過去との決別 #52
「確かに、王都一の、あるいはこのナザール王国一の賭博場と言っていい『黄金の穴蔵』の中でも、『赤チップ卓』は特別なテーブルです。」
ティオは、黒い上着の長い裾をひらめかせ、ボロツとチェレンチーの前に立って歩きながら語った。
「レートは最高レートの、1点が赤チップ1枚。現金換算で赤チップ一枚は銀貨一枚ですから、1マッチで多い時は200点、つまり銀貨二百枚、金貨にすると金貨二十枚という大金が飛び交う勝負になります。ですから、この『黄金の穴蔵』でもたった一卓だけしかありません。また、ゲームに参加しない観戦者も、外ウマに賭けられる唯一の卓でもあります。」
「しかし、そういった店側によって作られた決まり以上に、長い年月の内に自然と定着した『しきたり』のようなものがあります。」
「あの『赤チップ卓』に着ける人間は、選ばれた者だけなのです。」
「その条件は……まず第一に『長年この店に通い詰めている常連』である事、第二に『赤チップ卓の高レートで遊べるだけの大金の持ち主』である事です。」
「要するに、彼らはこの店にとって最上位の顧客なのです。今までの実績から店側の信頼が最も厚い人間達と言ってもいいでしょう。……この『黄金の穴蔵』では、基本的に現金と交換でチップを受け取りますが、彼らは、頼めば店からチップを借りる事が出来ます。まあ、上限はありますけれど。それもこれも、必ず後で同等の金銭を回収出来るという保証があるからです。」
ティオは、先程ヤギのミルクを買ったカウンターにやって来ると、チップの入った木箱をその上に置いて、クルリと、ボロツとチェレンチーの二人を振り返った。
「さて、そんな特別な『赤チップ卓』ですから、ボロツさんがさっき言っていたように、今日初めてこの『黄金の穴蔵』に来たばかりの俺達は、いくら大勝していようとも、あのテーブルに着く事は出来ません。」
「ただし、例外というのはどこにでもあるものです。……そう、一見の客があの『赤チップ卓』でプレーする事も、ごく稀にあるのですよ。それは、どんな時かと言うと……」
「『赤チップ卓』でいつもプレーしている常連客に、『一緒に遊ばないか?』と誘われた場合です。……つまり、『赤チップ卓』の常連客と親しい者、主に友人ですね、そういった人間なら、『赤チップ卓』で遊ぶ事が可能なんです。」
「じゃあ、ますます俺達には望みがねぇじゃねぇかよ。あんなとこで大金を賭けてる人間に、知り合いなんか居ねぇんだからよ。」
と言うボロツの言葉を予想していたように、ティオは形の良い唇の片端を上げて、少し皮肉めいた笑みを浮かべた。
「それが、あるんですよねぇ。俺達には、とっておきの『切り札』が。」
「今から、その『切り札』を使って、あの『赤チップ卓』に呼んでもらう予定です。……さあ、行きますよ!」
「では……」と、ティオは、カウンターの内側に居る、先程三人にヤギのミルクを提供してくれた若い女性にズイッと、チップを箱ごと押しやった。
「すみませーん! このチップを全部、ここにある酒に変えてもらえますかー。」
「そして、この店に居る皆さんに振舞って下さいー。俺達の奢りですー。あ、良かったら従業員の方達もお好きなものを飲んで下さいねー。」
儲けた客が機嫌を良くして店の従業員に酒を奢るというのはままある事らしかったが、それにしても、この店に居る客全員に加えて従業員全員にまでも奢るというのは、前例のない大盤振る舞いだった。
しかも、それを言ってきたのは、今日初めて店に来た客であり、後ろに二十代半ば程の同伴者が控えているとはいえ、まだ二十歳にも達していない若者だった。
エンジの制服を着た女性は、戸惑ったようにティオに確認してきた。
「い、いいんですか、本当に?」
「ええ! 俺達、今日は物凄くついてるんですよー! まあ、ちょっとした、おすそ分けってヤツですー。」
ニコニコと能天気な笑みを浮かべているティオを、女性は心配そうな顔で見ていたが、客の要望を聞くのが従業員の役割のため、やがて、「分かりました」言ってコクリとうなずいた。
すぐさま、周りの手の空いている従業員を呼び集め、皆で手分けして店中の客に酒を配り出す。
「ちょ、ちょちょちょちょちょちょ、ちょっと待ってぇ、ティオ君ー!」
