過去との決別 #62
タラララッと、テーブルの上に置いたティオの手が、小指から順に人差し指まで流れるように動いて、天板を叩いていた。
それは、山から取ってきた牌を、他の四人に先んじて目の前の自分のスタンドに並べ終え、暇を持て余している、といった何気ない仕草に見え、誰も気に留める者は居なかったが……
チェレンチーは、しっかりと見逃さずに、そのサインを拾っていた。
(……『4』のサイン! テーブルの席順『4』は、ティオ君の番号だ! この一戦、ティオ君は勝つ気だ!……)
確かに、ティオはチェレンチーにはっきりそう言っていたし、実際、彼の手持ちの赤チップは、今はもうたったの2枚しかなかった。
ここで勝たなければ後がない状況だ。
この大局を決める一戦で、ティオが負けを選択する筈もない。
しかし、そうと分かってはいても、やはり、運命の大勝負の時が来た事を実感し、チェレンチーの胸は不安と緊張でドクドクと不穏に高鳴っていた。
10m程離れた場所で外ウマに賭けているボロツに送る「4」サインは「いつも通りの自然体での立ち姿」だったが、つい顔がこわばってしまっていた。
「これが、いわゆる『背水の陣』ってヤツですかねー。アハハー。」
「ハハ、参謀らしい事を言うじゃないか。じゃあ、さっそく、お手並み拝見といこうかな。」
「このマッチ、俺が最も大きな目数の牌を引いて、一番最初の順番になったのでしたよね。これはなかなか、縁起がいい。」
そう、ティオは、手牌を取り始める前の、順番決めの段階で、『6-6』の牌を引いて、ゲームのはじめに牌を切る権利を得ていた。
まあ、ティオが裏側からでも全ての牌を区別しているのは、先程チェレンチーもボロツと共にティオ本人から説明を受けて知っていた。
そんなティオの事なので、いくら裏返そうが混ぜようが、手先の器用さも相まって、さり気なく好きな牌を引いてくるぐらい造作もないのだろう。
「では、俺から……」
一番最初のプレイヤーは、手牌からなんでも好きな牌を切っていいルールである。
ティオも、目の前のスタンドに立てた五枚のドミノ牌のど真ん中の一枚を手に取り、タンとテーブルの中央に打った。
「『5-5』で、合計10になります。チップ2枚オール。」
ザワッと、ティオの初めの一手を見て、周囲に動揺が走った。
テーブルに着いている対戦者だけでなく、壇上で試合の様子をうかがっていたもう一人の貴族の男や、赤チップ卓のテーブル周りで、酒やつまみを運んだりチップの両替などを頼まれたりと、雑用を担当していた従業員の小柄な老人も、思わず動きを止めて目を見張る。
初手からいきなりボーナスチップ2枚という派手な展開に驚くのも無理はなかった。
チェレンチーは周りの人間の様子を見回したのと同時に、その時初めて、ずいぶんと赤チップ卓のテーブルがある壇上の周りに人が詰めかけている事に気づいた。
ティオ達一行が、店中の人間に酒を振舞って注目を浴びていた所に、赤チップ卓の客が彼らを呼んだ。
おそらく、騒ぎの中心でボロツに肩車をされているチェレンチーの姿を見たドゥアルテが言い出しのただと思われる。
そして、赤チップ卓のテーブルの元にやって来ると、ティオが、自分達は傭兵団の人間なのだと、自己紹介した。
この時に、既に、「なんだなんだ?」と、ティオが酒を奢った客達は、この場に注目していた。
そのまま残って様子を見ていた者や、これは面白いと外ウマに賭けだした者もあった。
どうやら、赤チップ卓に飛び入りで入る事自体珍しい上に、それが今日『黄金の穴蔵』に来たばかりの新人であり、かつ巷で噂の傭兵団の人間という事で、かなり興味を引いたらしい。
(……い、いつの間にこんなに人が?……)
久しぶりにドゥアルテが大勝している事や、新人のティオが入って、負けながらもワイワイと賑やかな雰囲気であった事……
また、ティオの、生まれながらに人の注目を浴びやすい性質にも起因していたのだろう。
そこに、赤チップ卓の常連である、材木問屋の男が大敗して早々に席を去り、代わりに席に着いた地方の大地主がまた大敗し、念書まで書いてチップを店側から借りるという大荒れの展開が繰り広げられた事で、ますます観客が増えたようだった。
チェレンチーは、緊張していた事と、ティオのサインや、ドミノゲームの展開に集中していたために、この時まで気づかなかった。
人が増えるという事は、それだけ、外ウマに乗る人間も増えるという事である。
