過去との決別 #124
「……最近、死んだ母さんの事を良く思い出すんだ。」
城下町の繁華街の外れにある酒場の片隅で、チェレンチーは静かに語った。
テーブルの向かいではすっかり酔い潰れたボロツが、貨幣の入った皮袋を太い腕で抱きかかえて枕にし、いびきをかいている。
酒で赤くなった凶悪な面構えには、良く見ると、楽しげな笑みが浮かんでいた。
もう夜明けまで一時間とない時刻だったが、酒場の中にはそれなりの人数がおり、聞き取れる言葉未満のザワザワとした人語の響きが満ちていた。
木造の建物に酒とタバコと男達の体臭が染みついているような馴染みのない安酒場の眺めと、適度な雑音が……
体は疲れていても神経が高ぶっているせいで眠気が訪れない、今の自分の奇妙な高揚感と合致して、チェレンチーは、どこか心地良いような不思議な感覚を覚えていた。
ティオは、ジョッキに入ったヤギのミルクを時折口に運び静かに相槌を打っては、チェレンチーの話に耳を傾けていた。
「僕の母さんは、元々ドゥアルテ家の使用人だったんだ。洗い物をしたり、掃除をしたり、使用人達の中でも一番下の雑用をしていた。それでも、身寄りのない母さんは、寝食が保証された大きな屋敷での仕事に就けたのはありがたい事だと思っていたんだと思う。」
「そんな母さんに、ドゥアルテ家の当主だった父は強引に関係を迫ったらしいんだ。僕はずっと母さんからは『父親は死んだ』って聞かされていたから、当時の状況はドゥアルテ家に引き取られてから、使用人達の噂で推察したものだけれどね。……そうして、僕を身ごもった事が発覚して、父との関係が夫人に知られた母さんは、酷い罵倒と共に着の身着のままでドゥアルテ家を追い出された。使用人達は元より、当事者である父も、夫人の怒りを恐れて、母さんを助ける事はなかった。そうして、母さんは、この王都の貧民街の片隅で、一人で僕を産んだんだ。」
チェレンチーは、取っ手に手を掛けていたジョッキをあおぐと、一口二口生ぬるいビールを流し込んで、一息ついてから続けた。
「貧民街は不思議な所でね。本当に今日の食べ物の当てもないような貧しい人達が、古い住居にネズミのように肩を寄せ合って暮らしているんだけれど、そんなギリギリの状態なのに、彼らの中には『助け合いの精神』があるんだよ。だから、誰かがどうしようもなく困っていると、一人、また一人、自分が持っている食べ物や着るものを持ち寄って、助けようとする。おかげで、身寄りのない母さんも、産まれたばかりの僕も、貧民街の人達に助けられて、なんとか生きていく事が出来たんだ。もちろん、母さんと僕も、他の人達に食料や衣類を分け与える事が何度もあったよ。……おかしいよね。都に住む市民として平均以上の良い暮らしをしている人間は、母さんや僕のような身寄りのない貧しい人間に手を差し伸べる事なんて、まるでなかったのにね。逆に、ゴミ溜めに住む人間以下の存在として、自分達とは違う醜く汚らしい生き物として、終始冷たくあしらわれていたっけ。……まあ、貧民街は、赤の他人同士でもお互い助け合わないと生きていけない極限状態だったというものあるんだろうけれど。まるで大きな家族みたいな感じだったって言うか。あの地区に住む人達は、他人の子供も自分の子供のように叱ったり、褒めたり、ご飯をあげたり、みんなで育てているかのような雰囲気だったよ。……最底辺のギリギリ生存出来るかどうかという暮らしの中で、他人同士が助け合い、子供や老人といった弱い存在を守ろうとする、そういう人間の生来の善性と言うか、利他的精神が発揮されていたのは、なんだか皮肉だね。物質的には貧しくとも、あそこの人達は、とても人間らしい心を持っていたよ。……そんな幼い頃の経験が、僕の人生観の基礎を作り上げてくれたのかもしれない。」
「ああ、ちょっと話がズレてしまったね。……そんな貧民街で、母さんは、女手一つで僕を必死に育ててくれた。繕い物をしたり、洗濯物を請け負ったりして懸命に日銭を稼いでいた。当然、生活は貧しくて、日によっては固いパンの一切れを口にするのがやっとの事も多かった。僕はガリガリに痩せて、いつもお腹を空かせていたなぁ。でも、不満は言えなかった。母さんの手が、いつもあかぎれでボロボロだったのを見ていたから。僕がお腹を空かせていると、母さんは自分の分のパンまで僕に食べさせようとするんだ。僕は、少しでも母さんの助けになりたくて、母さんの仕事を手伝ったり、自分で荷運びの仕事をしたりもしていたけれど、まだ小さな子供で力もないし、いつも栄養不足でフラフラしていたからなぁ。大した事が出来なくて、母さんが苦労するのをただ見ているだけだった。それが、何より悲しかったよ。」