「ティ、ティオ、お前、バッカ、正気か、ゴラァ!」
それまで、突拍子もないティオの行動を目の前にカチーンと固まっていたボロツとチェレンチーだったが、ハッと我に返って、二人がかりでワシッとティオの肩を掴んでいた。
「お、お金、お金ぇ! さっきまであんなに一生懸命稼いでたのにぃ!って言うか、それ、元々傭兵団の運営資金でぇ!」
「何やってんだ、ティオ、テメェ、このスカタン野郎! なんでこんな知りもしないヤツらのために、景気良く大金を使っちまうんだよ、オメェはぁ!」
しかしティオは、二人を振り返るとケロッとした顔で言い切った。
「だーいじょうぶですってー。今使った分なんか目じゃないぐらい、これから稼いでみせますからー。……それに、さっき言ったじゃないですかー。白チップ卓までの儲けは、初めから勘定に入れてないってー。あぶく銭はあぶく銭らしく、パーッと派手に使わなくっちゃいけませんよー。」
「後、ちゃんと金は残してあるでしょうー? 俺とボロツさん、それぞれまだ現金を持ってるじゃないですかー。」
確かに、この『黄金の穴蔵』に来る時、ティオは王国軍部から支給された傭兵団用の資金の全額を、ほぼ均等に三つの袋に分け、その一つを自分の懐に入れて持ち、残り二つをボロツに持つように頼んでいた。
ボロツは、周囲に大金を持っている事を知られないように、普段は着ないマントを羽織り、その下に隠した状態で、腰のベルトに紐を通して体の左右に袋を提げていた。
その内の一つは、ティオがドミノ賭博をするために、この店に来てすぐ、全てチップに交換してしまっていたが。
そして、今そのチップを含め、ゲームに勝ち続けて増えた分も全て、驕りとして店中の人間に酒を振舞って使ってしまったのだった。
「あ! ボロツさんは酒を飲んじゃダメですよー! 羨ましがっても一滴も飲ませませんよー!」
「そういう事で、怒ってんじゃねぇんだっつーの!」
「まあまあ。これは、必要経費ってヤツなんですってばー。『赤チップ卓』への通行料みたいなものだと思って下さいよー。」
□
と、さっそく従業員から酒を受け取ったらしい近くの白チップ卓のテーブルの客が、ジョッキを高く掲げてこちらに声を掛けてきた。
「奢ってくれたのは君達か。ありがたくご馳走になるよ!」
「今夜はずいぶんついているようだな。この酒でこちらにもツキを分けてもらうとしよう!」
洒落たスタイルでヒゲを整えた紳士達が、気前のいい新参の若者達を讃えたのを皮切りに、次々と酒を受け取った客が興奮した声を上げる。
「みんなで乾杯といこうじゃないか! 今日はいい夜になりそうだ!」
「彼らの幸運に、そして俺達のこれからの幸運にも乾杯だ!」
「乾杯!」
振舞われた酒に盛り上がる者の中には、ティオが初めに座ったテーブルの大工の男の姿もあった。
椅子から立ち上がって、「おーい、眼鏡の兄ちゃーん!」とブンブンと手を振ってくる。
同卓した者達も、「よ! 大将!」「今夜はお前が一番だ!」「美味い酒をありがとうよ!」と、笑顔で呼びかけてきた。
「ホッホーッ! 私も負けんぞー!」と、白チップ卓でティオをテーブルに招き入れた行商の男も、ちゃっかりと高いワインの入ったゴブレットを揺すって上機嫌でこちらに笑顔を向けている。
「いただきます、お客様!」「ありがとうございます!」と、従業員達もジョッキを片手に頭を下げる。
「いえいえー! 皆さん、ここにあるチップがなくなるまで、どうぞ好きなだけ飲んで下さいねー!」
ティオは相変わらず能天気な笑顔で、ヒラヒラと手を振って愛想を振りまいていた。
いつの間にか、賭博場全体が、興奮の渦に包まれていた。
普段はドミノに夢中になっている客達も、天から降って湧いたような酒に舌鼓を打ち、気前のいい新参の若者達について感謝や羨望の気持ちを口々に語り合っていた。
そんな、先程まで稼いでいたチップが全て酒に変わり、客や従業員の胃袋に景気良く流し込まれていく様を見て、ボロツとチェレンチーは、もはや、なすすべもなく呆然と立ち尽くしていた。
(……そ、それにしても、あれだけ勝っておきながら、誰もティオ君に敵意を抱いていない。す、凄いなぁ。……)
