過去との決別 #68
「特に異常はございません。」
十分以上じっくりと時間をかけて、一つ一つの牌の裏表からテーブルの天板に敷かれた赤い布や椅子の下まで詳細に調べたのち、オーナーの使用人という小柄な老人はそう断言した。
テーブルの上には、元々出来ていたドミノの列だけてなく、皆がパッと見て分かりやすいように、貴族の三男とドゥアルテの手牌も表にして並べてあった。
更に、普段はめくる事のない山に残った2枚の牌も表に返されていた。
山に残っていたのは、『0-0』と『1-3』の牌で、これに、テーブルの中央に列として並べられた牌と、貴族の三男とドゥアルテが出せなかった手牌を加えると、確かに28枚、一枚の被りもなく全て揃っていた。
牌が入れ替えられたり足されたりした形跡がないのは、一目瞭然だった。
「28枚、全ての牌が揃っております。また牌には、傷や書き込みのように目印になる細工も見つかりません。……よって、イカサマはなかったと判断いたしました。私も旦那様と共に勝負を見ておりましたが、そこの若いお客様をはじめ、皆様不審な動きはなかったと記憶しております。」
老人の判定の言葉を聞いて、チェレンチーはホッと胸を撫で下した。
ティオがイカサマをしていないのは分かっていたが、何かの間違いで妙な言いがかりをつけられるかもしれないとの不安があったのだ。
しかし、この賭博場に来たばかりの時にティオが言っていた通り、『黄金の穴蔵』は客に対して公正であり、ルールに反しない限りこちらにとって強い味方にもなり得るものだった。
「……そ、そんなバカな!……も、もう一度良く調べてくれ! コイツは絶対にイカサマをしている! どこかにその証拠が必ずある筈だ!」
貴族の三男は納得がいかなかった様子で、真っ赤な顔でティオを指差し、オーナーに訴えていたが……
逆にオーナーは、ティオを庇うように二人の間に立ち、丁寧ではあるが、やや冷たい口調で言った。
「お客様の訴えを受けて、私達の方でしっかりと調べさせていただきました。しかし、イカサマの痕跡は見当たりませんでしたし、私も先程からずっとそばで勝負を見させてもらっていましたが、問題はなかったと認識しております。……『イカサマはなかった』と言うのが、我が『黄金の穴蔵』の結論でございます。」
「ここでドミノをなさるのなら、たとえどのように身分の高い方であっても、ここでの決まりに従ってもらわねばなりません。もし、それでも、今回のこちらの判定に不服があるとおっしゃるのでしたら、貴方様には店からお帰りいただく他ありません。」
「どうなさいますか? このまま勝負を続けますか? それとも、今日の所はお帰りになりますか?」
「グッ!」と貴族の三男は、悔しそうに顔をしかめて唇を噛み締めていたが、やがて観念したようだった。
フイッとオーナーから視線を外し、自分の席に戻ってドカッと椅子に腰を下ろす。
「分かったよ! 大人しく従えばいいんだろう?……ゲームは続行だ!」
「ただし! これから先は、もっと良く見ていてくれたまえよ! この若造が変な事をしないか、そこでしっかり監視していてもらおう!」
「分かりました」と答えて、オーナーは赤チップ卓のテーブルのある壇上のかたわらに置かれた椅子に再び座り、使用人の小柄な老人も、元のように、主人のそばに控えて立った。
再び揉め事が起こらないようにと、二人とも先程よりいっそう目を光らせている様子だった。
また、用心棒達の中から、小綺麗な見た目の者を二人呼んでそばに立たせる事にしたようだ。
有事の際に素早く対応するために備えたというのもあるが、帯刀した用心棒をはべらせる事で、壇上のプレイヤー達に不正をしないよう圧力を掛ける効果もあった。
念のため、それまで使っていたドミノ牌は片づけられ、真新しい一式が用意される事となった。
「フウ、やっとか。ったく、お前も面倒ないちゃもんをつけてくれたもんだな。」
ドミノ牌やテーブルを調べている間、テーブルから離れて腕組みをして立っていたドゥアルテも、愚痴を吐きながら自分の席に戻った。
待たされている時からあからさまに仏頂面をしていたが、余計な事で時間を取られて苛立っている様子だった。
「ちょっと負けたぐらいで、イカサマだのなんだのと、大袈裟なんだよ、お前は。自分の負けを認められずに相手に難癖つけるなんて、器の小さいヤツだな。お貴族様の誇りはどこにいったんだ? あ? みっともないぜ。」
「なっ!……ドゥ、ドゥアルテ殿は、さっきの1戦、いや、コイツが勝つ1戦は、いつも何かがおかしいとは思わないのか?」
「ただのツキだろう? そんなもの、次の1戦ではガラリと変わるような不確かな代物だ。こんなド素人の若造に、俺に勝てる程のドミノの腕なんて、ある筈がないからな。」
