過去との決別 #61
「寒いですか、チェレンチーさん?」
ドゥアルテに怯えて下を向いているチェレンチーの顔を、ティオがひょこっとのぞき込んできた。
繋いでいた手をこすって、心配そうに言う。
「指先が冷たいですね。顔色も良くない。」
「もうすっかり深夜ですからね。疲れている所を、こんな時間まで連れ回してしまって、すみません。」
「い、いや、僕は自分で望んでここに来たんだ。ティオ君が謝る事なんて何もないよ。」
「あ、そうだ! 俺の上着を貸しましょう!」
そう言うと、さっそく席から立ち上がり、裾の長い黒い上着の比翼仕立ての中に隠れるように並んでいたボタンを次々外し出したティオを前に、チェレンチーは驚いて、体の前で両手を盛んに横に振った。
「い、いいよいいよ! 僕なんかが着たら、裾を引きずって汚してしまうよ! それに、僕が上着を借りてしまったら、ティオ君が寒いだろう?」
「俺は大丈夫です。汚れたって平気ですから、着ていて下さい。」
酷く遠慮するチェレンチーに構わず、ティオはあっさりと黒の上着を脱いで、バサリとチェレンチー肩に掛けてきた。
元々丈が長い上に長身のティオに合わせたデザインの上着は、チェレンチーが袖を通すと、手の先しか袖口から出ない上に、案の定、思い切り裾を引きずる格好になった。
それでも、しっかりとした作りの上着に包まれると、先程まで着ていたティオの体温と共に、じんわりと暖かさが体に染みてくる。
ティオは、チェエレンチーに着せた上着の前のボタンを留めをながら、少し顔を近づけて、同じテーブルに着いているドゥアルテをはじめとした者達には聞こえないように、小声で囁きかけてきた。
「……チェレンチーさんには、心配をかけてしまったようですね。本当にすみません。それに、あんなお兄さんがそばに居ては、ストレスもさぞ溜まるでしょう。……」
「……大丈夫ですよ。今までは、外ウマで儲けるために、俺の下馬評が下がるまでわざと負けていましたが、もう充分です。仕込みの時間は終わりました。ここからは、勝ちにいきますから、安心して見ていて下さい。……」
「……俺は勝ちます。必ず。……」
真っ直ぐにチェレンチーの目を見てそう言ったティオの声は、穏やかで静かな声色だったが、同時に、その奥に、揺るぎない確かな自信を秘めていた。
ティオの、深い森を連想させる美しい翡翠色の瞳が、チェレンチーの姿を映しこんで、包み込むように優しく微笑んでいた。
(……ティオ君……僕が兄さんの前で動揺しているのに気づいて、励ましてくれたんだね。……)
(……ありがとう……ありがとう、ティオ君。……君の、その優しさが、僕は何よりも嬉しいよ。……)
チェレンチーは、思わず目頭に熱くこみ上げてくる涙をこらえ、ぎこちなくもなんとか笑顔を作って、小さくうなずいた。
それを見て、ティオも少し安堵した様子で、無言でポンポンと、黒い上着を着たチェレンチーの腕を軽く叩くと……
ゆっくりと前に向き直り、再び赤チップ卓のテーブルの椅子に腰を下ろして、しっかりと深く腰掛けた。
□
「おや。」
ティオが上着を脱いでチェレンチーに貸したのち、テーブルの席に戻ると、右隣の貴族の三男が、目を見開いて彼を見た。
「君、若いとは思っていたけれど、歳は幾つなんだい?」
「十八になったばかりです。」
「二十にもいっていなかったのか! 背が高いからもう少し年上に見えていたけれど、そうしていると、まだ少年の雰囲気が残っているね。」
白で揃えた衣装に水色のマントを羽織る貴族の三男は、いろいろとおしゃれにはこだわりがあるようで、テーブルを囲む客の中では一番の審美眼を持っているらしかった。
唯一彼だけが、ティオの服装に目を留めていた。
(……確かに、黒い上着を脱ぐと、ティオ君の印象は、また、ガラッと変わるなぁ。……)
ティオは普段、紺色のマントを、その長身をすっぽりと包み隠すようにずっと身につけている。
一番外側にある衣服であり、寝る時させも脱がずにそのまま四六時中装着しているせいもあって、充分に丈夫な布地であるにも関わらず、マントはすっかり色あせ、引きずるぐらい長い裾はギザギザになってほつれていた。
そのあまりの痛み具合から、まるでボロ布を巻きつけているように見え、ティオの伸ばしっぱなしのボサボサの黒髪や、傷だらけのレンズがはまった眼鏡も相まって、パッと見、浮浪者に間違われても不思議のないみすぼらしい印象になってしまっていた。
しかし、その色あせた紺色のマントを脱いで、共布で出来た黒い上下の衣服になったティオからは、全く違う印象を受けた。
