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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第十節>長き旅路(前編)
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過去との決別 #127


「ここで俺の意見を聞いて、それに納得したとしても、それは本当のあなたの答えにはならないんじゃないですか?……あなたのお母さんは、あなたに最後に残してくれたのでしょう?『自分のために生きて』『自分の幸せを見つけて』ほしいという言葉を。だったら、やはり、あなた自身がこれから先生きていく中で、自分自身の力で見つけ出さないと、ね。」


「……ああ。」

 ティオの返答を聞いて、チェレンチーはハッと目を見開いたのち……

 情けない気持ちでうなだれて、思わず手で顔を覆った。


「……その、通りだね。ティオ君の言うように、確かにこの事は、僕の中だけで解決するべき事だった。」


「ハハ、僕の悪い癖だな。どうしていいか分からなくなると、すぐに、自分よりしっかりとした考えを持っていそうな人に答えを求める。そうやって、ずっと自分の意思を捨てて父の言う通りに生きてきた事を、後悔したばかりだって言うのに。これからは、たとえ結果的に失敗してしまったとしても、ちゃんと自分の事は自分で考えて、自分で選んで、自分で決めて、そうやって生きていこうと決心した筈なのに。」


「別に、そこまで生真面目に考えなくてもいいんじゃないですか? 何かに迷った時、身近な人間に聞いてみるというのは良くある事ですよ。酒の席での話ですしね。俺は下戸なので飲んでませんけど。」

 と、ティオは深刻な表情で落ち込んでいるチェレンチーを慰めるようにそう言った後、ふと、思い出したように語った。


「ああ、でも、チェレンチーさんの話を聞いていて、俺にも一つ分かった事があります。」

「……わ、分かった、事?」

「ええ。」


 先程、チェレンチーが問うた「幸福とは何か?」という言葉に「それは、あなた自身で考えなくては、本当の答えにならない」と返したティオだったが……

 この時は、包み込むような優しい笑みを浮かべて、すんなりと答えてくれた。


「あなたのお母さんが、チェレンチーさん、あなたの事を、とても大切に思っていたという事です。あなたの事を、本当に、心の底から、愛していたのでしょうね。」

「か、母さんが?……た、確かに、母さんは、いつも僕の事を考えてくれていたよ。うん、愛してくれていた。僕の事を、何の見返りもなく本当に愛してくれていたのは、母さんだけだった。母さんは、僕がまだ子供の頃に亡くなってしまったけれど、その子供時代に母さんから無償の愛を与えられていなかったら、僕は今のような人間にはなれなかったと思う。僕の根底にある、人として大事なものを作ってくれたのは、母さんだ。母さんには、本当に感謝しているよ。」


「で、でも、ティオ君はどうして、母さんが僕の事を本当に愛してくれていたと思ったんだい?」


 ティオは、繁華街の外れにある安酒場の奥まった一席で、テーブルの上に置かれた燭台のロウソクの、小さくも温かな光の輪の中で、穏やかな口調で語った。


「チェレンチーさんの話を聞いている内に、あなたが、亡くなったお母さんをとても大切にしていた事が俺にも良く分かりました。あなたは、世界中の誰よりも、お母さんの事を愛していた。だからこそ、お母さんのために、引き取られたドゥアルテ家で、幼いながらも必死に生きてきた。お母さんが、何の苦労もなく、毎日を健康に、楽しく笑って過ごしてくれる事が、あなたの唯一の望みだった。……つまり、チェレンチーさんにとっての幸福とは、『お母さんが幸福でいてくれる事』だった訳ですよね?」

「う、うん、その通りだよ。……だから、母さんが亡くなってしまってから、僕は、何を目的に、希望に、生きていっていいのか分からなくなってしまったんだ。母さんの居ないこの世界で、僕が『幸せに生きる』なんて、到底出来ないと思った。」

「チェレンチーさんが、この先の人生で亡くなったお母さん以外にどんな『幸せ』を見つけるのかは、俺にも分かりません。さっきも言ったように、それはチェレンチーさん自身にしか、見つける事の出来ないものでしょうしね。でも……」


