過去との決別 #74
「あの、こちらをどうぞ。」
「えーと……俺にですか? いいんですか?」
「ただのお水ですから。サービスです。」
「それは、どうもありがとうございます。」
従業員の若い女性が、何も飲まずに席に座っていたティオの前に、水の入ったジョッキを置いていった。
ティオは、いっときジッと中を見た後、取っ手に手を掛けてグイと飲んだ。
「いやぁ、こんなサービスがあるなんて、ナザール王都は水が豊富だからなんでしょうかね。綺麗な水の貴重な地域に行くと、水はタダでは飲めませんよ。本当に、ここはのどかで良い国ですね。あ、今は内戦中ですけれども。」
「……君、そういう所は意外と鈍感なんだね。さっきの子は、君だからサービスしたんだよ。誰にもでもする訳じゃない。まあ、僕も、いろんな店で良くそういうサービスを受けるけれどね。フッ。容姿の良い人間の特権さ。」
貴族の三男にそう言われても、ティオはまるで理解していない様子で、キョトンとした表情で淡々と水を飲んでいた。
先程やって来てティオの前に水の入ったジョッキを置いていった若い女性従業員は、カウンターの向こうに戻った今も、チラチラとティオの方を見ている。
そのうっすらと赤く染まった頰や潤んだ瞳を見れば、すぐに彼女の真意に気づきそうなものだが、ティオは他人事のようにケロリとしていた。
ボサボサの黒髪に大きな眼鏡を掛けたティオの姿は、一見酷く野暮ったく見えるが、その伸びっぱなしの乱れた髪と分厚いレンズに隠された彼の顔立ちの良さを、先程の女性は鋭く見抜いたのだろう。
また、ティオは、スラリと背が高く均整のとれた体つきをしており、瑞々しくも涼やかな気配をまとっている男だった。
自分の容姿に自信のある貴族の三男でさえも、ティオの持つ、研ぎ澄まされた刀身を思わせる整った容姿と、澄み切った水のような独特の雰囲気には、不思議な程目が引きつけられるのを感じていた。
シンプルな白いシャツの襟元に鮮やかな群青色のリボンタイを結んでいるティオの衣装もまた、理知的で冷静な一面と、少年のように無邪気な一面を併せ持つ彼の魅力を良く引き出していた。
「俺が『裏からでもドミノ牌を区別できる証拠』ですか。」
ティオは少し考えた後、つらつらと喋り始めた。
「例えば、先程の一戦。……まず、全ての牌を裏に返して良く混ぜ、そこから順番に各々牌を6枚引いてきた訳ですが……一番手のドゥアルテさんが『6-6』を引き、次にあなたが『1-2』を引き、そして俺が『0-1』でした。続いて、二巡目の引きでは……」
ティオは一度も迷う事なく、勝負の始めから終わりまで、全ての牌の動きを語った。
ワインの入ったゴブレットを片手にそれを聞いていた貴族の三男は、初めは目を見張ったものの、次第に青ざめていき、最後には酷く顔をしかめていた。
正直、貴族の三男は、つい先程の一戦の全てを覚えていた訳ではなかった。
それでも、彼が記憶している部分と、ティオの語った内容は見事に一致しており、かつ、ティオは彼以上に細かく正確に覚えている事が明らかになった。
「……ドゥアルテさんが『2-4』打、それに繋がるようにあなたが『4-1』打、更に俺が『1-0』打と繋げました。そこで、ドゥアルテさんが、『3』の端に『3-5』打、あなたが手牌になかったので山から引いてきて、『0』の端に『0-2』打、そして、俺が『3-5』に『5-6』を繋げて『ドミノ』となり、一番で上がりました。……この時山に残っていた牌は……」
ティオは、貴族の三男が途中から眉間を指で押さえてうつむき黙り込んでしまったので、心配そうに聞いてきた。
「これで、俺が牌を裏からでも見分けられる証明になりましたかね?……あ! その前の一戦も牌の流れを話した方がいいですか?」
「……いや、もういい。……」
貴族の三男は、しばらく目をつぶって苦虫を噛み潰したような表情をしていたが、フウッと気分を切り替えるように一つ息を吐いて、ようやく顔を上げた。
「……まさか、君は、今日プレーしてきた全ての勝負の牌の流れを覚えている訳じゃあるまいね?」
「覚えていますよ。今はまだ。」
「『今はまだ』とは、どういう意味だい?」
「覚えたもので必要のないものは、定期的に忘れるようにしているんですよ。そうしないと、頭の中がスッキリしないじゃないですか。放っておくと、まるで分類も片づけもされないまま乱雑に本が積み重なっている書庫のような状態になってしまいます。それでは、新しい情報を入れたり考え事をしたりするのに、不便でしょう? だから、要らないものは忘れるんです。……正確には、俺は一度覚えたものを忘れる事は出来ないたちなので、『思い出さないもの』という分類をして封印しておくんですけれどもね。先程の続きで本に例えると、頭の中に、必要な記憶を置いておく本棚と、必要でない記憶を置いておく本棚を作って、定期的に、記憶という本を、分類、整頓しているんですよ。……あ、一度『思い出さないもの』として振り分けたものでも、後から必要だと思えば探して思い出す事は可能です。でも、普段はすっかり忘れている状態ですね。」
