過去との決別 #75
「では、これで僕は失礼するよ。」
貴族の三男は、残りの3戦が済み、ちょうど1マッチが終わった所で、そう言った。
それまで、ゲームの勝ち負けによって喜怒哀楽が目まぐるしく変化していた彼だったが、今はもう、憑き物が落ちたかのようにスッキリとした顔をしていた。
「はあ? お前、あれだけ俺を待たせておいて、もう抜けるだぁ? なめてんのか? さっきカウンターに行って替えてきたばかりなら、チップはまだ充分あるんだろうが!」
「残りのチップがあろうがなかろうが、僕が勝負を抜ける事を、君にとやかく言われたくないね。僕の行動は、僕が決める。僕はこれで、このテーブルでの勝負を降りるよ。」
ギャンギャンとドゥアルテは、また手のつけられない我儘な子供のように癇癪を起こして騒いだが、貴族の三男は、どこ吹く風といった涼しい表情だった。
□
(……本当に、チップ5枚で足りてしまうとはね。……)
貴族の三男は、チップの入った手元の木箱を見て、なんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。
ティオが貴族の三男に自分の手の内を明かした事から、彼はティオには勝てないとの判断を下し、「銀貨50枚を受け取って、このマッチ限りで勝負を降りる」という取引に応じたのだった。
まあ、ティオがドミノ牌を裏柄からでも区別出来るとなると、どこになんの牌があるか一目瞭然だ。
加えて、貴族の三男に披露した、尋常でない記憶力の良さ。
更に、ティオ本人は言及しなかったが、ティオの言動の端々から、彼が恐ろしく頭が切れ、人心掌握にも長けた人物である事を貴族の三男は察していた。
そんなティオ相手に、貴族の三男は、ここから大儲けするだけの勝ちを拾えるとはとても思えなかった。
彼の理性と知力、そして何より生物的な本能のようなものが、目の前の大きな危険を察知して、脳内で激しく警鐘を鳴らしていた。
そして、貴族の三男は、そんな自分の内からこみ上げてくる「恐怖」に近い「悪い予測」に反して、情熱や激情だけで自分の行動を押し通せるタイプの人物ではなかった。
今まで負けていた分は、先程ドゥアルテに今まで貸していた金を返してもらったので、なんとか穴埋め出来た。
いや、正確には、ドゥアルテが激昂して彼に投げつけてきたチップは銀貨50枚分程足りなかったのだが、それはティオがちょうど彼を買収するために持ってきた金で補充する事が出来た。
まるで見透かしていたように足りなかった分の金を持ってくる辺りも、自分より二十近く年下の若者相手に、底知れない恐ろしさを感じた。
そして、ティオは彼に言った。
「後チップ5枚もあれば、1マッチの終わりまで足りますよ。」と。
そして、それは、今現在、貴族の三男の手元にあるチップ入れの木箱の有様が証明していた。
『……あなたが、今ここで、俺の差し出した金を受け取って、このマッチを最後に勝負を降りると約束してくれるなら、残りの3戦、俺はあなたが負けないようにプレーする事を約束します。あなたの失点は赤チップ5枚以内に抑えましょう。……』
そのティオの言葉通り、貴族の三男は、最後の3戦で……
ボーナスチップを取られる事もあったが、同じ一戦の中で自分がボーナスチップを取り返したり、負けても手牌が『0-0』や『0-1』『1-1』などの少ない目数の牌であったり、逆に、自分が勝っても、残りの二人の手牌の目数が少なく、ほとんどチップが貰えない状態であったりした。
この3戦、貴族の三男は、勝負の勝ち負けだけでなく、その勝ち負けの「量」まで自由自在に操れるティオの実力を嫌という程思い知る事になったのだった。
しかし、それも、ティオが自分から種明かしをしてきたからこそ分かった事であり、何も言われないままであれば、今も貴族の三男は、ティオの事を「ツキだけで勝っているふざけた性格の鼻持ちならない若造」だと誤認したままだっただろう。
(……まあ、「鼻持ちならない」というのは、間違っていなかったかな。フフ。……)
貴族の三男は、ティオの話を聞きながらゴブレット一杯分のワインを飲んだ後、この赤チップ卓のテーブルのある壇上に歩いてくる途中、ティオに尋ねた事を思い出していた。
『しかし、参謀君、ポンと銀貨50枚も僕に渡してしまっていいのかい? 君の話では、これは傭兵団の資金にするための金なのだろう?』