「……い、言う程君だってドミノは上手くないじゃないか。いや、むしろ、君は、僕なんかよりずっと下手だね。だから、こんなにコイツが好き勝手しているのに、その異常さに気づけていないんだよ!」
「ああ? 誰がドミノが下手だってぇ?」
いつものように、この賭博場の王様気分で人を小バカにしたドゥアルテの発言が、ただでさえイライラしていた貴族の三男の気に酷く障ったようだった。
そして、貴族の三男もまた、普段なら触れるのを避けているような指摘をドゥアルテに向かってしてしまっていた。
「何をバカな事を言ってるんだ、お前は。俺はいつも勝ってるだろう?」
「ハハ! そりゃあ、そうさ!……ドミノなんてね、いや、賭博自体ね、結局は金を持ってる者には勝てないんだよ! 金を持っていない者がいくら勝った所で、大金持ちは別になんとも思いはしない。普通の人間にとっては必死に勝って得た大金でも、大金持ちにとってははした金でしかないからね。そして、大金持ちは無尽蔵に金を賭けて、自分が勝つまで勝負を続けるんだ。どんなに腕のいい人間だって、相手の金が無限に湧いてきたら、いつかは負けるに決まってる!」
「ドゥアルテ、君の勝ち方は、そういう、持っている金の多さでゴリ押ししているだけのものなんだよ! だから、いくら打っても、君のドミノの腕自体はちっとも上がらないんだ!」
「ハッ! それがどうした?……ようは勝てばいいんだろうが! 勝つ理由は、金の力だろうが、腕だろうが、関係ない!……まあ、俺は、お前が言うように、金だけで勝っている下手クソじゃないけどなぁ。……なんだぁ? 自分がこの傭兵団のガキに勝てないからって、こっちにまで妙な言いがかりをつけてくんじゃねぇよ!」
「金の力で勝てるってんなら、お前がそれをすればいいだろうがよ。……ああ、悪い悪い。身分だけは高い落ち目の貴族に、そんな金はなかったっけなぁ。」
「……ド、ドゥアルテ、貴様ぁ! 由緒正しい貴族の家柄の僕が、お前のような金を持っているだけの平民と親しくしてやってるって言うのに、なんだよ、僕に対するその態度はぁ! 無礼だぞぉ!」
「ま、まあまあ、まあまあ! お二人共、やめましょうよー! ようやくゲームが再開したんですからぁー、早く次の勝負を始めましょうー! 夜は短いですからねー!」
と、お互いの喉元に噛みつく勢いで言い争う貴族の三男とドゥアルテを、なぜか、この騒動の元凶であるティオが必死に止めるという奇妙な構図になっていた。
□
(……な、なんか、妙な風向きになってきたなぁ。……)
チェレンチーは、険悪な空気の漂いだした貴族の三男とドゥアルテの様子を、椅子に座っているティオの肩越しに観察して、複雑な表情を浮かべていた。
今までティオは、ドミノゲームに勝つ事で、一人、また一人と、この赤チップ卓の客達をテーブルから追い払っていっていた。
材木問屋の男は、負けが込んできた所で、損切りの判断をして、早々に立ち去った。
地方の土地持ちの男は、念書まで書いて店側からチップを借りたものの、結局、担保にした土地を手放す覚悟を決めて、自分の家に帰っていった。
もう一人の貴族の男は、次々と馴染みの常連客が大敗してゆく流れに怯え、チップ箱が空になった時点で逃げるように出ていった。
ティオの最終的な目的はドゥアルテであり、ある程度金を吸い上げたら、他の人間はさっさとテーブルから放逐していくつもりのようだった。
つまり、普通に戦っていれば、とうにドゥアルテはチップを使い尽くして赤チップ卓を去っている所を、ティオが彼の負け分を手加減して、わざととどまらせている状態なのだと思われる。
それは、チェレンチーにもなんとなく理解出来たが……
(……兄さんの周りの人間が、ただ勝負に負けて去っていくだけではなくて……)
(……なんだか、兄さんの人間関係そのものが、壊れていっているような気がするんだよね。……)
負けた人間が赤チップ卓のテーブルから離れていくごとに、ドゥアルテのそばからも、一人ずつ人の姿が消えていっている……そんな不思議な感覚をチェレンチーは覚えていた。
そして、今もまさに、最も付き合いが長く気の置けない友人だっと思われる貴族の三男とも、ドゥアルテは激しい罵り合いを繰り広げていた。
(……ティオ君には、そんな気は更々ないんだろうな。ティオ君は、ただ淡々と自分の計画を進めて、兄さん以外のプレイヤーの懐を空にする事で、テーブルから追い出しているだけなんだ。……でも……)
チェレンチーの脳裏に、一時間程前に、このテーブルで資産の多くを失う程大敗して、地元に帰っていった地主の男の事が思い浮かんでいた。
元々、あの男は、賭博にのめり込み過ぎていた。
