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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第九節>最後の盤上
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過去との決別 #115

 

(……な、なんだ?……何なんだよ、コイツは!?……)


(……クソッ! ゾワゾワと嫌な気分だぜ!……さっきまではなんともなかったのに、どうして突然こんな嫌な感じがし始めたんだ?……)


 ドゥアルテは、冷や汗をビッシリかいて髪の貼りついた気持ち悪さに、上着のポケットから取り出した絹のハンカチで盛んに額を拭いていた。

 そうしている間にも、対戦者の座った向かいの席から、ゴリゴリと頭の骨を削られるような奇妙な圧迫感が感じられ、あまりの居心地の悪さに、大事なゲーム中でなければ「急用が出来た」と言って、今すぐこの場を逃げるように立ち去りたい気分だった。


(……チッ! あのクソ親父を思い出しちまったぜ! やっと死んでくれて、清々してたってのに!……)


 ドゥアルテは、目の前の若者の気配に当てられて、つい、思い出したくもない父親の事を連想してしまっていた。



 父は、非情だとか冷血だとか世間で言われていた所もある、とても厳しい人間だった。

 特に家業の商いに関しては、一部のミスも許さず、自分にとって利がないと分かれば容赦なく切り捨てる冷徹さをも持っていた。

 幸い、ドゥアルテは父に溺愛されて、欲しい物はなんでも与えられ、一度も怒られた事なく育ってきたが、それでも、父の持つヒリヒリとした独特で強烈な空気に、ドゥアルテはいつも内心酷く怯えていた。


 特に、父が怒りを感じている時、その圧迫感のある気配は、見えない無数の棘をはらんだかのごとき鋭い攻撃性を帯びた。

 ひとたび父が怒鳴ろうものなら、その対象がドゥアルテとは関係のない一使用人であろうとも、現場に居合わせてしまったが最後、その場に満ち満ちた突き刺すような空気に、ただそこに居るだけのドゥアルテまで、恐怖で震え冷や汗が止まらなくなったものだ。