『ああ、いいんですいいんですー。またすぐドミノで増やしますからー。……それに、その銀貨50枚は、あなたから巻き上げた金ですしねー。アハハハー……痛っ!』
いっとき立ち止まって仏頂面で振り返った貴族の三男に、ティオは、ピシッと額を指でしたたか弾かれていた。
『まったく。腹の立つ若造だな、君は!』
『アハハ、どうもすみませーん!』
ティオは、弾かれて赤くなった額を押さえて謝っていたが、本心ではまるでこたえている様子もなく、ヘラヘラと能天気に笑い続けていた。
そんなティオに対して……貴族の三男は、口では「気に食わない」と言いつつも、実際は怒りや憎しみの感情はまるで湧いてこなかった。
更には、友人として長い付き合いのあったドゥアルテよりも、つい先程出会ったばかりのティオに好感を覚えていた。
ドゥアルテではなく、むしろティオが自分の友人だったらと思ってしまう程に。
(……恐ろしくも、不思議な人間だよ、君は。……)
鋭利な刃物のように切れる頭脳と、平然と大胆な行動を実行出来る破格の胆力を併せ持ちながら……
まるで気まぐれに吹く風のように、飄々と軽やかで掴み所がない。
年老いた見識者のごとき智謀と悟りを持って世の流れを読みつつ……
一方で、いたずら好きの無邪気な少年のような言動や表情を見せもする。
この、王都の繁華街の地下にある賭博場という、欲望と破滅が巨大な黒いとぐろを巻く場所にあって、彼の周りだけ、スウッと澄んだ水が満ちるような清涼感を覚えた。
そんな稀有な人物であるティオという名の若者に対して、興味は尽きなかったが……
(……今、この場では、これ以上君の計画の邪魔になるような無粋な真似はするまいよ。また、下手に君に敵対して、隠し持った鋭い牙でこの身を引き裂かれるのも勘弁だからね。……)
細かな傷がビッシリとついて白濁して見える分厚いレンズ越しにこちらを見ているティオの目を、貴族の三男はしばし黙ってジッと見つめた後……
バサリと水色のマントを翻して、背を向けた。
「僕は、この後は、観客席の方から、この興味深い勝負の行き着く先を見届けさせてもらう事にするよ。」
最後に一度だけ、貴族の三男は振り返り、いかにも彼らしいキザな仕草で前髪を掻き上げながら、ドゥアルテに微笑んでみせた。
「ああ、一つだけ、かつての友人として、ドゥアルテ殿に忠告しておこうかな。まあ、君は僕の話など聞く気はないだろうけれどもね。初めて会った時から、君はそういう人間だったからね。良く知っているよ。」
「充分に気をつけたまえ。君の目に映るものが、この世の全てではない。君のあずかり知らぬ所に、思わぬ真実は隠されているものさ。」
「それから……自分の思い通りにならないからと言って、傲慢に他人を見下し尊厳を踏みにじるような真似をして、無駄に敵を作らない方がいい。君が天に向かって吐いた唾は、いつかは君の所に落ちてくるだろう。……ああ、もう手遅れだったかな? フフ。じゃあね。良い夜を、ドゥアルテ殿。君のこれからの人生に、まあ、いくばくかの光がある事を、一応祈っておくよ。」
そうして、貴族の三男は、再びクルリときびすを返すと、もう振り返る事なく、赤い絨毯の敷かれた壇上から降りて歩き去っていった。
□
「チッ! なんだ、あれは。もったいつけやがって。アイツの友達だなんて、こっちから願い下げだぜ。フン。元々カッコばかりつけて嫌味なヤツだと思ってたんだ。金もないくせにプライドだけやたら高い。これだから貴族ってヤツは嫌いなんだ。縁が切れてせいせいするぜ。」
ドゥアルテは、貴族の三男が赤チップ卓のテーブルを去った後、ゴブレットのワインを煽りながら、仏頂面でブツブツ文句を言い続けていた。
「ところで、ドゥアルテさん。どうしますか?」
「あ? なんだ、若造? 俺を気安く呼ぶな。」
「すみません。……しかし、他の人が居なくなっちゃいましたよ? もう、このテーブルには、あなたと俺だけです。」
「ここら辺で、今晩のドミノはお開きにしましょうか?」
素知らぬ顔で提案してくるティオに対して、ドゥアルテは、彼の張り巡らせた罠に全く気づく様子もなく、自分から勢い良く突っ込んできた。
「ああ!? こんな中途半端な所でやめる訳ねぇだろうが! さっさと勝負の続きだ! お前は、ドミノは二人でも出来るゲームだって知らねぇのか、この初心者め! 今日はとことん勝負してやるぜ!」
