、ティオは、ドゥアルテが借金の末に受け取った黒チップ150枚を自分のチップ箱に入れるのを待って、改めて正面に向き直った。


「では、さっそくゲームの続きを始めましょうか。……10戦目。あなたが先攻ですね、ドゥアルテさん。」


読んで下さってありがとうございます。

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☆ひとくちメモ☆

「黒い宝石のついたペンダント」

チェレンチーが夫人に頼まれて街の宝飾店まで注文していたペンダントを受け取りに行っている間に、先代当主である父は亡くなってしまった。

病に伏していた父のそばにいつも付き添っていたチェレンチーを追い払う口実だったと思われる。

ペンダントには黒い宝石が飾られており、喪に服す時用のものであった。

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