「その運、俺にもよこせ!」と、ティオの強運を羨む者も、「ついてるのは今だけだぞ!」と、からかう者も居たが、皆一様に笑顔で、奢られた酒を口に運んでいた。
酒を奢ってもらっているという立場もあったが、それ以上に、ティオがこの賭博場に来てからこれまで、対戦者に気を遣って、こちらに強い負の感情が向かないように巧みに勝ち続けてきた成果が出ていた。
「盛り上がってきましたね!……さあ、いい頃合いです。チェレンチーさん、ボロツさんに肩車してもらって下さい。」
「ええっ!? ぼ、僕が、ボロツさんに、か、肩車?」
「ハッ! ティオ、どうせお前の事だから、また何か企んでやがるんだろう?……まあ、いいぜ! 乗ってやるよ! 今夜はお前に雇われてる身だからなぁ!……ほうら、よっと!」
思いがけないティオの指示に驚き戸惑うばかりのチェレンチーを尻目に、ボロツは「何か」は分からないまでもティオに思惑がある事を察したようだった。
さっそく、チェレンチーをひょいと持ち上げる。
混乱していたチェレンチーは、逃げる間もなくボロツに捕まって、あっという間に彼の巨体の上に担ぎ上げられていた。
「あ、あああ、あうぅ!」
「チェレンチーさん、笑顔笑顔ー! 皆さんに思いっきり手を振って下さいー! ボロツさんは、チェレンチーさんが良く見えるようにグルッと回って下さいー!」
「ようし、任せろ!……そうりゃあー! はあぁぁー!!」
「う、うわああぁぁー!!」
チェレンチーはティオの要望通り必死に笑顔を作って手を振ろうとしたが、ボロツが勢いをつけてグルグル回したせいで、目まで回す羽目になった。
ヘロヘロになりながらも、引きつった笑顔でフラフラと力なく手を振るチェレンチーを見て、「いいぞいいぞー!」「もっとやれー!」と、奢られた酒を片手に、客達はゲラゲラ楽しげに笑い転げていた。
□
と、その時だった。
エンジの制服を着た、小柄で白髪の、この賭博場には珍しいかなりの年配の男性従業員が、ススッとティオに近寄ってきて囁いた。
「お客様、あちらのお客様達が、ぜひ貴方様方とお話がしたいとの事です。」
腰の低い丁寧な態度で、老人は、店の奥の一段高くなり赤い絨毯の敷かれた場所を手の平で指し示すと、また、ススッと影のように去っていった。
ティオは、老人の、腰の曲がった小さな後ろ姿をしばらく見送った後、示された店の奥に視線を移す。
そこには、この店中を席巻した騒ぎを冷めた目で見下ろしている五人の客の姿があった。
皆、思い思いに贅と意匠を凝らした衣服に身を包み、腕組みをしたり、椅子に足を組んで座ったりと、まるでここは自分の庭だと言わんばかりの堂々たる態度だった。
そんな、赤チップ卓のテーブルでドミノゲームに興じる、この店の最上顧客の中には、当然、ドゥアルテ家現当主の姿もあった。
ティオは、フッと不敵に唇の端を上げて、笑った。
「……よし、釣れた!……」
誰にも聞こえないような小さな声でそうつぶやくと、ティオはヒラリと黒衣の裾を翻し、まだ肩車をしてグルグル回り続けていたチェレンチーとボロツを振り返った。
パタパタとコミカルな動作で両腕を振って、二人を止める。
「もういいですよー、ボロツさん、チェレンチーさん!」
「……ふ、ふああぁぁ、世界が回ってるよぅ。……」
「すみませんでしたね、チェレンチーさん、見世物にしてしまって。……でも、おかげで、目論見通り敵が食いついてきたましたよ。」
「……え?……な、何? 何があったの?」
「赤チップ卓の客に呼ばれたんです。行きましょう。」
ボロツの肩から降ろされ床に足をつけてもまだフラついているチェレンチーの背中をそっと支え、ティオは、真っ直ぐに前を向いて歩き始めていた。
「ここからが、本当の勝負です。」
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☆ひとくちメモ☆
「チップ制度」
ナザール王都の城下町にある賭博場『黄金の穴蔵』で遊ぶためには、現金をチップに替える必要がある。
ドミノ賭博での勝敗の結果はチップのやり取りで清算される他、店内の飲食やサービスも全てチップで払う制度になっている。
なお、チップから現金に戻す際は、手数料として20%差し引かれる。