「わ、分かりました、分かりましたー! ドゥアルテさんには本当に敵いませんねー。もう、夜もとっくに夜半を過ぎましたが、こうなったら、こちらも最後までお付き合いいたしますよー。」
そう、ここに至るまでに……赤チップ卓においてドゥアルテと一対一で対戦するまでに、ティオは、詳細に計略を立て、それらを余さず全うするという、どれ程大きな労力を費やした事か。
もっとも、それは、当のドゥアルテは全くあずかり知らぬ事実であり、また、当人には決して知られてはならない真実でもあった。
「でも、ドゥアルテさん、チップはどうするんですか? さっきの1マッチで、トータルで結構負けてしまって、今はもう、ほとんど残っていないんじゃないですか?」
「チッ!……うるさいガキだな! チップなんて、また借りればいいんだよ! 俺はな、お前とは違って、この店の上客だ。それもその筈だぜ。なんたって俺は、お前も、そこのクソ虫野郎のチェレンチーも良く知っている通り、この国きっての大商人、ドゥアルテ商会の主なんだからな!」
ドゥアルテは胸を張ってそう言い放つと、ドッカと椅子の背に腕を乗せて振り返り、オーナーのそばに影のように立っていた小柄な老人を呼びつけた。
おそらく、いつもそうして、赤チップ卓周りの雑用を担当している従業員の老人をアゴで使っていたのだろう。
「おい、ジジイ! 俺のチップを持ってこい!」
「かしこまりました、ドゥアルテ様。いか程お持ちいたしましょう?」
「フン、そうだな……」
実は、貴族の三男が席に戻ってからの3戦が始まる前に、既にドゥアルテは店からチップを借りていた。
それもその筈で、貴族の三男が「今まで貸した金を耳を揃えて返せ!」と言い募った時に、現金を持っていなかったドゥアルテは、「これでいいだろう!?」と激怒しながら自分のチップを貴族の三男に向かって全部投げつけてしまったのだった。
テーブルの上にも下にも、あちこちに散らばったチップは、従業員の老人だけでなくティオとチェレンチーも手伝ってもれなく回収されはしたが、それでも貴族の三男が貸した額には足りなかった。
既にドゥアルテの人間性に見切りをつけていた貴族の三男は、「もうこれでいい」と言って終えたものの……
一方で、ドゥアルテのチップ箱は空になり、勝負を続けるには、店側からチップを借りなければならなくなっていた。
そこで、ドゥアルテは、銀貨50枚相当の価値換算になる赤チップ50枚を新たに借りた。
しかし、それももう、ここまでの3戦で、灼熱の太陽の下の氷のごとくみるみると溶けて消え、今はほとんど残っていない状態だった。
それでも、ドゥアルテは、特に気にする様子はなかった。
(……チップがなくなれば、店から好きなだけ借りればいい。……)
そう思っているのが、彼の言動にありありと表れていた。
今は亡きドゥアルテの父親は、他人や使用人には厳しかったが、息子のドゥアルテだけには異常に甘く、彼がねだりさえすれば、小言を言いながらも、結局最後には金を用立ててくれていた。
そうして、大人になってからも、頼めばいくらでも金が貰える状況にあったドゥアルテは、(金なんて、何もしなくても、どこからか自然と湧いて出てくるもの)という感覚を持ち続けていた。
そんな彼が、ドゥアルテ商会や、ドゥアルテ家の屋敷で働き、汗水を流して日々の生活の糧である給金を必死に稼いでいる使用人達の苦労など、知る筈もなかった。
「またすぐなくなっても面倒だからな。……赤チップ100枚……いや……」
ドゥアルテは、チラと、ティオと、その後ろに背筋を伸ばして立っているチェレンチーを見遣ったのち、彼らに自分の財力を見せつけるかのごとく、声の音量を上げて言った。
「俺がこの店で借りられるチップ、上限いっぱいまで持ってこい!」
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☆ひとくちメモ☆
「ドミノゲーム」
賭博場『黄金の穴蔵』で行われているドミノゲームでは、最も早く手牌を場に出し切ってゼロにした者が勝者となる。
勝敗が決定したその時、他のプレイヤーは、手元に残っていた牌の目の合計分のチップを勝者に支払う。
そのため、『6-6』『5-6』『5-5』といった大きな数字の目の牌は、リスクを避けて早めに切っておくのが定石となっている。




