過去との決別 #71
「はあ? どういう事だ? 俺はそんな話は聞いてないぞ!」
ダン、と苛立ちでテーブルを叩いて怒鳴るドゥアルテを横目に見遣り、貴族の三男は小声で嘲笑した。
先程ドゥアルテが暴れ出したために、今はテーブルの席を離れ、安全と思われる所まで距離をあけていた。
「いやいや、何度も聞いたよ、その規則は。君の記憶力がお粗末なだけなんじゃないのかい?」
「なんだと、テメェ!」
ドゥアルテがギロリと視線をこちらに向けると、貴族の三男は、「おっと! 怖い怖い!」と言いながら大仰な振る舞いで肩をすくめて後ずさった。
と、ポンとティオが手を叩いて納得したように話に割って入る。
「なるほどー。チップの又貸しで儲けようとするのを禁止している訳ですかー。」
「そういう事です。……お客様の中には、たまに、勝手にチップに利子をつけて貸しつける方がいらしゃって、それは店としては困った行為なのです。私どもは、この『黄金の穴蔵』を王都一健全な賭博場だと自負しております。そんな当店の中で、密かに怪しい商売をされるのは、店の信用に関わります。」
「まあ、そういった悪質な貸しつけでなく、二、三枚程度のわずかな貸し借りならば普段は目こぼししておりますが、今回のようにチップの数が多くなりますと、たとえそこに悪意がなくとも、やはり見逃す訳にはいきません。」
オーナーの回答に、ドゥアルテはムッと眉間にシワを寄せて不機嫌そうな顔をした。
「俺はこの店の最も上等な顧客だぞ!」
「規則は規則でございます。どんなお客様にも等しく従ってもらう事になっております。」
「チッ! 融通の効かない店だな!……だが、俺には今現金の手持ちがないんだよ!」
と、そこでまた、ティオがポンと手を叩いて、相変わらず緊張感の欠けらもない呑気な笑顔で提案してきた。
「あ! じゃあ、これらチップを全部一回お店側で現金に変えてもらってー、それをドゥアルテさんからこちらの方に譲渡する、というのはどうでしょうー?」
「ああ、それならばもちろん可能です。」
「ちょ、ちょっと待ってくれたまえよ! そんな事をしたら、僕の取り分が減ってしまうんじゃないのかい?……チップから現金に戻す時は、二割りの手数料が取られるだろう?」
「その分チップを多めにドゥアルテさんから貰ったらいいんじゃないんですかー?」
「フン! ダメだな!……俺が今持っているチップはそれで全部だ。それで嫌だというなら、諦めるんだな!」
「なっ!……ドゥアルテ、君という男は、本当に性根が腐りきっているねぇ!」
貴族の三男は、しばらく渋い表情で腕組みをしていたが、やがて、フウッと大きなため息を吐いた。
キザな仕草で乱れていた髪を撫でつけながら、もはやドゥアルテと視線を合わす事もなく冷めた表情で言った。
「まあ、いいさ。もうこれ以上、このくだらない男に関わりたくないからね。さっさとヤツがばら撒いたチップを拾い集めてくれたまえよ。」
そうして、後は何もせずに、他人事のように店の様子を見回しながら突っ立っていた。
そのかたわらでティオとチェレンチーは、床に散らばったチップをせっせと拾い集めていたが、例の従業員の制服を着た小柄な老人に止められてしまった。
「お、お客様方! そんな事はなさらなくても結構です! これは私の仕事でございます! 私が全てやりますので、どうかお気遣いなく!」
「いやいやー、お手伝いさせて下さいよー。どうせ、このチップの一件が片づくまで、俺にはやる事がありませんしねー。それに、一人でやるより、この方が早く終わりますよー。」
「そ、そうですよ、ティオ君の言う通りです。一緒に早く片づけてしまいましょう。僕達なら平気ですから。」
老人は酷く申し訳なさそうな顔をしていたが……
元々赤チップ卓の常連客のような大金持ちではないティオとチェレンチーにとっては、かがんで床に散らばったチップを拾い集める作業は、特に恥ずかしいと感じるようなものではなかった。