均整の取れた肉体に沿って作られたややタイトなデザインの裾の長い上着は、長身のティオに良く似合い、彼の持つ精悍な雰囲気を引き立てていた。
比翼仕立てでボタンが隠れるスッキリとした仕様は、自分の心を簡単には他人に見せないどこか秘密めいたティオの性格と相まって、少し近寄りがたい気配さえも漂っていた。
ティオの冷静で理知的な一面を際立たせている服装だと、チェレンチーは思った。
そして、その黒い上着を脱いだ今……
ティオが着ているのは、衿つきの白いシャツだった。
こちらも、デザインはごくシンプルだが、おそらく、他の衣装と同様に、彼の体に合わせて仕立てられたものだろう。
見た目も悪くないものの、より丈夫さに重きを置いた生地が選ばれているという傾向も同じだった。
スッキリとしたムダのない白いシャツも、適度な肩幅と胸板があり、均整の取れた体つきのティオが着ると、機能美以上に映えていた。
そして、そんな癖のない白い衣服の中で、一点だけ、とても特徴的で目を引く要素があった。
それは、衿つきのシャツの首元に結ばれた、鮮やかな群青色のリボンタイだった。
ティオの服は、ほとんどが機能性と丈夫さを重視した簡素な布地で作られていたが、そのタイだけは、特徴的な光沢からはっきりと絹だと分かった。
自分の身を着飾る事に全く興味のなさそうなティオが、なぜそんなリボンタイをつけているのかは、チェレンチーには知り得なかったが。
ひょっとしたら、何か、強いこだわりや思い入れがあるのかもしれない、とチラと思った。
その美しい群青色のリボンタイは、意外にもティオに良く似合っていた。
白いシャツの清潔感と共に、ティオの中の瑞々しい青年としての魅力を引き出している。
ティオが、それまでわざと作っていたおどけた仕草や、頭が悪そうに見える能天気な笑みを止めると、途端に、澄んだ水のような清々しい気配が彼の周りに漂いはじめる。
白いシャツと鮮やかな群青色のリボンタイに象徴される、青年らしい若々しさの中にも凛とした清涼な印象が鮮烈だった。
まさに、それが、彼の本質なのだと思い知らされた気持ちにチェレンチーはなっていた。
(……うん。やっぱりティオ君は、とても綺麗な人だ。きっと彼の心が、生き方が、こんな彼の独特な気配を作っているんだろうな。……)
(……さっき上着を貸してくれた時も、凄く優しくて、凄くカッコ良かった!……)
(……僕が女性だったら、絶対参ってると思うんだけど……なぜか、サラ団長はティオ君の魅力に全然気づいてないみたいなんだよねぇ。不思議だなぁ。……いや、そうでもないのかな? サラ団長は、やけにティオ君に辛辣ではあるけれど、一方で、傭兵団員の中で一番ティオ君と距離が違い感じもする。ひょっとしたら、無意識下でティオ君に惹かれているのかもしれないなぁ。まあ、サラ団長の事だから、一般的な恋愛のような感覚からは、まだ程遠いんだろうけれど。……)
チェレンチーが、白いシャツにリボンタイ姿のティオにこっそり見惚れている一方で……
貴族の三男も少し身を乗り出して、ためつすがめつ、品定めするようにティオを見つめていた。
「君、傭兵団の参謀君。良く見ると、平民の割には綺麗な顔をしているね。まあ、僕程ではないけれどね。……ふうん、磨けばかなり光るんじゃないのかい?」
「ハハ、そんな事ないですよ。俺なんて全然です。」
「まあ、それ以前にね、まずその若さでこんな所にあまり出入りしない方がいいよ。若い時から賭博場に入り浸っていると、ろくな人間にならないからね。……ほら、そこにいい見本が居るだろう? 彼は、十代も半ばからこの界隈で遊びまわっていたのだってさ。」
貴族の男は、頬杖をついたまま、視線で向かいの席のドゥアルテを指し、ドゥアルテにギロリと睨まれては、大袈裟に首をすくめていた。
貴族という身分の高さもあるのだろうが、男は、ドゥアルテと対等に口をきく唯一の人物であり、今までのやり取りからも、ドゥアルテとの親交の長さが感じられた。
そんな、相変わらず上から目線で、賭博に明け暮れている自分を棚に上げて説教を垂れた貴族の三男だったが……
その発言に、ティオへの心配のような感情が混じっている事に気づいて、チェレンチーは目を見開いていた。
ほんの数十分前は、王国正規兵団の元部隊長として、毛嫌いしていた傭兵団の作戦参謀だというティオとケンケンガクガクのやりとりを繰り広げていたとはとても思えない態度の変わりようだった。
確かに、最初は、このテーブルに座るために、わざとティオが嫌味な返しをしていた所はあったのだが。
