過去との決別 #94
「チェレンチー! お前のバカな要求は飲めない!」
チェレンチーの耳に、ドゥアルテの憮然とした言葉が響いてきた。
「お前に、ドゥアルテ商会とドゥアルテ家の全てを任せるなんて、出来るものか! 何を一人前にドゥアルテの後継者面してやがるんだ? ああん? 親父が気まぐれに産ませた売女の息子が! 卑しい出自のお前が、俺と同列にドゥアルテの権利を語るなんて、吐き気がするぜ!……お前には、ドゥアルテの名を冠するものは、何一つ、絶対に渡さない! もちろん金だってそうだ! びた一文渡すものか!」
「まあ、お前が、今までの俺に対する自分の非礼を心の底から反省して、今ここで土下座して、頭を地面にこすりつけて泣いて頼むって言うのなら、ドゥアルテの家の敷地の端っこに置いてやらないでもないけどなぁ! 馬小屋に住ませてやるから、俺のためにせいぜい死ぬ気で働けよ!」
ドゥアルテの相変わらずの恫喝するような横柄な物言いに、そばに立った番頭達は青ざめた顔をしていた。
おそらく、ドゥアルテに必死に今商会が置かれている窮地を説明し、説得を試みたのだろうが、結局の所、ドゥアルテには、彼らの話を理解する知性が足りていなかった。
加えて、自分の思い通りにならないものを決して受け入れられない幼稚な我儘さが、チェレンチーの存在を妥協する事を許さなかった。
事ここに至って、ドゥアルテはまだ、子供の頃から十数年以上いたぶり続けてきた気に食わない腹違いの弟への態度を改める気が更々ない事を、チェレンチーは知った。
もし、チェレンチーが番頭達の言葉にほだされてドゥアルテ家に戻ったのなら、兄は、ドゥアルテ家の当主として、またドゥアルテ商会の頭取として、好き放題やりながら、チェレンチーにその尻拭いだけを押しつけてくるに違いない。
また、ストレスが溜まった時は、以前のようにチェレンチーに思う存分八つ当たりしてうさを晴らそうとも思っている事だろう。
兄にとって、所詮、チェレンチーは、都合良くこき使えて、また、どんなにいじめても構わない人間、というだけの存在だったのだ。
「……そうですか。兄さんの考えは、良く分かりました。」
チェレンチーは、しかし、極めて穏やかな表情で、そんな兄の言葉を聞き、受け止めていた。
そして、実際の時間にしてはほんの短い間だったが、静かに目を閉じて自分の内面に心を向けた。
『……父さん。兄さんの答えが出ましたね。……』
『……』
チェレンチーの脳裏に住み着いた父の怨念は、恨みのこもった眼差しでジイッとこちらを見つめ、何かブツブツ言い続けていたが……
もう、チェレンチーには、その言葉は聞き取れなかった。
「では、最初に言ったように、僕の提示した二つの条件を飲めないと言う事なので……」
「僕は、これで、完全にドゥアルテ家ともドゥルテ商会とも縁を切ります。」
「もう二度と、そちらに戻る事はないでしょう。」
清々しい程にはっきりとそう宣言したチェレンチーを前に、ドゥアルテはフンと鼻を鳴らして視線を逸らしただけだったが、番頭達は顔中に冷や汗を掻いて慌てふためいていた。
彼らにとっては、チェレンチーこそが、ドゥアルテ商会を立て直す最後の頼みの綱だったのだろう。
しかし、その最後に一本残った綱は、彼らの主人であるドゥアルテ自らの手によって、あっさりと切って捨てられてしまったのだった。
「チェ、チェレンチーさん、ドゥアルテ家と縁を切って、これから一体どうするつもりなのですか?」
「そ、そそ、そうですよ! 我々と一緒にドゥアルテ商会を盛り立てて行く以上に、チェレンチー様に相応しい居場所はないでしょう?」
「僕は、傭兵団で僕の仕事を続けます。傭兵団が、今の僕の居場所ですから。」
あっさりそう答えたチェレンチーに、番頭達は、目を見開き眉を歪め、信じられないといった顔をしていた。
彼らには、社会の最底辺と思われる、世間から弾き出されたならず者達の吹き溜まりのような場所を、「自分の居場所」だと言い切ったチェレンチーの気持ちが全く理解出来なかったのだろう。
しかし、一方、チェレンチーにしてみれば……
ドゥアルテ商会に戻って、兄に虐げられつつ、どうにもなすすべのない状況の中、商会が完全に潰れるまでムダにもがき続けるのと……
今のまま、傭兵団で、自分を尊重し仲間として大切にしてくれるティオやボロツ達と共に、慣れないながらも日々奮闘していくのとは、逆の意味で雲泥の差だった。
『……チェレンチー……』
不機嫌そうに明後日の方向を向いたままこちらを見ようともしない兄、困惑して青ざめる番頭達……
そんな彼らに混ざって、亡き父の幻影が、チェレンチーには見えていた。
チェレンチーは、一度改めて姿勢を正すと、丁寧に、深々と、彼らに頭を下げた。
