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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第二節>城下の青空
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過去との決別 #29


「これで良し、と。」


 ティオは丸眼鏡の分厚いレンズを、羽織っていたマントの生地で無造作にゴシゴシと拭くと、何事もなかったように顔に掛け戻していた。

 そして、視線を前に向け……ようやく、チェレンチーがあんぐりと口を開けたまま石のごとく固まっている事に気づいた。


「ど、どうしました? チェレンチーさん?」

「……ティ……ティティ、ティティティ、ティオ君んー!!」

「は、はい?」

「な、なんで、君は、眼鏡なんて掛けてるの? 断然外した方がいいよ! 絶対外した方がいい!」


 からくり人形よろしくカクカクと動き出し、いきなり猛然と迫ってきたチェレンチーを前に、ティオは、「ええ?」と発して、驚きつつもキョトンとしていた。


「もったいない! ああ、なんて宝の持ち腐れをしているんだろう! 僕は、商家で働いていたせいか、こういうのは気になってしょうがないんだよ! 本来の価値を落とすような事をするなんて、本当にもったいない!」


「せっかくそんなに綺麗な顔をしているのに、その伸びた髪と眼鏡で台無しじゃないか! 眼鏡は絶対外した方がいいし、ついでに髪もサッパリと短く切った方がいいよ!」


 チェレンチーはつい夢中になってティオに食ってかかったが、ティオは終始困り顔で首をかしげていた。

 やがて、ティオは、ボサボサの髪をボリボリと掻きむしりながら、申し訳なさそうに言った。


「……すみません。でも、俺、この眼鏡がないと、凄い困るんですよね。」

「……あ!……そ、そうなんだね。ゴ、ゴメン!」

「いえいえ。……ああ、後、髪の方は……その、ハサミが怖くて、なかなか切れないん、です。……」


 チェレンチーは、ティオのしゅんと肩を落とした姿を見て、ようやくハッと我に返っていた。

 あまりに驚き興奮して、つい自分の理想をティオに押しつけようとした事を、すぐに後悔した。


(……そ、そうだよ。わざわざ眼鏡を掛けている理由なんて、目が悪いから以外にないじゃないか。あのレンズの分厚さから言って、ティオ君は相当目が悪いんだろう。それを、見た目の問題だけで「外した方がいい!」なんて言ってしまった。ダメだな、僕は。……)


 それにしても、懐に余裕があるのなら、傷のついていないもっとデザインのいい新しい眼鏡を買うなどした方が良いとは内心思ったが。


「えっと、ティオ君が髪を伸ばしていたのって……なかなか切れないせいだったのかい?」

「はい。自分でも鬱陶しいとは思っているんです。……なので、たまに我慢出来なくなった時は、火をつけて燃やしてます。ヤスリで引き千切ったりもしてますけど、火で燃やした方が早く済むので、大体火で燃やしてますね。」

「ええ!? ひ、火? じ、自分の髪の毛に火をつけてるの? 危な過ぎるよ、それは! そのせいで、そんなあちこち跳ねた状態になっちゃってるんだね?……とと、とにかく、危ないから火はやめた方がいいよ!」

「俺にとっては、ハサミを頭に近づける方が、何倍も危ないんです。」


 チェレンチーにはクラクラする程非常識な行動だったが、ティオは至って真剣な顔でそう言っていた。



「お兄ちゃん! ズルイよー! 僕にも食べさせてよー!」

「ハハハハハ! お前はちっちゃいんだから、一口で十分だろー!」


  と、先程通り過ぎていった子供達が、再び川沿いの石畳の道を走って戻ってきた。

 先程ティオとチェレンチーも買って食べていた川魚を焼いて大きな葉に包んだものを、兄と思われる先をゆく少年が手に持っている。

 どうやら二人で一つ買って分けて食べるように小遣いでも貰ったのだろう。

 体の大きな兄の方が、当然足は早く、必死に追いかけてくる弟を引き離し、余裕を見せて後ろを振り向きながら走っていた。

 ろくに前を見ていなかったせいで、進行方向真ん前にいたチェレンチーに気づかず、ドッとぶつかって「わあ!」と声を上げる。

 少年の手から、木の葉に包まれた焼き魚が放たれて宙を飛んだ。


「おっと!」


 ティオが素早く手を伸ばしながらかがんで、もう少しで地面に落ちそうになっていた焼き魚をパシッと掴むと共に、転びかけていた少年の方も、ひょいと小脇に抱えるように支えていた。