 一度、ドゥアルテは、遊ぶ金欲しさに商会の金を父の目を盗んで持ち出した事があった。

 父はドゥアルテを疑う事はなく、代わりに従業員達を片端から呼んで厳しく問い詰めた。

 結局、ドゥアルテは、「早く金が見つけろ!」と毎日父に従業員達がこっぴどく怒鳴り散らされる状況を見ているだけで怖くなり、耐えられなくなって、自白する羽目になった。

 父はそれでも、愛息子であるドゥアルテを咎めず、「金が欲しいならワシに言うように」と注意したのみだったが……

 ドゥアルテは、また父を怒らせてあんな恐ろしい状況を目の当たりにするのが嫌で、それ以降父が亡くなるまで、商会の金に手をつける事は一度もなかった。


 そんなドゥアルテの心境を、生まれついての強者故に知るよしもない父は、息子との交流を図りたいらしく、事あるごとにこちらの顔を覗き込んで話しかけてきたが……

 ドゥアルテにとっては、ただの良い迷惑でしかなかった。

 父の前に居る時、ドゥアルテは、凶悪な大蛇が毒を持った鋭い牙のある口をパカリと開けてこちらを見据えているかのような感覚を覚えた。

 チラチラと、先の割れた長い舌が自分の体を舐めているがごとき居心地の悪さと恐怖が腹の底から込み上げてくるのを、いつも必死にこらえていた。

 そのため、ドゥアルテは、どうしても断れない時以外は、父の誘いを放って逃げるように屋敷の外に遊びに行っていたのだった。



 しかし、そんな、やり手の商人として恐れられた父も、病には勝てず、特に、二度目の発作を起こして倒れてからはみるみると弱り、やがて亡くなった。

 悲しいという気持ちは、ドゥアルテには全くなかった。

 むしろ、ずっと自分の人生を覆っていた重苦しい黒雲が消え去り、光満ちる青空が開けたかのような爽快な気分だった。

 自分を縛っていた父という重荷が完全になくなると共に、ドゥアルテ家の当主となってドゥアルテ商会の頭取を引き継いだドゥアルテは、我が世の春とばかりに自由を謳歌した。

 ドゥアルテ家の金も、ドゥアルテ商会の金も、全て自分の自由に出来ると喜んだ。

 先代当主の妻である実の母が、自分にも金を寄越せと顔を合わせるたびしつこく言い募ってくるのには閉口したが。

 母を避けるため、ますますドゥアルテは屋敷に近づかなくなり、娼館に入り浸ったり、水商売を介して親しくなった女の所を転々としたりしていた。


 何しろ、この国で一番の大商人なのだ、金はいくらでもある、そうドゥアルテは思っていた。

 ところが、父が死んでひと月もしない内に、商会の経営が危ういと番頭達から盛んに訴えられた。

 ドゥアルテ家の金は、彼の居ない内に母親が使い込んでおり、その事が原因で母と大喧嘩になった。

 商会の事は、正直ドゥアルテにはさっぱり分からなかった。

 はじめは、今まで全く関わってこなかった分物珍しさもあって、新しく頭取となった自分の威厳を知らしめようと、あれこれ思いつきを試してみたりもしたが、全く収益は上がらず事あるごとに番頭達になんのかんのと小言を言われるので、鬱陶しくなってやめてしまった。

 遊ぶための金を商会の金庫から何度か持ち出していると、また番頭達にやめてほしいと迫られた。

 しばらくすると、金庫にろくに金が入っていない状態となった。

 ドゥアルテは、「取引に使っている」などと嘘をついて番頭達が自分に黙ってどこかに隠したのだとばかり思っていたが……

 実際は、回転資金が著しく減り、商会に置いておける金がなくなっていたのだった。


 しかし、事ここに至っても、ドゥアルテはまだ、事態の深刻さをまるで実感していなかった。

 なぜ、商会の経営が上手くいっていないのか、その理由が理解出来ない。

 商人として辣腕を振るっていた先代が亡くなって大黒柱が失われた事、経営における自分の采配の失態、店の金を持ち出して遊興で溶かしてしまった事……

 挙げればきりのないマイナス要素の内のただの一つも、自覚がないままだった。


 ただ、番頭達の焦った様子や、現実として金が家にも商会にもない事態は、さすがのドゥアルテも見れば分かるものであったので、(ひょっとして、マズイのでは?)とうっすら思い始めていた。

 だが、その原因の多くが自分自身にあるとはつゆも思い至らず、番頭達をはじめ使用人や従業員を使えないクズだと罵っていた。

 以前のように金が湧き出るように集まってくると言うのなら、気に食わない腹違いの弟であるチェレンチーを、一旦ドゥアルテ商会に戻す事もチラと考えたが……

(……あの、生きている価値もないゴミ虫が! 何を勘違いしたのか、この俺に偉そうな口をききやがって!……)

 兄であり、ドゥアルテ家の当主である自分を全く敬おうとしないチェレンチーの反抗的な態度に腹を立て、もう二度とヤツを家に戻すなどと考えるものかといきどおっていた。


(……クソッ!……クソ、クソ、クソ、クソッ!……どうして、こうなった? 俺はよっぽど運が悪いのか?……)


 原因を理解し得ない貧相な知性と、自分のいいように物事を解釈する我儘な思い込みが相まって……

 ドゥアルテはひたすらに、自分の運の悪さを、世の中を、神をも、恨んでいた。


 そして、今、彼の前には……

 その悪しき運命が姿を得て現れたかのような、黒衣の青年が座っていた。

 彼の目に見つめられただけで、いや、目の前に居るだけで、ゾワゾワと背筋に悪寒が走り、恐怖と緊張で収縮した胃の奥から、先程飲んだ美酒が変わり果てた酸味となって込み上げてきそうな勢いだった。


(……クソゥ!!……)