「あなたのお母さんが、あなたを心から愛していた事は、間違いないでしょう。……良く思い出して下さい。お母さんが、最後にあなたに贈った言葉を。」

「『自分のために生きて』『自分の幸せを見つけて』という言葉の事だよね?」

「それもそうですが……あなたのお母さんは言っていましたよね?」


「チェレンチーさん、『あなたが幸せに生きている事が、自分にとって何よりも幸せな事』なのだと。」


「それは、チェレンチーさんがお母さんに対して思っていた事と同じですよね。……そう、つまり、チェレンチーさん、あなたが何よりもお母さんの幸せを願っていたように、お母さんもまた、あなたの幸せを何よりも願っていたんですよ。あなたが、お母さんが幸せなら自分も幸せだと思っていたように、お母さんもまた、あなたが幸せなら自分も幸せだと思っていた。あなたが、お母さんをかけがえなく大切に思い愛していたように、お母さんも、あなたをかけがえなく大切に思い、深く愛していた。」


「だから、自分の死を予感した時に、願わずにはいられなかったんでしょう。他でもない、あなたの幸せを。そして、あなたに『幸せになってほしい』と、最後に伝えたのだと思いますよ。」


「……母さん……」


 ティオの言葉は、静かな音楽のごとき波音を立てて流れる河のように、チェレンチーの心の中に押し寄せてきては、すっかり古びてこびりついてしまっていた悲しみを、どこか遠くへと洗い流していった。

 夕暮れ間近の平らかに風の凪いだ川面には、金色の光がまばゆくも柔らかに、さざめき揺れている。

 その、美しく物悲しく、けれど、優しい光に満ち溢れた心象風景の中に、今も記憶の奥に残る懐かしい母の声が響いていた。


『……私は……あなたが幸せに生きている事が、何よりも幸せなのよ……私の可愛い坊や、チェレンチー……』


 チェレンチーは、気がつくと、ボロボロと涙を零していた。

 遠き記憶の中の母を思って泣く自分があまりにも子供じみているように感じて、必死に両手の指で目元を擦って涙をぬぐい去ろうとしたが、温かな雫は、次から次へと溢れて止まらなかった。

 ティオは黙ったまま、そんなチェレンチーの細かく震える肩に片手を置いた。

 いいのだと、こんな時ぐらい思い切り泣いてもいいのだと、ティオに許されたような気がして、そこからますますチェレンチーの涙は溢れ続けた。

 チェレンチーの生み落としたたくさんの涙は、自分の中を流れてゆく光の川の水に混じって、ゆっくりとゆっくりとだが、どこか知らない遠くへと、流れ去っていく気がした。


(……か……母さん……母さん、母さん、母さん!……)


(……誰よりも愛してる、母さん!……そして、僕を愛してくれて、ありがとう、母さん!……)


 顔を伏せ必死にこらえても喉の奥から込み上げてくる嗚咽は、安酒場の雑音に紛れて、ほとんど周囲の人間には聞こえてはいなかった。

 同じテーブルの向かいでは、貨幣の入った袋を抱きかかえ枕にして寝こけているボロツが、先程からまたいびきをかきだしていたし、そもそも、こういった店では酒に酔って感情が高ぶり喜怒哀楽が激しくなる人間の姿など日常茶飯事だった。

 そんな庶民の息抜きの場である酒場の一角で、見知らぬ人々の様々に悲喜こもごもな人生に混じって、チェレンチーは、しばらく、抑えながらも時折声を漏らして泣いていた。


 ティオは、チェレンチーの肩にそっと手を置いたまま、黙って様子を見守っていたが、チェレンチーが落ち着いてくると、静かな口調で、まるで誰にあてるでもなく独り言をつぶやくように語った。


「あなたのお母さんが、厳しい境遇の末に病に倒れ、あなたがまだ子供の内に亡くなってしまったのは、お母さんの事を愛していたあなたにとって、とても悲しい事だったと思います。」


「でも、あなたは心からお母さんを愛し、お母さんもまた、あなたを心から愛してくれていた。自分の幸せよりも、相手の幸せを願う程に。お互いに、自分の全てをかけてでも大切な人を幸せにしたいと思って、一生懸命生きていた。」