しばらく、このテーブルでプレーをしながら、あれこれと話をする内に、自然とティオへの嫌悪や怒りが薄れていき、代わりに好感度が上がっていたらしかった。
(……うわっ! ティオ君の人たらしの性質は、こんな相手にまで効くものなのかぁ!……)
チェレンチーは改めて、スルリと人の心に入り込み、いつの間にか好かれているティオの性分を目の当たりにし、感心を通り越して、もはや呆然としていた。
□
しばらくして、ようやく、地主の男が赤チップ卓のテーブルに帰ってきた。
男は、顔中にビッシリとかいた脂汗とも冷や汗ともつかないものを、絹のハンカチで仕切りにぬぐいながら、同卓の三人にぎこちない苦笑を浮かべて弁明してきた。
「い、いやはや、たかがチップを借りるのに、念書を書かされてしまったよ。」
「念書? へえ、どんな内容なんだい?」
「借りたチップを近日中に返せなかった場合、私の持っている土地の一部を譲渡するという内容だよ。……いやはや、こんな事は今までなかったので、驚いた。まるで私が返済を滞らせる可能性があるとでも言いたげな様子で、腹が立ったよ。なんて失礼な従業員どもだろう。私は、この店の客だぞ。しかも、最上顧客だというのに!……ま、まあ、その代わり、借りられるチップの限度額いっぱいまで貸し出させたがね。」
貴族の三男は、一応尋ねたものの、さして興味はなさそうで、「ふうん」言って流し、ドゥアルテに至っては、腕組みをして椅子に踏ん反り返ったまま口を一文字に引き結んでいた。
(……な、なんだ?……)
チェレンチーは、薄くなった頭髪を必死に誤魔化しているせいで妙な髪型になってしまっている中年の男の姿を、ジッと見つめて、ゴシゴシと目を擦った。
(……なんだか、あの人の周りだけ、やけに暗く見える。……まるで、天井のシャンデリアの光がそこだけ当たっていないかのようだ。……)
チェエレンチーの目には、その男の姿が、酷くくすんで見えていた。
煤を思わせる黒い闇が、脂肪で緩んだその男の体にまとわりつくように周囲に漂っている。
(……!!……)
その時、ほんの一瞬、チェレンチーの脳裏に、見覚えのない光景が鮮明に広がった。
それは……
目の前の地主の男が、背中を丸めてトボトボと歩いていく後ろ姿だった。
彼の周りには人気がまるでなく、辺りは枯れた木々と草ばかりの荒涼たる土地だった。
その中を、グルグルと蛇のようにうねりながら、ゴツゴツとした石の転がる荒れた細い道が、どこかへと続いている。
その道を、力ない足取りで進む男は、すっかり憔悴しきった様子だった。
顔は土気色で、頰はこけ、落ちくぼんだ目はよどんで生気が感じられず、まるで別人だった。
夕暮れの終わりとも、明けない夜ともつかない、暗く寂しい荒野の道を、男は一人、足を引きずるように歩き続けていた。
(……いけない! あの人は、このままだと、たぶん破産する!……)
直感的に、チェレンチーは悟った。
おそらくこの『黄金の穴蔵』のチップを貸し出す担当の人物は、男が借金を返せない可能性が高いと踏んで、わざわざ念書を書かせたのだ。
男に金がなくなっても、賭博場側は儲けを確保出来るように、担保をしっかりと取っておいたのだろう。
しかし、当の本人の地主は、自分が崖の突端に居るなどとは夢にも思っていない様子で、借りてきたチップの山を前に、目をギラギラと怪しく光らせていた。
まるで、悪い酒に酔っているかのようでもあった。
「さ、さあ、早く始めようじゃないか! このチップを賭けて、どんどん勝つぞ! 今までの負け分など、あっという間に吹き飛ばしてみせるぞ!」
そもそも、チェレンチーには、面識のない彼を止める気は更々なかったが……
たとえ止めた所で、男はそんな忠告を聞き入れる耳を持っていなかっただろう。
(……もう、遅い……何もかもが……そんな気がする……)
既に、男が引き返せる時は過ぎてしまっている気がチェレンチーにはしていた。
後は、もう、決まった運命を辿るごとく、真っ逆さまにどこまでも落ちていくばかりだ。
テーブルの上では、地主の男が戻って四人揃った事によって、もう、次の一戦に向けて、裏返したドミノ牌がジャラジャラと混ぜられ始めていた。
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☆ひとくちメモ☆
「ティオの上着」
黒く染められた丈夫な生地で作られている。
高めの襟があり、体の前面のボタンの並びは、比翼仕立てのため一番上の一つしか見えない。
タイトな作りでくるぶしに届く程丈が長いが、左右と真後ろにスリットを入れ足さばきに困らないようデザインされている。