チェレンチーは、むしろ、今は縁が切れているとは言え自分の腹違いの兄が起こした問題の始末を、店の従業員である老人が一人で処理するのは申し訳ないという気持ちで、チップをせっせと集めていた。
□
「お爺さんは、毎晩この店で働いているんですかー?」
「私ですか?」
ヒョイヒョイと三人の中で最も素早く手際良くチップを拾い集めていくティオが、ニコニコと人懐こい笑顔を浮かべて、老人に話しかけていた。
ただ、床に散らばったチップを拾うという単純作業の退屈さを、たわいない会話で紛らわせているのだろうとチェレンチーは思った。
「……そ、そうですね。毎晩という訳ではありません。来る時もあれば、来ない時もあると申しましょうか。ハハ、さすがに老体に夜を徹しての仕事はこたえますので、その辺りは旦那様が気遣って下さっております。」
「ほー、なるほどー。」などと、ティオはいつもの調子で気さくに相槌を打っていたが……
一方で、チェレンチーは、老人がティオに返答する時、やけに身構えているように感じた。
客として丁寧な態度をとっている、というだけでなく……
まるで、何かとても恐ろしいものに怯えており、その恐怖を必死に笑顔の下に押し隠しているような気がしたのだった。
しかし、ティオは、そんな老人の警戒心に気づいているのかいないのか、相変わらず朗らかに笑って言った。
「ここは、とても良い賭博場ですね。」
「それは嬉しいお言葉です。お客様にそう言っていただけるよう、我々も日々誠心誠意努めております。」
「ここには、秩序がある。」
ティオは、拾い集めたチップを指先で綺麗に整えて、仕切りのついた木箱の中に整然と収めながら言った。
「この賭博場は、いわば都の影にあたる場所。王城がこの都の光なら、この城下町の繁華街は、その影と言えるでしょう。世の中、光もあれば、影もある。いや、光があるからこそ、影が生まれるのかもしれませんね。」
「しかし、影にも秩序は必要です。そして、影に生きる人達にも、また、秩序が必要でしょう。」
「影の部分だからと言って、あまりに無秩序で混沌とし過ぎていては、そこに生きる人々は、混乱し、争い、不要な血が多く流れる事でしょう。故に、影には影の秩序があり、影に生きる人々は、それを守り独自の和をもって生きている。国王による治世とはまた別の法が、ここにはしっかりと築かれているのを感じます。」
「それはきっと、都の影の部分を治める人物が、しっかりとした方だからこそ出来る事なのでしょうね。」
ティオににっこりと微笑まれ、小柄な老人は複雑な表情を浮かべながらも、従業員らしい控えめな笑顔を返していた。
「旦那様が、あなた様のそのお言葉を聞いたら、きっととても喜ばれる事でしょう。」
ティオは黙ったまま笑みを老人に返し、チェレンチーから受け取ったチップも箱にしまうと、スックと立ち上がった。
「さて、拾い終わりましたね。……ええと、これをカウンターに持っていって現金に……」
「ああ、それは私が行ってまいります! お客様の手をこれ以上煩わせる訳にはいきません!」
「……いいよ。僕が自分で行ってくるからさ。」
ティオと老人が話している所に貴族の三男が割って入り、ティオの手からチップの詰まった木箱をパッと奪っていった。
不機嫌そうなその表情を見るに、ティオ達に自分のチップを拾わせた事を悪いと思っている、という訳ではなさそうだった。
「現金が絡む事だからね。さすがに人任せにしたくないよ。僕は慎重な性格なんだ。」
「お客様のものを我々店の者が勝手に着服したり、計算を誤魔化したりするような事はございません。どうか、ご安心下さい。」
「それは分かっているさ。何年この店に通っていると思っているんだい。僕はこの『黄金の穴蔵』をとても信用しているよ。」
「でも、それとこれとは話が別なんだ。大事な事は他人の手に委ねたくないんだ。これは僕の性分の話さ。」