そして、それは、外ウマに賭けているボロツの儲けが増える結果にも繋がる。
チェレンチーは、最初の一箱分のチップが切れて、最後の金をチップに替えに行った際、外ウマの席に居るボロツの所に寄ったが、あの時もかなり多かった人が、今見ると更に密集していた。
そして、ここまでのプレーを見て、負け続けの新人であるティオに賭ける人間は、まずおらず、ティオのサイン通り彼に賭けたボロツの一人勝ちの状況が既に出来上がっていた。
大波乱の戦況に熱狂している観客達は、この筋書きが、ティオによって前もって緻密に計算されたものだとは、誰も思っていなかっただろう。
「フフン! どうやら首の皮一枚で残ったみたいだね。……ほら、僕の分のチップ2枚だ。受け取りなよ。……これで、手持ちは合計8枚になったね。でも、2枚も8枚も、大して変わらないよ。吹き飛ぶのは、一瞬さ。一回のラッキーで勝った気になるのは早過ぎるって事を、赤チップ卓の先輩として、君に教えてあげないとね。」
ティオが、最初に切り出した『5-5』牌で合計10となり、他のプレイヤーからチップを2枚ずつ貰うという派手なスタートになったが……
貴族の三男も、ドゥアルテも、まだ特に危機感を持っていなかった。
向かいの席の地主の男だけは、ハアハアと息が荒く、盛んに汗を拭いていたが。
□
ところが……
「合計15で、チップ3枚オール。」
「おっと、今度は合計5で、チップ一枚ずつお願いします。」
ティオは、次々ボーナスチップを稼ぎながら、スルスルと手牌を切り出していき……
「ドミノ!」
他のプレイヤーが、手牌が切れずに山から引いたりパスをしたりともたついている内に、一人あっという間に上がっていた。
赤チップ卓のテーブルでも険悪なムードが漂ったが、それ以上に、ドワッと外ウマに賭けていた人々から失望のざわめきが上がっていた。
「うわっ! 何で今回に限って、アイツが勝つんだよ! ずっと負けてただろう?」
「俺は、ドゥアルテに賭けてたんだ! もっとしっかりしてくれよなぁ!」
中には、自分が賭けた負けプレイヤーに愚痴るような者も居て、ドゥアルテや貴族の三男は、不快そうな目で彼らを見下ろしていた。
「あまり調子に乗るなよ、小僧。」
「いやいや、ここぞとばかりに調子に乗らせてもらいますよ、ドゥアルテさん。さっき、チェレンチーさんから『運』を分けてもらったのが良かったのかもしれませんねぇ。やっぱり、チェレンチーさんは、俺にとって幸運を運んできてくれる存在のようです。」
「……チッ!……」
対戦者の三人から受け取ったチップであっという間に内容物が増えた箱を片手に、ティオはニコニコと全く悪気のなさそうな顔で、いらだちの目を向けるドゥアルテに返答していた。
ドゥアルテは、ジャッと自分の前に残った牌を手荒くテーブルの中央に押し出し、周囲にはっきりと聞こえるように舌打ちした。
「まだ、たった1戦しただけだ。1マッチは始まったばかりだからな。」
「そ、そそそ、そうだ、そうだ! ドゥアルテ殿の言う通りだぁ! さ、さあ、次、次! 早く次の勝負を!」
先程の一戦で20点近く負けた大地主は、ブルブル手先を震わせ声を上ずらせながらも、目だけはギョロギョロと動かして、テーブルの真ん中に集めたドミノ牌を夢中でジャラジャラ混ぜていた。
□
「ドミノ! 上がりました。」
「合計10でボーナスチップ2枚ずついただきます。」
「合計5、チップ1枚オール。」
「失礼、お先に上がらせてもらいます。ドミノ!」
ティオは、その後も、1マッチ、2マッチ、3マッチと、淡々と勝ちを積み重ねていった。
途中、ドゥアルテや貴族の男が勝つ事もあったが、1マッチ終えると、ボーナスチップを含めた合計点では、必ずティオがトップになっていた。
まだ先程の勝ち分が残っているドゥアルテは、不機嫌そうではあったが、依然として平気な顔をしていた。
また、大分目減りはしたが、まだトータルではプラスを維持している貴族の三男は、ティオの連勝の流れに少し顔をこわばらせながらも、余裕のある態度を気取っていた。
しかし、問題は、地方からわざわざドミノ賭博のために王都に出てきている地主の男だった。
彼は、この3マッチの間に、先程上限いっぱいまで店から借り出したチップの大半を失ってしまっていた。
チェレンチーはこの展開をなんとなく予想していたが、男の酷い焦燥ぶりは、見ているだけでこちらまで胸が潰れそうな気分になった。
あれ程たっぷりと赤チップが詰まっていた木箱には、もう十数枚しか残っていない。