「……」
貴族の三男は、ティオが今日の天気について話すようなごく軽い口調で話した内容を噛み締めて、ますます顔をしかめた。
それまでは、不可思議なものを見るような、半信半疑の表情だったが……
今では、それは、明らかな異物に対して本能的に拒絶反応を示す、驚愕と恐怖の滲むものに変わっていた。
「……化け物め……」
「え?」
「……な、なんでもない。……今日ここで、君のような人間に出会った自分の不運を嘆いているだけさ。……いや……」
「……これで、良かったのかもしれないな。……」
コトリと、わずかに飲み残したワインの入ったゴブレットをテーブルに置くと、貴族の三男は頬杖をついて、どこか遠い目で、賭博場『黄金の穴蔵』の喧騒を見つめていた。
その目には、愛惜と共に深い諦めの感情が浮かんでいた。
「僕も、結構いい歳なんでね。いつまでもこんな場所で燻ってばかりもいられないとは、前々から思っていたんだよ、これでもね。でも、人間は弱いからね。何かきっかけがなければ、ズルズルと居心地のいいぬるま湯に浸ってしまうものさ。……そう、これは、僕にとっていいきっかけだったんだ。まあ、父上に勘当される前に、決心がついて良かったよ。だからと言って、君に礼を言う気には、更々なれないけれどね。フン、全く腹の立つ若造だよ、君は。」
「また君のような厄介な敵に会う前に、僕は、この『黄金の穴蔵』から、地上へ這い出した方が良さそうだ。気分を一新して、お天道様の照っている真昼の空の下を歩くのも、まあ、悪くない。」
貴族の三男は、この場所における様々な思い出が胸に去来するらしく、寂しげではあったが、それでもみっともなく取り乱すような事はしなかった。
おそらく、見苦しい姿を晒すのは、彼のプライドと美学に反するのだろう。
頬杖をついたまま、気取った仕草でティオをツイと指差し、唇の端を上げて笑ってみせた。
「傭兵団の参謀君、君が薄気味悪い程人間離れしているのは良く分かったよ。君が初めてのドミノで勝ち続けているのも、とても納得がいった。」
「でも、という事はだ。……君は、さっきの一戦でわざと手牌を倒して僕に見せたね? さっき言っていたよね? 初心者らしい素振りをわざとしていたのだって。」
「そうして、僕に見えるように『5-6』牌を故意に倒して、僕に『4-6』ではなく『1-4』を切らせた。そうだろう?」
ティオは、それを聞いて、全く悪気のなさそうに、イタズラを見破られた子供のように、ニコッと笑った。
「あなたなら、俺の『5-6』牌を止めるために、絶対に『1-4』牌を切ってくると思っていました。」
「……ハ……ハハ……ハハハハハッ!」
貴族の三男は、快笑したのち、テーブルに置いていたゴブレットをスイッと再び手に取ると、残っていたワインを天を仰いで一息にあおった。
そして、ティオに真っ直ぐに向き直り、はっきりとした口調で宣言した。
「いいだろう。君の提案に乗ろう。」
「僕は、君から銀貨50枚を受け取って、このマッチで勝負を降りる。」
□
「ありがとうございます! 本当に、ご協力感謝します!」
「……もう一つだけ、質問していいかな?」
「はい! なんでしょう?」
パアッと無邪気な子供のような笑顔を見せるティオに、貴族の三男は、飲み干してテーブルに置いたゴブレットの縁に指を掛けて傾け、ゆらゆらと揺らしながら聞いてきた。
「君が、ドゥアルテを標的にしているのは……彼の腹違いの弟君と仲がいいから、なのかい? これは、あの弟君のための復讐劇と言う訳かい?」
「いえ、違います。」
ティオは背を正し、正面から貴族の三男の顔を見つめてハキハキと答えた。
「俺がドゥアルテさんをターゲットに選んだのは、傭兵団の資金集めのために、この賭場で金を稼ぐ相手として最適な人物だったからです。……ギャンブルに溺れ、完全に常識のタガが外れてしまっている者。金を失う事に、もはや抵抗を感じなくなっている者。ためらいなく湯水のように賭博に大金をつぎ込む者。……そういう人間を探した結果、たまたまドゥアルテさんに白羽の矢が立っただけです。」
「チェレンチーさんの事は、今回の一件とは一切関係ありません。……まあ、赤チップ卓での勝負に混ざるため、チェレンチーさんには、ドゥアルテさんの興味を引くという役目を担ってもらう事になりましたが。おかげで、すんなりと事が運びました。」
「ふうん。あの弟君のためにドゥアルテに一泡吹かせようという訳ではないんだね。」
貴族の三男は、ティオが、ずっと彼に付き添い、ジッと後ろに立って彼の勝負の行方を見守っていたチェレンチーの事を、とても気に掛けていたのを思い出していた。