「じゃあ、さっさと行ってくるとするよ。」
そう言い置くと、貴族の三男は、手にチップの入った木箱を持って、バサリと、白い衣装の上に羽織った水色のマントを翻し、赤チップ卓のテーブルのある壇上から颯爽と降りて歩いていった。
□
「あっと! こんな所に拾い忘れたチップがありましたよー!」
と、ティオが慌ててかがんで、椅子の脚の影に落ちていた一枚の赤チップを拾い上げていた。
「ちょっと行って、あの方に渡してきますねー!」
当然従業員の老人が「いえ、私が!」と言ったが、ティオは笑顔で断った。
「いえいえー! ずっと座りっぱなしだったので、ちょうど少し体を動かしたかった所なんですー。大丈夫ですよ、くすねたりしませんからー。ちゃんとあの方に渡してきますので、安心して待っていて下さいー。」
客であるティオにそう言われると、従業員の老人も彼を止められなくなった様子だった。
「俺が離れている間は……チェレンチーさん、代わりに座っていて下さい。あ! もちろん、代わりに打ったりしなくていいですからねー。誰かにこの席を取られたら困るので、守っていて欲しいんですー。……チェレンチーさんは、俺とは逆に、立ちっぱなしで疲れているでしょう? いい機会なので、少し休んで下さいよー。」
「あ、う、うん。ありがとう、ティオ君。」
ティオがニコニコ笑って椅子まで引いてくれるので、チェレンチーは、流されるまま、先程までティオが座っていた椅子に腰を下ろす事にした。
「じゃあ! 急いで行ってきまーす!」
チャッと顔の横に手を挙げて挨拶すると、ティオは足早に赤チップ卓のテーブルの置かれた壇上を離れた。
そんなティオの後ろ姿を見送りながら、チェレンチーは頭の片隅で考えていた。
(……あんな所に、チップなんて落ちていたかなぁ? あの辺は何度か確認したけれど、何もなかったような気がするんだよなぁ? 僕の見落としかなぁ?……)
そして、ふと、ティオの席のそばのテーブルの端に置かれた彼のチップ入れの木箱を見て、違和感に気づいた。
それは、ずっとティオの後ろに立って彼の勝負を見ており、商人になるための教育で培った計算の技術で正確に彼の勝ち点を記憶していたチェレンチーだからこそ気づけた事だったろう。
(……あれ? ティオ君のチップが随分減っている! ザッと見た感じ、赤チップが60枚ぐらいなくなっているんじゃないかな?……い、一体いつの間に? ど、どうしてこんな事に?……)
(……だ、誰かが持ち去ったとして……さっきの一戦が終わってから、僕達以外誰もこのテーブルに近づいた人は居なかったし、近くで見ていたオーナーや従業員のお爺さんも何も言っていない。……)
(……ひょっとして……ティオ君本人が、いつの間にかここからチップを取って持っていった、のか?……)
チェレンチーがキョロキョロと周りを見回していると、右隣の席に座っていたドゥアルテとバチッと目が合ってしまった。
慌ててサッと背を丸め体を小さくしてうつむくも、その直後、チェレンチーの耳に、嫌という程聞き覚えのある声が響いてきた。
「おい、チェレンチー。」
「……」
「おいって言ってるだろうが、ゴミ虫野郎。返事も出来ねぇのか、この役立たずが。」
チェレンチーは、しばらくギュッと膝の上で両手を強く握りしめて黙り込んでいたが……
やがて意を決して顔を上げ、ドゥアルテに向き直った。
「……ぼ、僕に何か用ですか? 兄さん?」
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☆ひとくちメモ☆
「『黄金の穴蔵』の従業員」
ナザール王国の王都一のドミノ賭博場である『黄金の穴蔵』には、不測の事態に対応するために帯刀した用心棒達とはまた別に、様々な従業員が居る。
チップの交換、飲食などのサービス、外ウマの賭け金の管理など様々な分担がある。
従業員は、全員えんじ色の制服を身につけている。




