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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第七節>過去との決別
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過去との決別 #83

 

(……僕は……)


(……今の方が「自然」なんだ。……)


 その考えは、ストンとどこからかチェレンチーの中に落ちてきた。

 現在の自分の心理状態を改めて鑑みるに、どこからも圧力の掛かっていない、全く歪みのない、透明な球のようなイメージが頭に浮かんだ。


(……僕は、ドゥアルテ家に居た時、いつも誰かに心を押さえ込まれていた。……)


(……いや、違う。なるべく忠実に周りの命令に従おうと『僕』が『僕』自身を、押さえ込んでいたんだ。……無理やり、本当の『僕』ではない、周りの人達の望む『何か』の形に自分自身を当てはめていた。……)


(……でも、もう、父さんは居ない。……兄さんに自分の後を継がせたがっていた父さん。その兄さんの継いだドゥアルテ家を支えるようにと僕に言い続けていた父さん。……そんな父さんは、もう、死んでしまったんだ。……)


(……そして、兄さんは、父さんの意思を完全に無視して、僕をドゥアルテ家から追い出した。……)


(……僕を目の敵にして、事あるごとにいじめていた兄さんも、今は、僕がドゥアルテ家の人間ではなくなってしまったから、以前のように好き勝手に僕に暴力を振るう事は出来なくなった。……)


(……せいぜい言葉で八つ当たりしてくるぐらいだ。……兄さんに何か言われると、酷い扱いを受け続けてきた時の記憶が蘇って、まだ思わず体が竦むけれど……でも、冷静になって良く考えてみると、どうって事はない。殴られるのとは違って、痛い訳ではないし、何か命の危険がある訳でもない。……そう、怖くないんだ。……)


(……奥様だって、もう、僕の目の前には居ない。……あの人には、元々、兄さんのように積極的に僕を虐げたいという気持ちはなかった。僕の事が大嫌いで視界にも入れたくないから、早く追い出したくて僕に酷い事を言っていただけだった。僕がドゥアルテ家と縁が切れた今となっては、わざわざ自分から僕に近づいてきたりはしないだろう。……だから、もはや、僕にとって脅威じゃない。……)


 チェレンチーは、現在の、不純物が完全に取り除かれたような、自分の心の有り様をジッと見つめている内に……

 過去のある出来事を思い出していた。



 かつて、自分が「空っぽ」だと感じた事があった。


 自分の中には何もなく、どこまでも空虚で、虚しく、故に、どうしていいか分からなかった。

 だから、父の命令を聞いた。

 自分には、他に、生きる目的も目標も指針も、何もなかったからだった。

 そのままでは生きていけなかったチェレンチーは、一番手近な「父の言葉」を自分の生きる意義として自分の中に据えたのだった。


 そう、それは……

 それまでチェレンチーが生きる理由の全てだった母親が病で亡くなった時の事だった。

 それまでは、ただひたすらに……母を一日でも生きながらえさせたくて、母に病気の治療を充分に受けられるような良い生活をさせたくて、母を幸せにしたくて……そのためだけに、チェレンチーは生きてきた。

 そのためなら、自分はどうなってもいいとさえ思っていた。

 だから、チェレンチーがミスをすると手にした木の定規で狂ったように叩きつけてくる父の「躾」も耐える事が出来た。

 意味もなく土下座させられたり、蹴られたり殴られたり、汚物を浴びせられたりといった兄の陰湿ないじめも、心を殺してやり過ごしてきた。

 夫人の意地の悪い言葉の暴力も、母に対して向けられたものは腹が立ったが、自分について言われた事はなんとも思わなかった。

 しかし、ついに、長く不治の病を患っていた母が亡くなり、チェレンチーはそれまで心の支えとなっていたものを失ってしまった。

 自分が生きていく意味を、完全に失くしていた。

 自分の未来も、将来も、明日も、一寸先さえも、何も見えなくなった。


(……僕の心は、あの時全て死んでしまったと思っていた。残っていた空っぽの入れ物に、父さんが僕に望んだものを入れる事で、僕はかろうじて生き続けていたのだと思っていた。……)