「だ、旦那様! 落ち着いて下さい!」

「そ、そうですよ、旦那様! この勝負に万が一でも負ければ、我々は、ドゥアルテ商会は、か、壊滅してしまいます!」

「勝負には、20戦中1戦だけでも勝てば良いのでしょう? れ、冷静に対処すれば、必ずや勝てますとも!」


「ええい、うるさい!!」

 ドゥアルテは、後ろから絶えず喋りかけてくる番頭達を振り返り、腕を振り回して追い払った。


 まだゲームは正確に始まっておらず、二人のプレイヤーは、それぞれ山から交互にドミノ牌を引いてきて、自分の前にあるスタンドに立てているゲームの準備段階だった。

 しかし、ドゥアルテが何度も牌を取り落とし、スタンドにも上手く立てられず、酷くもたついている様子を見て、「勝てる勝負」と踏んで余裕でいた番頭達も不安が募ったのだろう。

 とは言え、彼らがドゥアルテに送った励ましの言葉は、小心者のドゥアルテにとっては、実際は余計なプレッシャーを与えるだけであり、逆効果となっていたが。


 番頭達は、一旦はドゥアルテに追い払われて少し距離を置いたものの、やはり勝負のゆくえが気になるらしく、ソロソロと戻ってきて、テーブルの上やドゥアルテの手牌を覗き込んでいた。


(……チッ! そんな事、お前らに言われなくたって分かってるんだよ!……)


(……ギャンブルは、ビビったら負けだ! 常に強気で、気迫で相手をねじ伏せるんだ!……)


(……そ、そうだ! こんな俺の歳の半分もいってないクソガキ! 社会の最底辺の乞食! 薄汚れたゴミ虫一匹に、この国で知らない者は居ない偉大なドゥアルテ家の当主でありドゥアルテ商会の頭取でもあるこの俺が、気迫で負ける筈がないんだよ!……)


(……ま……負けるものかぁ!!……)


 ドゥアルテは、ギリッと奥歯を噛み締めると、思い切って顔を上げ、向かいの席で淡々と自分の牌を山から引いてはスタンドに立て続けている黒髪の青年を、精一杯睨みつけた。

 そして、ふと、ある違和感に気づいた。


「……お、お前……妙に手つきが良くないか?」

「え? そうですか?」


 ティオはドゥアルテに話しかけられて、彼に視線を向けた。

 それと同時に、スイと、また山から牌を一枚取り、手元のスタンドに立てる。

 その時ティオの目はドゥアルテに向いており、山から牌を選び取る時も、手にした牌をスタンドに立てる時も、完全に視線を切ったまま行なっていた。

 それでいて、ドゥアルテの言うように、一分の乱れも迷いもない滑らかな動きだった。

 とても今夜初めてドミノ牌に触れた人間の動作とは思えない。

 まるで何十年と毎晩のようにドミノを手に賭けをしてきた熟練者を思わせる、全く力みのない自然さだった。

 ドゥアルテは、ティオが自分と話すためにこちらに顔を向けた時、彼の深い緑の目に見つめられただけで、ゾクゾクと背筋に悪寒が走っていたが、それでも必死に目を剥いて彼の様子を凝視し、その異常さを指摘した。


「……お、お前、確か、腕に引っ掛けて牌を倒したりしてたよな? あれは、明らかに初心者の手つきだったぞ。それに、ムダに長考して牌を切るのも遅かったし、端の目が5の倍数になったのに宣言を忘れて『マギンズ』された事もあった。ドミノゲームに慣れてない人間のいかにもやりそうなミスだった。」

「ああ!……アハハ、そんな事もありましたねー。でも、もうすっかり慣れたんですよー。おかげ様でー。……うん、確かに、あまり悩んで対戦相手を待たせるのは良くないですねー。これからはなるべくサクサク打ちますよー。もう時間も遅いですしー、ここから20戦もしないといけませんしねー、アハハハー。」

「チッ! 本気でこの俺との対戦で、20連戦して勝つつもりでいるのかよ! バカは気楽で羨ましいぜ!……って、誤魔化されるか! ついさっきまで腕に引っ掛けて牌を倒すようなポカをしていたのに、こんな短い時間で慣れる訳ないだろうが! 俺をなめるなよ!」