「そんなふうに、自分よりも大切に思える人に出会えた事は、とても幸運な事だと俺は思いますよ。」


「人の一生は、長いようで短く、短いようで長い。人の命は、たくましいようでか弱く、か弱いようでたくましい。その、永遠のような一瞬のような時間の中で、誰かを心の底から愛する事のない人も、きっと多く居るのでしょう。愛する事を知らず、愛される事を知らず、一生を終える人は少なくない。」


「でも、あなたは違う。」


「あなたは、お母さんを心から愛し、お母さんに心から愛された。」


「今までのあなたの人生は、お世辞にも順調とは言えないとても過酷なものだった。でも……あなたは、本当の愛を知っている。そのただ一点だけでも、とても幸運なのだと、俺は思います。」


 

「これで、五つ目。……後、十五。」


 ティオは自分のチップ箱から黒チップを一枚抜き取り、パチリとテーブルの端に置いた。

 既に四つ置いていたチップに繋げると、いよいよ縦に並べようとしている列の形がはっきりとしてくる。


「ああ、どうもどうも、ありがとうございますー。」


 そうして、ドゥアルテから5戦目の負け分のチップを受け取り、ススッと手慣れた手つきで素早く整えると、チップ箱に収めた。

 さすがにドゥアルテも、もう適当にチップを掴んで放ってくるような事はせず、一枚一枚数えながらテーブルの上に出してからティオの方へグイと押しやっていた。


 ドゥアルテが負け分の支払いにチップが足りなくなり、ティオから借金をして『黄金の穴蔵』へのツケを一旦全額返済したのちに新たに上限までツケでチップを借り出したのは、3戦目の後の事だった。

 3戦目の支払いで足りなかった8枚分の黒チップをティオに渡し、残り黒チップ142枚を持って4戦目をスタートしたが……

 4戦目、5戦目ときて、今や、ドゥアルテのチップ箱に入っている黒チップは67枚にまで減っていた。


(……もし、次も負けたとしても、まだもつな。……)


 対戦相手であるティオから借金をしてまで手にしたチップがもう半分以下に減っているのは、チップ箱の中に出来た空白の大きさから視覚的にもドゥアルテの神経に突き刺さってくる。

 ドゥアルテは、慌ててブンブンと首を左右に振った。


(……つ、次も負けるってなんだ! 何を考えてるんだ、俺は! 最初から負ける事を考えてドミノを打つ馬鹿がどこに居る!……)


(……そういうのを、「負け犬根性」って言うんだよ! 俺の大っ嫌いなヤツだぜ!……そして、ドミノゲームでは、「負ける」と思ったヤツから、負けていくもんだ。自分が「負ける」事を考えながら打つヤツは、その内必ず負けが込んできて、この赤チップ卓から弾き出されていった。もう何度も見てきた光景だろうが。負けるヤツは負けるべくして負けるんだよ。「負け犬根性」のヤツが負けるんだ。……)


(……お、俺は「負け犬」なんかじゃねぇぞ! 俺は、いつだって、勝つ側だ!……見ろ、あのクソゴミ野郎のチェレンチーを。親父が生きていた事はせっせと親父に尻尾を振っていたが、今じゃ頼りの親父が居なくなって、あんな怪しい浮浪者崩れの自分より歳下のガキの後ろに必死に隠れていやがる。ああいうのが、生まれつきの本物の「負け犬」ってヤツだ。ハハッ! アイツがドゥアルテ家に居た頃は、俺が顔を見せるだけで、もう背中を丸めてブルブル震えてやがったっけなぁ。殴るとすぐに悲鳴を上げて泣き出してたぜ。アイツのひっくり返った悲鳴は、それはそれは情けなかったぜ。蹴るたびに飛び上がって悲鳴を上げるアイツの姿を見るは、たまらなく面白かったぜ。ハハハッ!……)


(……そう、俺は、勝つ側だなんだよ! そして、チェレンチー、お前は、俺に負けて地面に這いつくばって泣き叫ぶ、負け犬側だ! 俺とお前の位置は、天地がひっくり返っても変わらねぇ!……俺はこの勝負に勝って、お前をもう一度、俺の前にひれ伏させてやるぜ! 今のその澄まし顔を、もうすぐ、昔のようなグチャグチャの泣き顔にしてやるからなぁ!……)