 更に、ポンと投げて少年を抱えている方の手に魚を持ち替えると、濡れた石畳に滑ってグラリとバランスを崩し、転倒する所だったチェレンチーの手をグイと引っ張って止める。


「気をつけろよ、ボウズ。人が多い所ではちゃんと前を見て走れよ。後、魚は弟にも分けてやれ。」


 ティオは、兄の方を地面にしっかりと立たせると、追いついてきた弟に焼き魚を手渡した。


「わあっ! ありがとう、のっぽのお兄ちゃん!」

「ああ! 俺の魚ぁ!」


 子供達は、ティオの言葉をいかにも子供らしく聞き流し、またすぐにパタパタと元気に走り出していた。

 ティオは、そんな二人を微笑ましそうに見送って、それから、チェレンチーに視線を戻した。


「大丈夫でしたか? チェレンチーさん?」

「あ、ああ、うん。ありがとう、ティオ君。ハハ、みっともないとこ見せちゃったね。」


 支えてくれていたティオの手を早く放さなければと思い、バランスを崩した体勢を立て直そうとして……

 その瞬間、チェレンチーは、今まで体験した事のない、奇妙にして鮮烈な感覚に襲われた。



 ……全てが、ゆっくりと見える……

 ……時間が止まっているかのように……

 ……いや、確かに動いてはいるが、頭上の木々の葉先を離れた水滴が地面に落ちるまで、何時間も、何十時間もかかるかのように、遅々としていた……



 ティオの顔を真正面から見つめていた。

 曇った分厚いレンズの奥に隠された独特な緑色の瞳が、くっきりと見えた。

 それは、これから訪れる初夏、むせかえるように多くの生命の息吹が充満する森の色に似ていた。

 透き通った鮮やかな真緑色でありながら、同時に、深さとまろやかさを持ち、包み込むような優しさが感じられる。


(……ああ、これは……翡翠だ……)


 チェレンチーは、そこまで専門的な知識はなかったが、商家の人間として、また、父の正妻である夫人が豪華なアクセサリーを好んで良くしていたため、宝石についても大まかに知っていた。

 ティオの瞳は、同じ緑色でも、エメラルドのようなさざめく煌びやかな輝きとは違う、もっと落ち着いた柔らかな光を帯びていた。

 翡翠の最も美しいとされる、深くかつ透明感のある緑は、別名「琅玕ろうかん」と呼ばれ、エメラルドと同等かそれ以上の価値を持つ事もあると聞く。

 ティオの瞳の緑色は、そんな最高級の翡翠を想起させるものだった。


 その美しい緑の宝石の、底の見えない深みへと魂が吸い込まれるような気持ちがして……


 次の瞬間に、チェレンチーは、不可思議な光景を見た。

 それは、後にして思えばほんの一瞬の事だったのだろうが……

 まるで、太陽の光の欠けらを直接目玉の中に叩き込まれたかのごとくに、強烈に脳裏に焼きついた。



 一人の青年が、昼と夜のあわいの空を思わせる鮮やかな群青色のローブを纏って、どこかのバルコニーに立っていた。

 風に翻ったローブの上着の裾には、金糸銀糸を惜しみなく使った荘厳かつ絢爛豪華な刺繍が施され、陽光に輝いている……

 そんな、細かな部分まで、まるで手に取るように見えた。

 短く切り整えられた黒髪を風に揺らしながら、ゆったりとした動作で青年が宙に腕を伸ばすと、その先から、割れるような歓声が湧き上がる。

 高いバルコニーの遥か下には、何千何万という群衆がひしめき合っていた。

 彼らは、皆、その青年の姿を見るためだけにそこに集まり来ているのだと直感的に分かる。

 男も女も、年老いた者も、小さな子供達までも、そこにある全ての視線が、不可思議な引力に引き寄せられるかのごとく、一点に集中している。

 その無数の見えない線の終点に、青年は、微塵も気負う事なく、自然体で立っていた。

 若木のような瑞々しさと、気の遠くなるような年輪を秘めた老木の威風堂々たる雰囲気を併せ持って。

 人々が彼を見る目には、賞賛、期待、憧憬、畏敬、信頼、熱狂……様々な感情が渦巻いている。

 そんな、騒然たる歴史的瞬間の只中にあって、なお……

 青年の、独特な緑色の瞳は、一点の曇りもなく、穏やかに優しく、澄み渡っていた。



「……さん……チェレンチーさん?……」

「……あ……ティオ、君……」


 ふと気がつくと、ティオが不安そうな表情でジッと顔をのぞき込んでいた。

 伸ばしっぱなしのボサボサの黒髪に古ぼけた大きな丸い眼鏡、色あせたボロボロの紺色のマント……

 いつも通りの、チェレンチーの良く知るティオの姿だった。

 彼の背景には、ナザール王都の川辺近くの風景が見えていた。

 やや勾配のある石畳が続き、並木の萌えだしたばかりの透き通った葉が風に揺れ、その彼方に雨上がりの春の青空が広がっている。


 チェレンチーは、先程一瞬感じた、鮮烈な光の欠けらのような幻想の衝撃から……

 ゆっくりと、目の前の現実の景色へと、自分の意識が戻ってくるのを感じた。


(……な、なんだったんだろう? さっき見えた不思議な光景は?……)