「母さんは、ドゥアルテ家の旦那様であった父に対して、特に愛情は持っていなかったと思う。父の方から強引に力づくで持った関係だったしね。……それでも、産まれた僕の事を、母さんはとても可愛がってくれたよ。この世で一番の宝物のように、本当に大切にしてくれた。毎日僕のために、大した賃金にならない仕事を必死にこなして、一生懸命僕を育ててくれた。そう、まるで、自分の命を少しずつ削って燃やして、寒さに震える小さな僕をなんとか温めようとしているかのような生活だったよ。」
「でも、やっぱりそんな無理は、いつまでも続かないものだよね。僕が十歳になる頃、母さんはそれまでの無理がたたって、病に倒れてしまったんだ。こればっかりは、貧民街の助け合いでもどうにもならないものだった。医者に見せるのも、病に効く薬も、とんでもなく高額なお金が必要だったからね。その日食べるパンにも困っている僕達に、なんとか出来る筈もない。せめて、ゆっくり休んで滋養のある物を取って欲しかったけれど、そんな余裕はどこにもなかった。母さんは病床でも繕い物の内職を細々と続けて、なんとか親子二人が生きていくための日々の糧を稼いでいた。もちろん、僕は必死に働いたよ。貧民街の人達も、食べ物を分けてくれたり仕事を手伝ってくれたりと様々に支えてくれたけれど、それでも、日に日に病が進行して弱っていく母さんを、どうする事も出来なかった。」
「そんな時だった。着の身着のままで屋敷から追い出して以降、まるで忘れ去ったかのようにずっと放っておいた筈の父が、突然僕達母子を呼び戻したんだ。……その辺の事は、もう話したよね。ドゥアルテ家や自分の商会を継がせようと思っていた兄に全く商才がなかったから、将来的にその補佐をさせようと考えて、僕に商売のやり方を叩き込むためだったのだって。……まあ、なんにせよ、そのおかげで、母さんと僕は貧民街から抜け出して、やっと人並みの生活が送れるようになったのだけれど。……でも、もう遅かった。ドゥアルテ家に引き取られてすぐに、父に頼んで母さんを医者に診てもらった時『どんなに手を尽くしても病を治す事は出来ない。もう長くはないだろう。』って言われたんだ。その後『もっと早く治療に専念していれば、回復する事も可能だった。』と医者は補足したよ。……悲しかったなぁ。絶望で世界が真っ黒に塗りつぶされたような気分だった。母さんには見られないように、部屋の外に出て、声を殺して泣いたよ。」
「……しんみりした話になってしまって、ゴメンね。」
そう小さな声で謝って、チェレンチーは、またビールを煽った。
ティオは、特に咎める事も先を急かす事なく、静かな表情でチェレンチーの話に聞き入っていた。
「そういった経緯があって、僕はドゥアルテ家で暮らし始めたんだ。僕は、父の言いつけに従って、必死に頑張ったよ。午前中は家庭教師達が入れ替わり立ち替わり僕に勉強を教えた。ああ、さすがに、護身術の一環として習った剣術には苦心したなぁ。僕は、ほら、昔から運動神経がてんでダメだったからね。それから、勉強が終わると、午後は店に出て働くように言われたよ。と言っても、仕入れた商品を倉庫に運び入れたり、足りなくなった品物を店に補充したりといった、いわゆる下働きだった。教育は受けさせてもらったけれど、屋敷や店での立場は、一番下の使用人と同じだった。父は僕を表立って自分の息子だと言わなかったから、みんな知ってはいたけれど、ドゥアルテ家の人間として扱われる事はなかった。」
「僕は、朝から晩まで、勉強して、店で働いて、必死に父の言いつけを守った。そうしていれば、母さんはゆっくりベッドで休む事が出来たし、食事も食べられた。医者にだって診てもらえたからね。……父は、僕の勉強の成果が悪いと、手にした木製の定規で僕を打った。兄は、事あるごとに僕をいたぶった。ああ、そう言えば、僕を殴っている所を父に見られないように、いつも気にしているみたいだったけどね。夫人は、僕達をほとんど無視していたけれど、たまに偶然顔を合わせると、酷い言葉を吐いてきたよ。……僕は、病に伏せっている母さんに心配を掛けたくなくて、そういう話は一切しなかった。でも、たぶん、母さんは気づいていたんだろうなぁ。まあ、まだ子供だった僕が、毎晩夜遅くにクタクタになって帰ってきて、倒れ込むように眠ってしまっていたんだから、心配するよね、普通。隠してはいたけど、体はあざだらけだったしね。」