その残ったわずかなチップをブルブル震える指で必死に何度も数えては、過呼吸になりそうな息づかいで、ギョロギョロまなこを動かしていた。
「……つ、次! 次のマッチだ! みんな、早く始めよう!」
テーブルの上に身を乗り出して、ティオをはじめとする同卓のプレイヤー達の顔を一人一人見つめながら、訴えるように急かしてきた。
曲がりなりにも笑顔を形作ってはいるが、血走った目は焦点が合っておらず、明らかに正気を失っている様子だった。
人間、自分の想像を超えた幸運が舞い込むと、地に足がつかなくなって浮かれはしゃぐものだが、逆に、予想より遥かに悪い状況に陥ると、また別の意味で浮き足立つものなのだと、チェレンチーは知った。
麻薬などの常習者は、時に悲惨な悪夢の幻覚を見て悶え苦しむと聞くが、目の前の地主の男は、まさにそんな状況だった。
しかし、それを止める者は、ここには誰も居ない。
彼を案じて声を掛ける人間など、居る筈もない。
むしろ、正常な判断を完全に失った状態の彼をドミノゲームで負かして限界まで金を吐き出さようと、同卓のプレイヤー達は狙いを定めている。
賭博場『黄金の穴蔵』側も、念書を書かせて金を貸しつけ、これを機に彼の資産を巻き上げようと画策している有様だった。
改めて、ここが歓楽街の闇の底なのだと、チェレンチーは実感していた。
金に勝負、女に酒……人間の原始的な欲望が剥き出しになって吐き出され、昼間は上等な服を着て気取って大通りを歩いている者も、ここではただの魑魅魍魎と化して、自分の飢えを満たすために、他人のはらわたを食い千切る隙を狙っている。
けれど、チェレンチーは、地主の男を憐れとは思わなかった。
なぜなら、彼は、この状況に陥る前に、いくらでもこの場から去る機会があった筈なのだから。
そう、彼もまた、この歓楽街の闇に巣食う魑魅魍魎の一匹であり、自分がそうなる事を望んでここに居た。
運悪く、自分よりももっと強い化け物に喰らわれる立場になっただけで、状況が違えば、彼もまた、自分より弱い獲物を喜んで喰らい貪っていた事だろう。
彼の現在の有様は、弱肉強食の定めに身を置く事を決めた者にもたらされた当然の末路であり、完全な自業自得であった。
「ようし、じゃあ、次のマッチを始めるか。」
「そうだね。どんどん行こうか。ねえ、傭兵団の参謀君?」
「ええ。」
ドゥアルテは、我関せずといった様子でドミノ牌を混ぜ始め、貴族の三男も素知らぬ顔で手を動かし出した。
ティオの瞳は、確かに、分厚い眼鏡のレンズ越しに、向かいの席の地主の男を見つめていた。
けれど、その目に全く動揺は感じられなかった。
人気のない深い森の奥に密かに存在する波一つない湖面のように静まり返り、彼の感情の動きを読む事はかなわなかった。
チェレンチーは、ティオが肝の座った人間だという事を良く知っていた。
そして、腹を括った彼が、非情に徹するだろう事も予想がついた。
そう、ティオもまた、傭兵団の資金を稼ぐために、今は、この歓楽街の闇に自らの意思で身を沈める亡者の一人なのだ。
「フフ。しかし、1マッチの途中でチップが足りなくなったらどうするんだい? さっき店から、もう借りられるだけ借りてしまったんだろう?」
「ハ、ハハッ! だ、大丈夫だとも! ああ、そうだそうだ、私は大丈夫だ! か、金なら、まだいくらでもあるんだ! まだ、担保に出来る土地はある! 足りなくなったら、また借りるだけの事だよ! ハハッ! ウヒ、ウヒヒヒッ!」
「ふうん、そうかい。なら、いいけどね。」
地主の男が、陸に上がった魚のごとく口をパクパクさせながら上ずった声で喋るのを、貴族の三男は、少し不快そうに眉をしかめながらも、サラリと流した。
「じゃあ、始めよう。今度は僕からだね。フフ。」
そうして、何事もなかったかのように、いつもの気取った仕草で、スタッと自分の牌をテーブルの中央に切り出していった。
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☆ひとくちメモ☆
「サイン」
ティオは『黄金の穴蔵』に来る前に、チェレンチーとボロツにサインを出す事を伝えていた。
ティオのサインをすぐ後ろに立ったチェレンチーが読み取り、続いて、遠くに居るボロツにも分かるようにそのサインを繋ぐ。
サインが示すのは「1、2、3、4」の四つの数字で、そのサインの数字に従ってボロツは外ウマに賭けるという体制だった。