(……「母さんのため」という目的を、僕は「父さんのため」「ドゥアルテ家のため」にすりかえた。そう、あの時僕は「誰かのために何かをする」という生き方しか知らなかったから。……)


(……でも、そんな父さんも死んでしまった。ドゥアルテ家からも放り出された。僕はもう「誰かのために何かをする」という生き方の中で大切にしていた「誰か」も「何か」も失くしてしまったんだ。……)


(……いや、僕が無理やり「大切」なものだと思い込もうとしていただけで、それは元々僕にとって、何も大切なものじゃなかった。……)


 チェレンチーは、そっと胸に手を当てて、そこにある筈の今の自分の「心」について考えてみた。


(……じゃあ、今の僕はまた「空っぽ」になったんだろうか? 母さんが亡くなった時のように。……父さんも、ドゥアルテ家も、父さんから託された使命も失った、今の僕は?……)


 そして、目を閉じ、ゆっくりと首を振った。


(……いや、今の僕は空っぽなんかじゃない、決して。……誰にも何も命じられなくなった僕は、誰かのために生きる必要のなくなった僕は……そう、傭兵団に入ったばかりの頃は、ただただ抜け殻のように呆然としていた事もあったけれど……でも、今は……)


(……真っさらだ。……)


(……空っぽなんかじゃない。……)


(……僕は「僕」になったんだ。……)


(……元々の「僕」に戻ったんだ。……)


 チェレンチーの本当の心は、無くなった訳ではなかった。

 母を失い、完全に「空っぽ」になったと思っていた時でさえ、しっかりとそこに存在していた。

 ただ、それを、チェレンチー本人が見失っていただけだったのだ。

 自分の心が、姿が、存在が、見えなくなっていた。

 けれど、確かに、「それ」はそこにあった。

 ずっと、チェレンチーと共に、彼の最も近くに、彼の中に、確かにあり続けていた。

 それが、それこそが、何があっても決して失われる事のない、自分というものの存在。

 この世界で、たった一つしかない、決して他のもので置き換える事の出来ない、自分というもの。


(……これが……「本当の僕」……)


 チェレンチーは、まるで初めて出会った人を見つめるように、自分自身を見つめていた。



(……そして、僕自身が本当の僕を見失っている時にも、「僕」をしっかりと見つめてくれていた人が居た。……)


 チェレンチーの脳裏に浮かんでいたのは、言うまでもなくティオだった。

 今改めて思い返してみると、ティオは、初めて会った時から……

 チェレンチーの事を「この世界にたった一人しか存在しない、かけがえのない人間」として、彼の意思や個性を尊重し、自分と同じ一人の人間として敬意を払って接してくれていた。


 入団試験で「他に行く場所がないんです!」と懇願している所をボロツに拾われるように入った傭兵団だったが、やはり周りの雰囲気に馴染めず、空虚な気持ちで日々を送っていたチェレンチーに、初めて親しく声を掛けてくれたのは、他のでもないティオだった。


 二人で、早朝や夕方、訓練場の整備をしたり、用具倉庫の片づけをしたり。

 ある時は、二人で訓練を抜け出して、城下町まで遊びに行った事もあった。

 ティオがなぜ自分を誘ってくれたのかは分からなかったが、それまでずっと誰かと遊びに行くなどという経験のなかったチェレンチーは、その夜なかなか寝つけなくなる程嬉しかった。


 ティオが傭兵団の作戦参謀となってからは、事務方の仕事を手伝ってティオを支える事で、チェレンチーは、傭兵団における新しい自分の役割と地位を確立していった。

 適性のない戦闘訓練に四苦八苦していた時とは全く違った、自分の得意分野でしっかりと仕事をこなしているという充実感が、忙しい日々の中にも生まれいた。


 自分を見て、知って、尊重してくれる人が身近に居て……

 自分を認めてくれる仲間が居て、その中に確かな自分の居場所があって、周りから頼りにされながら仕事に励んで……

 そうした毎日を送る内に、チェレンチーは、長い間自分を縛り続けていた呪縛から、少しずつ解放されていっていた事を、今ようやくはっきりと自覚した。


『……これは俺の推論ですが……あなたは今まで、辛く鬱屈とした人生を過ごしてきた。そのせいで、あなたの「才能」は、あなたの中に長く埋もれたままだったのではないでしょうか。厚く硬い壁に閉じ込められたような状態で、正常に発揮する事が出来なかったのだと思います。本来ならば、もっと早くその能力を自覚していた事でしょう。……』