「ドゥアルテ家で暮らすようになったから、母さんは、良く僕に謝っていたっけ。『ごめんね』って。『私が不甲斐なくて、苦労を掛けてばっかりで、ごめんね』って。何度も何度も、僕の顔を見るたび、とても悲しそうな表情で言っていた。僕は『そんな事ないよ』って、いつも答えたんだけどね。だって、僕は本心から、母さんがゆっくり体を休める事が出来て、栄養のある食事も充分に取れて、お医者様にも診てもらえて薬も貰って、本当に良かったって思っていたから。でも、いくら僕が『心配しなくていいよ、僕は大丈夫だから』そう言っても、母さんの悲しそうな表情が晴れる事はなかったなぁ。」
チェレンチーは、テーブルの端に置かれた燭台の上で揺れる、もう残り僅かな長さになったロウソクの火を見つめながら語った。
蝋が溶けて、元の形が見る影もなく崩れたロウソクの炎のその奥に、子供の頃母と過ごした遠い日々を探すかのように、目を細めた。
「僕は、母さんのために生きていた。母さんのためだけに生きていた。……自分の事は、正直どうでも良かった。ただ、母さんに、少しでもいい暮らしをさせてあげたかった。滋養のある美味しいものを食べさせたかった。病気を治す事は、もう叶わなかったけれど、先は長くないと言われてはいたけれど、それでも、出来る限りの治療を受けさせて、少しでも、一日でも、一時間でも、一分一秒でも、長く生きていてほしかったんだ。少しでも長く、母さんと一緒に居たかった。」
「だから、父の厳しい教育にも、兄のいじめにも、夫人の悪口にも、耐えられた。母さんのためなら、僕はどんなに辛くても平気だった。毎日頑張る事が出来た。……まあ、勉強や店の仕事で忙しかったせいで、母さんと二人で過ごす時間がほとんどなくなってしまったのは、皮肉な事だけれどね。」
「そうして、僕は毎日必死に頑張ったけれど、生き物としての運命には、やっぱり抗いようがなかったよ。刻々と、母さんの寿命は減っていった。でも、あのまま貧民街に居たら、一月と経たずに亡くなってしまっただろう所を、ドゥアルテ家で暮らすようになったおかげで、二年半もの間生きられた。その事に関しては、資金的に援助してくれた父に感謝しているよ。ドゥアルテ家の経済力がなかったら、母さんは二年半もの間生きながらえる事は出来なかっただろうから。……けれど、そんな日々も、いつか終わりが来る。か細くも燃え続けていた母さんの命は、ついに、燃え尽きて、終わってしまった。」
と、チェレンチーの視線の先で、もういつ消えてもいいぐらいに小さくなっていたロウソクを、通りかかった給仕の若者が気づいて、燭台を手にして店の奥に持って行き、代わりに新しいロウソクを備えつけた別の燭台を置いていった。
「僕は、残念ながら母さんの死に目に会えなかったんだ。」
「他の町で商品を仕入れるという父について、王都を離れなきゃならなかったんだ。母さんの体調が良くなかったから、屋敷を離れたくないと父には懇願したけれど、聞き入れてもらえなかった。仕方なく、なるべく早く帰るからと言って、僕は母さんの元を離れた。なんとか、僕が帰ってくるまでは母さんの体が持ってくれるだろうと、希望的な予想をしていた。……でも、僕が帰ってきた時には、もう母さんは亡くなっていて、それどころか、都の城壁の外の墓地に埋葬された後だったんだ。母さんが死んだ事を知った夫人が、目障りなものをようやく遠くに追いやれると、さっさと遺体を処分させたという話は、随分後になってから使用人達から聞いたよ。いつも母を侮辱するような言葉を吐いていた夫人のこの仕打ちにはさすがに腹が立ったけれど、でも、まあ、屋敷の敷地内にあるドゥアルテ家の墓に埋葬されるよりは、ずっと良かったと思い直したよ。母さんも、死んでまでドゥアルテ家に縛りつけられるのは嫌だったろうからね。都の郊外の、春になると緑の萌え草が生い茂り小さな野の花々が咲く、そんな場所の方が、母さんもきっと穏やかに眠れる。」
チェレンチーは、新しくなったロウソクの灯りの元、ビールを二口三口飲んでは、深いため息を胸の奥から吐き出した後に、再び語り出した。
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☆ひとくちメモ☆
「貧民街」
ナザール王都の一角にある貧しい人々の住む居住区の通称である。
一般的に、安普請の木造の建物においていくつもの家族が部屋ごとに暮らしており、台所やトイレなどは共同である。
チェレンチーは、ドゥアルテ家に引き取られるまで、母と二人でそんな環境下に暮らしていた。