「あー、バレちゃいましたー? 実はあれ、わざとだったんですよねー。」


 ドゥアルテは疑問を投げかけて揺さぶったつもりだったが、ティオはあっけらかんと認めた。

 ペロッと舌を出していたずら好きな子供のような顔で笑い「手が止まっていますよ」とドゥアルテに指摘してくる。

 ドゥアルテは、慌てて自分も牌を取って、手の震えをこらえながらスタンドに立てた。


「実は、もうあの時は牌の扱いには充分慣れてたんですよねー。でも、初心者っぽく振る舞っていた方が皆さんに油断してもらえるかと思いましてー。作戦大成功ー! でしたねー。」

「お前っ! やっぱり俺を、俺達を騙してたのか! 本当は、ドミノを相当やり込んでやがったんだな! この嘘つきめ! お前のような汚い手を使う人間は、この店でプレーをする資格などないぞ!」

「俺がこの店でプレーする資格がないかどうかは、ドゥアルテさんが決める事ではありませんよね?……と言うか、俺は自分の手牌をわざと引っ掛けて倒しただけで、あなた方の手牌には一切触れていませんでしたよ? これが他人の手牌を勝手に盗み見るような行為なら、当然ルール違反として店側からしかるべき処分を受ける所でしょうが、俺が俺の牌を倒した所で、対戦者に手牌をさらす事になり、むしろ俺にとって不利になるだけです。なんらルールに反していない上に、あなた方の利益を損ねてもいないと思いますがね?……『マギンズ』をわざと取られていた事も同じです。宣言を忘れた振りをしていたのだとしても、『マギンズ』と指摘してチップが儲かったのはあなた方の方であって、俺はみすみす取れるチップを逃した事になります。……それに……」


「ギャンブルにおいて、嘘やハッタリはつきものでしょう? それも含めて戦略の内ですよね?……ドミノ歴の長いドゥアルテさんなら、当然身に染みて知っているかと思っていましたが。……こんな場所で、お互いの金をゲームで奪い合う相手を信じるなんて、よっぽどのお人好しだけだと思いますよ。そして、そういうお人好しは、寄ってたかって金を吸い上げられて、程なくこの場から去る事になる訳です。だから、この『黄金の穴蔵』の常連客は、皆一癖も二癖もあるしたたかな人達ばかりだ。相手が隙を見せれば、ここぞとばかりに容赦なく追い詰め、身包みを剥ぐ。そんな人の生き血を啜って生きているような化け物でもなければ、到底この店で、特にこの赤チップ卓で、勝ち続けていくのは難しいでしょう。ドゥアルテさんも、そうやってずっとこの赤チップ卓でドミノを楽しんできたんじゃないんですか?」


「ああ、それとも……自分が騙して金を巻き上げるのはいいけれど、他人に騙されて金を巻き上げられるのは我慢ならない、と言う訳ですか? それは申し訳ありませんね。では、先に謝っておきましょうか。俺はこれから、あなたの金をとことん吸い上げるつもりですので。……別に、俺を恨んだりはしませんよね? 弱肉強食、それが賭博場の常識でありギャンブルの本質ですからね。」


 特にドゥアルテを煽るでもなくけなすでもなく、まるで、「今日はいい天気ですね」と他愛ない世間話でもするように、ティオは淡々と語った。

 軽い口調に全く似つかわしくない、その会話内容から察せられる冷静で理知的でシビアな思考に、ドゥアルテの頭は混乱せざるを得なかった。

 ただ、ティオにとっては、この魑魅魍魎がたむろする『黄金の穴蔵』でドミノゲームをするのは、ヘラヘラとした緊張感のない笑みを浮かべ続けられる程度には、別段大した事ではないという雰囲気だけは、かろうじて感じ取れた。


「ああ、そうそう。確かに俺は、ドゥアルテさん達の前で、初心者っぽい素振りはしていましたけれども……」


「俺は、本当に、正真正銘初心者なんですよ? 今日この賭博場に来て、生まれて初めてドミノに触ったと言ったのは、嘘じゃありません。」


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「初心者の演技」

賭博場『黄金の穴蔵』でドミノゲームを始めた当初、ティオはムダのない慣れた手つきで牌を打っていた。

器用なため、あっという間に牌の扱いに慣れてしまったためだった。

その様子があまりに初心者らしからぬものだったため、チェレンチーに指摘され、その後はわざとぎこちない手つきで打つようになった。

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