ティオがやって来た事で、短時間で大量の敗北の山を築く事になったが、そんな事がなくとも、いずれは財産のほとんど全てを失って破滅する未来が待っていたに違いない。
チェレンチーは、その『目利き』の能力で、地主の男の体に絡みつくような黒い影を見ていた。
しかし、その運命とも呼ぶべき状況が、ティオに関わった事で変わったのだ。
ティオに諭されて、これ以上勝負を続ける事を諦め、自分の地元に帰っていった男の姿からは、黒い影はすっかり消え去っていた。
(……ティオ君の周りでは、良くも悪くも、その人間の持つ『業』ともいうべきものが、強烈に顕在化するかのような気がする。……)
元々その人間が抱えていた問題や、いつか吹き出す筈だった人生の障害が、まるで時が加速するかのごとく、みるみるあらわになっていく。
「嵐の目のようだ」と、この『黄金の穴蔵』のオーナーはティオを称して言っていた。
ティオの周りには、目に見えない巨大な風が渦巻いているのかもしれない。
彼に近づいた人間は、知らず知らずの内に、その風に巻き込まれ、引っ張られ……
強風の中で、今まで自分を守るために身につけていたものを残さず剥がされて、丸裸の自分と向き合う事になる。
そして、その本来の自分の姿を目の当たりにした人間達は、その姿にふさわしい新たな未来を歩む事になるのだろう。
チェレンチーは、ティオに、亡き自分の父が持っていた不思議な引力のようなものを感じていた。
その人間の周りでは、ズンと体が重くなったような、空間が歪んでいるかのような、不思議な感覚を覚える。
もちろん、実際には、体が重くなる訳でも空間が歪んでいる訳でもない。
ただ、彼の周りでは、『普段は起こらないような大きな出来事が起こる』のである。
それがなぜかは分からないし、本人が望んでそんな事象を引き起こしている訳でもないのは、チェレンチーも察していた。
しかし、その性質は、亡き父よりもティオの方が、ずっと大きく強烈に感じられた。
それはまるで、「嵐の目」だ。
ただただ、ティオはそんな「嵐の目」のような性質を持つ人間である、としか言いようがない。
彼自身、稀有な頭脳と人並み外れた器用さを持ち合わせている天才ではあったが……
それだけでなく、不可思議な引力と恐ろしい程の強風を身に纏う存在なのだった。
彼と関わった人間は、みな、みるみるその人生が変わってゆく。
元々そうなるべき運命ならば、それは加速度的に早く訪れ、全く別の運命であったとしても、180度方向転換した道に変わる可能性もあった。
そんな、関わった人間の、運命を、人生を、未来を、大きく変えてしまうかもしれない存在。
それが、ティオであった。
そして、その影響の及ぶ範囲は、ひょっとしたら、彼の周りに居る一人二人ではないのかもしれない。
実際、ティオが編入した事で、傭兵団は大きく変わっていった。
あるいは、もっと大きな流れさえも、今も彼は意図せず変えてしまっているのかもしれなかった。
(……確かに、僕も、ティオ君と知り合った事で、人生が変わった。……いや……)
(……今もまさに、僕の運命は、めまぐるしい勢いで変わり続けている。……)
(……その最中なんだ。……)
チェレンチーは、自分の身に大きな決断の時が迫っているのを、ひりつくような感覚として察知していた。
それは、ティオと出会った事で思いがけず招かれた「嵐」であったかもしれないが……
今のチェレンチーには、その「嵐」の只中で、自分を見つめ直し、そして、新たな自分の人生を必死に掴み取ろうという強い意欲があった。
もう、ティオについて、こんな繁華街の奥底までやって来ているのだ。
どんな結末になろうとも、それが自分の本質であり、今まで自分の生きてきた結果であるとして、受け入れる決心がついていた。
チェレンチーは、目の前に吹き荒れる大嵐に、体をバラバラに砕かれて吹き飛ばされないように、しっかりと地面に両足をつけ、背筋を伸ばして立った。
そして、目の前で繰り広げられる勝負の行方を、自分の運命の先のあるものを、余さずジッと見つめようと、精一杯意識を集中していた。
読んで下さってありがとうございます。
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とても励みになります。
☆ひとくちメモ☆
「チェレンチー」
今は傭兵団で、作戦参謀のティオの元、「作戦参謀補佐」という役割で働いている。
実は、ナザール王国有数の大商会の当主が使用人に産ませた私生児であり、子供の頃から商人としての知識や技術を厳しく叩き込まれてきている。
傭兵団では、その能力を生かし、ティオを助けて事務方の仕事を引き受けている。