疲れていないかと声を掛け、寒そうな様子を見ては、自分の上着を脱いで彼に着せていた。
確かに、ティオに嘘をついている気配はまるでなく、また、彼の清々しい気配からも、復讐を企てているようには見えなかった。
しかし、傭兵団の仲間としてか、チェレンチーの事をとても大切に思い、守るように大事に扱っている事は間違いなかった。
「まあ、君がそう言うなら、そういう事にしておこう。うん、ドゥアルテがこの王都で最も高級なカモだいう意見には、僕も心の底から同意だよ。」
と、貴族の三男は、その件に関してはそれ以上触れずに流す事にした。
そして、壇上の赤チップ卓のテーブルに二人きり残された、歪な関係の兄弟を遠目にチラと見遣った。
「彼、チェレンチーだっけ? ドゥアルテから聞いていたのとは随分印象が違ったな。」
「ああ、時々ドゥアルテが愚痴っていたんだよ。……親父がどこからか拾ってきた、本当は親父の血なんか入っていない赤の他人だとか。隙あらば親父に取り入って、この家を乗っ取ろうとしている腹黒いヤツだとか。なんの役にも立たないバカで、目障りでしょうがない、とかね。」
「まあ、アイツの言う事だから、話半分に聞いていたけれどもね。弟君本人に初めて会って、どうやらドゥアルテの一方的な僻みだったのが良く分かったよ。弟君の方が、ドゥアルテよりずっと真面目で利口そうだ。礼儀正しくて良く気がきく、兄とは正反対で、好感の持てる性格のようだね。ちょっと卑屈で自信のなさそうな所が気になるけれどもね。……ドゥアルテの父親は大商会の総裁として有名な人物だったから、僕も何度か会った事があるけれど、まあ、あの弟君の容姿なら、一目見て親子だと良く分かるよ。ドゥアルテは父親似ではないからね、余計弟君の事が気に食わなかったんだろう。」
貴族の三男は、痺れを切らしたドゥアルテが壇上から真っ赤な顔で手招いているのを見て、おどけるように肩を竦めてみせた。
「……フフ、それにしても、僕も、どうしてあんなヤツと長い間友人として付き合っていたんだろう?」
「一応ヤツの友人として、少しは擁護しておこうかな。……『ドゥアルテから金を取ったら何もいい所はない』なんて、陰口を言う者も良く居るけれどね。そうだね、アイツから金を取ったら……ハハ、本当にいい所が何もないな!」
「でも、まだ知り合ったばかりの頃、僕が借金を抱えて悩んでいた事があったんだ。この借金が父上にバレたら、大目玉を食らうどころか、三男の自分は勘当されかねないと震えていた。そんな時、ドゥアルテが、ポンと金を出して借金を立て替えてくれたのさ。『これで、何も心配は要らないだろう? さあ、早く一緒に遊びに行こうぜ!』ってね。」
「まあ、羽振りの良かったアイツにとっては、本当に大した事ではなかったんだろう。もう、そんな事があった事さえ忘れているに違いないよ。ああ、もちろん、その金は後で苦労して工面してヤツに返したよ。……でも、本当に窮していたあの時の僕は、アイツの気まぐれと気前の良さに救われたのさ。それは紛れもない事実だよ。その一件に、僕は、心のどこかでずっと、恩義を感じていたのだと思うよ。」
「しかし、もう、それも終わりにするとしよう。アイツとの腐れ縁も、どうやらここまでのようだ。」
貴族の三男は、テーブルの上の空になったゴブレットから手を放すと、バサリと水色のマントを翻して颯爽と席を立った。
「傭兵団の参謀君。まあ、これは、これまで一応ヤツの友人だった僕からの頼みだ。」
「君の手で、キッチリとヤツに引導を渡してくれたまえ! ヤツが、一縷の希望も抱く余地がない程にね。」
「それが、ヤツのためでもあると僕は思っているよ。父親が亡くなってからのドゥアルテは、元々身勝手で横暴だったのがより酷くなったんだ。商売が上手くいっていないらしくて、いつも苛立って周りに当たってばかりだよ。見苦しくてかなわない。そろそろ、今の自分にふさわしい場所まで落ちた方がいい。」
「僕には、残念ながらそれが出来なかったけれどね。参謀君、君なら、アイツの人生に決着をつけてやれる事だろう。」
「じゃあ、そろそろ行こうか」と言い置き、水色のマントを揺らしながらさっさと歩き出した貴族の三男に……
ティオは、まだ水の入ったジョッキを手にしたまま席を立ち、慌てて飲みながら後を追っていった。
読んで下さってありがとうございます。
ブクマ、評価、感想、いいね等貰えたら嬉しいです。
とても励みになります。
☆ひとくちメモ☆
「ティオの外見」
185cmを越す長身で、着痩せする事もありひょろ長い印象があるが、実際は体は良く鍛えられている。
伸ばしっぱなしのボサボサの黒髪を首の後ろで無造作にまとめ、分厚いレンズのはまった大きな丸い眼鏡を掛けている。
ちなみに、髪がボサボサなのは、極度の刃物恐怖症でマメに散髪出来ないため。