「ドゥアルテ家を出てくる時は、バタバタしていて、ゆっくり挨拶も出来ませんでしたが……」
「今まで、本当にありがとうございました。皆さんには、心より感謝しています。」
「さようなら。」
ズルズルと、闇の中を這いずって、幻の父がチェレンチーの足にしがみついてきたが……
『……父さん、本当にこれでお別れです。……』
『……僕は、今から、今この瞬間から……父さんのためではなく、ドゥアルテ家のためでもなく、誰のためでもなく……』
『……自分自身のために、生きていきます。……』
チェレンチーが、心の中でそう呟くと……
真っ黒な影は、その力をみるみると失っていった。
形が崩れ、微細な砂が風に散るように、サラサラと崩れて舞って、どこかへと霧散してゆく。
チェレンチーは、そんな、自分の中に巣食っていた暗く重苦しい過去のしがらみの塊が、最後の一粒まで完全に消え去るのを、真っ直ぐに見据え確認すると……
スイと、きびすを返すと共に、視線を別の場所へと、まだ見ぬ自分の未来へと向けた。
『……さようなら、父さん。さようなら、ドゥアルテ家の人々と、ドゥアルテ家で過ごした日々。……』
『……さようなら、過去の僕。……』
引きずる程に長いティオから借りた黒い上着の裾を翻して、大きな歩幅で歩き出したチェレンチーの耳に……
バササ……と、聞こえる筈のない鳥の羽音が聞こえた気がした。
チェレンチーの視線の先には、ティオとボロツの姿があった。
ドゥアルテ達との交渉が決裂したのを知り、二人とも明るい笑顔を浮かべで、チェレンチーが歩き戻ってくるのを待っていた。
(……ああ、そうだ。……)
鳥は飛び立った。
渡りに失敗し、他の種類の小鳥達に混じって過ごしていた一匹だけ異なる鳥は……
先程都の上を通り過ぎていった一陣の雨雲の置き土産である透明な雨粒があまたついた梢を蹴って、雨上がりの澄んだ青空に飛び出していた。
この先に何が待っているのか、それは誰にも分からない。
あるいは、また新たな苦難の長い旅路をゆく事になるのかもしれない。
それでも、鳥は、自分の羽で羽ばたく事を決め、空に舞った。
『……なぜ、チェレンチーさんは、鳥を羨ましがったりするんですか?……』
『……自由なのは、チェレンチーさんも同じでしょう?……』
揺れる緑の梢の先から、過去に自分が零したたくさんの涙を思い出させる雫が、キラキラと光を受けて辺りに降り注ぐ中……
チェレンチーは、ゆっくりと、しかし、力強くうなずいた。
(……そうだね、ティオ君。本当に、君の言う通りだね。……)
(……僕は……)
(……僕は、自由だ!……)
長い間引きずり続け、苦しみ続けた自分自身の過去に別れを告げたチェレンチーは……
自然とジワリと目元に浮かびくる涙を指先でぬぐい、歩く速度を上げて……
自分を待っているティオとボロツの元へと進んでいった。
□
「お待たせしてしまってすみませんでした。」
チェレンチーがティオとボロツの所に戻ってきてペコリと頭を下げると、ティオは、いつものように「いえいえー」と緊張感のない笑顔で軽く答えたのに対し……
感情が表に出やすいボロツは、とても嬉しそうにニカッと笑って、ガッとチェレンチーの肩に腕を回してきた。
悪気は全くないのだろうが、大柄で力の強いボロツの荒っぽい歓迎ぶりに、チェレンチーは「痛っ!」と声を上げて苦笑していた。
「おう! 心配したぜ、チャッピー!……まあ、そんな事はねぇって、信じてはいたけどよ。もしかしたら、アイツらに言いくるめられて、向こうに行っちまうんじゃないかって、ちょびっとな、ほんのちょびっと思ってよ。お前は、ほら、お人好しで押しに弱いからな。いやぁ、あんな嫌な兄貴のとこなんか、戻らなくて正解だぜ!」
「心配かけて申し訳ありません、ボロツ副団長。改めて、傭兵団の一員として頑張っていくので、よろしくお願いします。」
「いいって事よ! これからも仲良くやってこうぜ、チャッピーよぅ! ガッハッハッハッハッ!」
「はい。」
ボロツは、上機嫌でバンバンとチェレンチーの背中を叩きながら豪快に笑った後、腰に手を当て、反らした自分の胸をグイと親指で指して言った。
「まあ、これからは、俺にドーンと任せとけ! なあに、内戦が終わっても、俺達傭兵団は解散しねぇからよ! みんなとそんな話をしてたんだよ。まあ、この国に雇われるのは、戦が片づけばお終いだろうけどな。でも、息の合った今のヤツらで、これからもまとまってやってこうって決めてんだよ。今度はあっちの国、次はこっちの国って感じでよ。戦場から戦場を渡り歩くってのは、まあ、いろいろ厳しい事もあるかもしれねぇが、今の仲間達なら、それも楽しいかもしれねぇぜ。」