(……い、いや……あれは、見えたんじゃないな。凄く鮮明だったけど、「感じた」って感覚だった。……)


 あの一瞬、チェレンチーは、その場所のどこにでも存在し、全てを見て、何もかもを理解している、そんな状態だった。

 青年の短く切り整えられた黒髪の一本一本から、無数の観衆の表情の一つ一つまで、全てを「同時」にはっきりと見る事が出来た。

 現実ではとてもありえない事であり、だからこそ、あの光景が、自分の思い描いたイメージなのだと分かる。

 ただの白昼夢……

 それにしては、あまりにも鮮やか過ぎたが。


 ともかく、チェレンチーは、そばに居るティオに心配をかけまいと、先程の不思議な光景を一旦頭の奥へと押し込めた。


「どうしたんですか? ほんの数秒程でしたけど、まるで目を開けたまま意識を失ったみたいでしたよ。」

「あ、う、うん。だ、大丈夫だよ。ちょっとぼうっとしちゃっただけだから。何も心配要らないよ。」

「それなら、いいんですが。」


 チェレンチーが苦笑しつつもパタパタと顔の前で両手を振ると、ティオはようやくホッとしたような顔をしていた。

 そんな、分厚い眼鏡のレンズを隔てた奥にあるティオの独特な緑色の瞳が……

 先程幻の中で見た、群青色のローブに身を包んだ青年の瞳と、寸分違わず重なって見えた。


(……ああ、そうか!……)


 チェレンチーは、その時、閃くように理解していた。

 答えは、長い思案の中からではなく、理性による冷静な論理性の中からでもなく、突如として顕在化する。

 今まで生きてきた間に積み重ねてきた経験や知識も、その一閃の直感の前では、何の役にも立たないのだと知る。


(……ティオ君とサラ団長は、少し似ている。……)


 サラは、なぜか周囲の人間に好かれ可愛がられる性質がある。

 庇護欲を掻き立てられると言うべきか。

 彼女を見ていると、自然と、何か世話をしたい、助けになりたい、危険なものから守りたい、という気持ちになっている。

 それは、彼女の持つ生来の魅力なのだろう。

 ティオにも、そんなサラのように「周囲のものに好かれる」魅力があった。


(……でも、似ているようで、違う。……)


 サラの魅力は、彼女を中心とした身近な人間に対して、強烈に発揮されているように思えた。

 限定的であるが、その代わりに影響力は大きい。

 しかし、ティオは、まさに、そんなサラとは逆で……

 もっと広く、遠くまで、そして、人間以外のものにも全て力が及んでいるように感じられた。

 均一にうっすらと広がっているため、サラよりもずっと他人の目には分かりにくい。

 おそらく、今ティオの周囲に居る人間で、それに気づいているのは自分だけだろうと、チェレンチーは確信していた。


 ティオの持つ、その不思議な魅力を言葉にするならば、それは……


(……彼は、愛されている……)


(……この世界の、全てに……この世界、そのものに……)


 すぐそばで、いつものように穏やかな笑みを浮かべているティオの周りに、微細な光の欠けらがキラキラと舞っているかのように感じられた。

 細かな光の粒の一つ一つが、たえなる虹色の輝きを宿し、彼の姿を、彼の存在を、彼の触れる世界の全てを、あたたかく見つめ守るように取り巻いている。

 その、この世のものならざると言いたくなる程の美しさに、チェレンチーは深く心を打たれ、感動で胸がジンと痛くなるのを感じた。


 チェレンチーの脳裏に、亡き父の言葉が響いていた。


『……今目の前にあるものの価値を考えるのではない。未来の価値を考えるのだ。……』


『……人間の目利きが出来て、初めて一流と言えるのだ。……』


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「翡翠」

緑色の宝石。

硬玉ジェダイト軟玉ネフライトがあるが、ここでは硬玉の方である。

基本半透明だが、色が美しく透明度が高いもの程価値が高い。蝋のようなとろみのある独特の光沢を持ち、最高品質のものは「琅玕ろうかん」と呼ばれる。

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