 ドゥアルテは、腹違いの弟に向ける醜く暗い欲望を糧に、珍しく少し弱気になっていた自分を叱咤激励し、気分を切り替えた。

 向かいの席に座って顔色一つ変える事なく淡々とドミノを打ち続ける黒色の長衣を着たうら若い男が視界に入ると、彼の発する不可思議な圧力に、反射的にビクッとなってはいたが。


(……と、とにかく、次の一戦だ。……次こそ勝つ! 勝つ事だけを、考えろ! 俺は、必ず勝つ! なぜなら、俺は「勝つ側の人間」だからだ!……)


 確かに、次の6戦目はドゥアルテの先攻で始まる一戦だった。


 ドミノゲームは、自分が一番はじめに打ち出す回が最も勝ちやすい。

 順番に皆が一枚ずつ手牌を出していったとしても、一番に牌を出す権利のある一番手が真っ先に手牌を出し切り勝利する事が出来るからだ。

 実際は、そうスムーズに場に出ている牌に繋がる牌を出せずに、山から引いてきたりパスをしたりといった場面も多く出てくるのだが、理論上一番手が勝利しやすいという条件は変わらない。

 今はいつもの四人対戦ではなく、ティオとの一対一の勝負であるので、先攻の時の方が勝ちやすいという状況だった。

 つまり、ティオが先攻となる奇数回目の一戦はティオに有利、逆に、ドゥアルテが先攻となる偶数回目の一戦はドゥアルテに有利であった。


 攻め時を確信して、ドゥアルテは、気合を入れて初牌を切り出していった。



「六つ。……これで、後十四となりましたね。」


 ティオが淡々とそう告げて、パチリとまた一枚、自分のチップ箱から摘み出した黒チップをテーブルの端に列になるように置いた。


「ところで、ドゥアルテさん。」

「……」

「ドゥアルテさん?」

「……な、なんだ? いきなり話しかけるな!」

「話しかけるなと言いましてもー……今の6戦目でのあなたの負け分が黒チップ53枚となって、俺がボーナスチップで取った15枚を入れると、あなたのマイナスは、この一戦で合計黒チップ68枚となるんじゃないですか?……俺の計算だと、あなたのチップ箱には、現在黒チップは52枚。この一戦の負け分を支払うには、黒チップ一枚分足りないと思うのですが。」

「……え?……は? えぇ?……」


 ドゥアルテは、勝負が終わって表向きに倒した、自分の手元に残っていた牌の目の数の合計と、チップ箱に残った黒チップの枚数を何度も見比べ、手に取って数え確認して、ティオの指摘が間違っていない事にようやく気づくと……

「ああっ!!」

 と、裏返った驚愕の声を上げていた。


 ティオは、そんなドゥアルテの慌てふためく様子を、向かいの席で片腕で頬杖をつきながら、相変わらず飄々とした様子で見つめていたが……

 ドゥアルテがやっと自分の置かれた事態を悟った所で、ニコッと笑って言った。


「たかがチップ一枚、されどチップ一枚。おまけしてあげたい所ですが、残念ながらルールはルールですので、しっかりと支払って下さいね。」


「それで、足りない分のチップ一枚は、どうしますか? また、『黄金の穴蔵』からツケで借りますか? おっと、それにはまず、あなたが現在『黄金の穴蔵』から借りているツケを完済する必要があったのですよね。銀貨1500枚を『黄金の穴蔵』に支払わないといけませんね。」


「もう一度、俺から金を借りますか? 喜んでお貸ししますよ、『銀貨1500枚』を。……あ! 当然、借用書は書いてもらう事になりますけれどもね。」


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「ティオとドゥアルテの黒チップ勝負」

1マッチ20戦という条件でドミノゲームが行われている。

ドゥアルテは、20戦中1戦でも勝てば勝利となり、それまで支払ったチップは全て返却され、更に賞金としてティオから銀貨5000枚を貰えるが、一方でティオが勝つためには、20戦全勝しなければならない。

明らかに、ドゥアルテに有利な条件下でのゲームである。

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