『……しかし……チェエンチーさん。もう、あなたを縛るものはありません。これからはもっともっと、あなたの「才能」は自由に輝いていく事でしょう。……俺は、そう予想していますし、願ってもいます。……』


 二人で城下町に出かけた折にティオから掛けられた言葉を、チェレンチーは思い返していた。

 あの時は、完全には理解出来なかった言葉の内容が……

 今は胸の中に染み渡り、強い心臓の鼓動に乗って、真っ赤な熱い血と共に、自分の身体中を駆け回っているのが感じられた。


『……なぜ、チェレンチーさんは、鳥を羨ましがったりするんですか?……』


『……自由なのは、チェレンチーさんも同じでしょう?……』


 チェレンチーは顔の前で指を組み、祈るようにこうべを垂れた。

 童顔を強調する灰金色の睫毛に彩られたく小さな目を閉じると、ジワリと熱い涙が込み上げてきた。


(……ティオ君に、出会えて良かった!……)


(……ティオ君は、その存在自体が、嵐のように強烈な人だ。……彼に出会った人達は、彼の意思とは関係なく、自分が望むと望まざるにも関係なく、目に見えない激しい運命の嵐に飲まれていく。猛烈な強風の中で、それまで自分を守るために必死に着飾ってきたものを容赦なく剥ぎ取られ、裸の自分自身をさらけ出す事になる。……)


(……きっと、僕も、その一人だ。ティオ君に出会えたからこそ、本当の自分を知る事が出来た。本当の自分と向き合う事が出来た。……)


(……たとえ、彼の与える「変化」が、どんなに苦痛を伴うものだったとしても、今の僕には、一欠けらの後悔もない。まだ、少し怯え、震えてはいるけれど、後悔はない、決して。……)


(……ああ、僕は本当に、君に出会えて良かったよ、ティオ君!……)


 自分がこの激流ののちに、どこに運ばれていくのか……

 この先の自分の未来に、どんな出来事が待っているのか……

 そして、その中で、自分が一体どんな将来を掴み取るのか……

 チェレンチーは、まだ何も分からなかった。


 けれど、覚悟は、もう、とうに出来ていた。

 チェレンチーは、その時が来るのを、自分の運命が大きく転換する瞬間が訪れるのを、強く予感し、そして……

 息を潜めて静かに待っていた。

 その結果がどれ程過酷なものであろうとも、目を逸らさずしっかりと受け入れようと、固く心に決めていた。



「ボロツ副団長は、本当にアホですねぇ。」

「なっ!……あ、ティオ、テメェ、さっきから居ないと思ったら、ひょっこり帰ってきやがって、開口一番それかよ!」


 ふと気がつくと、ボロツとチェレンチーが座っている外ウマ用の長椅子の後ろに、ティオが立っていた。

 チェレンチーは、ハッと我に返り、慌ててバッと振り返った。

 ティオは、現金が入っているらしい皮の袋を手にして、いつものように飄々とした掴み所のない笑顔を浮かべていた。


「外ウマの一回の賭け金の上限が赤チップ1000枚なら、その上限まで毎回賭けていれば良かったんですよ。」

「ハッ!……そ、その手があったか!」


 と、今更気づいたらしく、ボロツはポンと手を叩いたが、すぐにまた、薄い眉の眉尻を下げた気弱な表情に戻っていた。


「……い、いやいやいや! もし、上限まで賭けて、外したらどうすんだよ? 銀貨1000枚分が一瞬でなくなっちまうんだぞ!」

「大丈夫ですよ。俺の指定通りに賭けていて、今までトータルでマイナスになる事はなかったでしょう? 一旦沈む事はあっても、またすぐ二倍三倍と順調に増えますよ。」

「……そ、それもそうだな。そ、そうかぁ、二倍三倍と増えていくのかぁ。……って、それもなんだか怖ぇんだよ! 金がジャカスカ増え過ぎて、さっきから冷や汗が止まんねぇんだよ!」