「なるほど。内戦が終結したら、今の傭兵団の主要メンバーを軸に流れの傭兵団としてやっていこうって計画なんですね。」
「そういう事よ! だから、チャッピー、お前も、ずっと俺達の所に居ていいんだぜ! 俺達は、世の中の鼻つまみ者が集まった傭兵団だけどよ、こんな俺らでも、みんなで力を合わせればでっかい事が出来るって所を、世間にババーンと見せつけてやるんだよ!」
「それはいいですね。……でも……」
チェレンチーは、小さな丸い目で真っ直ぐにボロツを見つめて、はっきりと言った。
「僕は、内戦が終わったら、傭兵団を抜けるつもりです。」
「そうそう、俺達の絆は永遠に……はあ!? 今、なんつった、チャッピー!?」
「ですから……僕達は、今、このナザール王国の国王軍に加勢するべく集められた傭兵として兵団を組んでいますが、それも内戦が終われば役目を終え、解散という流れになる事でしょう。僕は、その時点で、傭兵団を去るつもりでいます。もちろん、王国側から解散を言い渡されるまでは、つまり内戦が終わるまでは、ボロツ副団長やみなさんと一緒に傭兵団で精一杯頑張っていきたいと思っています。」
「……」
ボロツはしばらく口をポカンと開けて呆然としていたが、やがてハッと我に返って、ガバッとチェレンチーの両肩を掴んできた。
「な、なんでだよ、チャッピー!? 傭兵団、つーか、俺達の仲間から抜けて、一体どうするっつーんだよ?」
「それは……まだ、決めていません。ただ、やっぱり、傭兵団のような戦闘に関わる仕事は、僕には不向きだと思うんです。内戦が無事終わったら、新しい仕事を探すつもりです。」
「い、いやいやいや! 今のは、どう見ても、このまま俺達とずっと一緒にやってくって流れだったろ?……な、なあ、そうだろ、ティオよぅ? お前もなんかチャッピーに言ってやれよ!」
憑き物が落ちたように爽やかな顔でニコニコ笑っているチェレンチーを前に、戸惑ったボロツは、ティオに助けを求めたが……
ティオはティオで、いつものように飄々とした笑顔で言った。
「いやー、いいんじゃないですか! チェレンチーさんが傭兵団を抜けて新しい仕事を探すっていうのは、俺は大賛成ですね!」
「おおい! ゴラァ、ティオ、テメェ!」
「あ、ありがとう、ティオ君! 勇気が出るよ!」
「チェレンチーさんには、こんな血生臭い仕事は似合いませんよー。それに、給料も良くないですしねー。チェレンチーさんの適正と能力なら、違う職業についた方が断然良い給金が貰えると思いますよー。まあ、内戦終結までもうしばらくかかるでしょうから、良く考えていい仕事に就いて下さいね。応援していますよ。」
「あ! そうだ。ついでと言ってはなんですがー……」
と、ティオは、肩をいからせ歯を剥き出しにして睨んでいるボロツに向き直り、ケロリとした様子で語った。
「ボロツ副団長ー。俺も、この内戦が終わったら傭兵団からは抜けるつもりですのでー。と言った訳で、なんやかんやこれから先の事を俺に期待するのはやめて下さいねー。」
「は、はああぁぁ!? お、おまっ、お前も抜けるって、ティオ、テメェ、何考えてやがるんだよ!」
「いやぁ、だってー。俺、サラと約束したのは、内戦が終わるまでの間って事でしたしー。それに、俺、あまりひと所に留まる事は、したくないんですよねー。元々、気ままにあちこち旅して回ってたんでー、たぶん、この後も一人で旅を続けていくと思いますー。」
「……んぐぅ!……」
「そっかぁ。ティオ君は、やっぱりまた旅に出るんだね。」
「はい、そのつもりです。もちろん、その前に、ここでやるべき事はきちんと片づけていくつもりですが。」
などと、ティオとチェレンチーが和やかに笑顔で話しているかたわらで、ボロツだけが、湯気が吹き出しそうな程顔を真っ赤にしていた。
「な、なんだよ! なんなんだよ! ティオの野郎も、チャッピーまでぇ! お前ら、薄情過ぎだぞ!……つーか、せっかく俺が『これからも、俺達はずっと仲間だぜ!』って、ビシッと決めるとこだったのによぅ! チクショウー、バカ野郎ー!」
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☆ひとくちメモ☆
「チェレンチーの悩み」
貧民街で最底辺の貧しい暮らしをしながらも女手一つでチェレンチーを育ててくれた母親の事を、チェレンチーは何よりも大切に思っていた。
しかし、母と最後に言葉を交わした折、「幸せになって」と言われたが、その「幸せになる」という感覚がチェレンチーには未だ分からないままだった。
傭兵団でティオと出会ってから、チェレンチーは、母の言葉を良く思い出すようになった。