「……そ、そのぅ、傭兵団の資金を増やすように任されてたのに、勝手に途中で外ウマをやめちまって、悪かったな。不甲斐なくてすまねぇ、ティオ!」

「ああ、いえいえ、それは別に気にしていません。」


 パン! と顔の前で手を合わせて頭を下げ、潔く謝るボロツを前に、ティオは全く動揺した様子はなく、相変わらず能天気な笑顔で言った。


「ボロツ副団長が途中から外ウマに賭けていない事は気づいていました。その理由も、大体推測出来ましたしね。と言うか、こうなるだろう事ははじめから想定していましたよ。」

「うえっ!?……お、お前、見てやがったのかよ! 俺の事なんかまるで気にしてねぇみたいな様子でドミノしてたじゃねぇかよ!……って、推測? 想定?」

「すみません、余計なストレスを掛けてしまって。……しかし、もう大丈夫です。」


「外ウマで増やす傭兵団の資金は、目標額に到達しましたし、俺の金も順調に増えていました。まあ、ここの所俺は結構ドミノの勝負で勝っていたので、倍率が下がってあまり儲からなくなっていましたけれども。でも、これだけあれば充分足ります。」


 ティオは外ウマに賭けていたチップの自分の分を現金に変えてきたらしい袋を顔の高さに持ち上げて揺すってみせ、もう片手に持った番号の書かれた木札も見せてきた。

 「あ、あれ? その札、いつの間に?」とボロツが、自分の体のあちこちをポンポン叩いて不思議がっていたが、どうやら、ボロツが動揺している内に彼の服の中からさり気なく抜き取ったらしい。

 そうして、ボロツとチェレンチーが話している間に、一人悠々とチップ交換のカウンターに行き、自分の賭け分を現金に替えてきたという訳だった。


「ついでに、傭兵団の資金だけでなく、ボロツ副団長個人の所持金を賭けている方も止めてきました。副団長は、それで良かったですか?」

「あ、ああ。今いくらになってんのか知らねぇけどな。……お前の分がそれって事は、俺のも結構増えてそうだよなぁ。」

「傭兵団の資金も副団長の所持金も、チップの状態で、このまましばらく預かってもらう事にしました。」


(……まあ、増えた分を全部受け取ったら大変な量になるだろうから、そういうのは後でいいか……)

 と、チェレンチーが納得していると、ティオが二人を促した。


「じゃあ、二人とも行きましょう。あまりドゥアルテさんを待たせてもいけませんから、さっさと赤チップ卓に戻るとしましょう。」


「ああ、ボロツ副団長も、しばらくやる事がないでしょうし、一緒に行きましょうよ。赤チップ卓での勝負を間近で観戦出来ますよ。」

「お、おお、そうだな。ここにボーッと座っててもしょうがねぇよな。ティオ、お前の非道振りをしっかり俺の目ん玉に焼きつけてやるぜ。ヘヘ。」

「じゃあ、ティオ君。もう外ウマに賭けるのは、これで終わりって事でいいのかな?」


 ボロツとチェレンチーの二人が長椅子から立ち上がり、ティオの後について歩き出すと、ティオは、歩を緩めずに首を捻って顔だけ振り返り、答えた。


「いえ。最後の最後にもう一度だけ賭けましょうよ! せっかくですから、ね!」

「ギャアァ! まだ賭けんのかよぅ!」

「ハハハ。ギャンブル大好きなボロツ副団長の言葉とは思えませんねー。」


 真っ青な顔に戻ってスキンヘッドの頭を掻き毟るボロツを見て、ティオは子供のようにいたずらっぽく笑っていた。


読んで下さってありがとうございます。

ブクマ、評価、感想、いいね等貰えたら嬉しいです。

とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「ティオの金銭感覚」

ティオは自分の好きなもの(宝石、古文書、遺跡)以外にほとんど執着がない様子である。

それは金銭に関しても同様で、どんな大金が目の前にあっても全く動揺を見せない。

そんな金への執着のなさが、ギャンブルにおいて、常に冷静な判断を可能にしているのかもしれない。

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