過去との決別 #27
「雨は上がったようですね。」
ティオは、川のほとりに出ると、空を見上げて明るい声で言った。
隣でサラの剣を抱えて歩いていたチェレンチーも、つられて顔を上げる。
光に透ける黄緑色の新芽が美しい川沿いの並木の上空には、洗い立てのような青空が広がっていた。
ティオが筆記用具を補充したいと言って、二人で雑貨屋に入っている内に、ザアッと一雨あった。
ほんの十分も経たずに上がった通り雨であったが、二人が一旦店から出た時には、雲が駆けるように流れる空からは、まだポツリポツリと小さな雨の雫が滴っていた。
それも、川沿いの道にやってきた所ですっかり止まったようだった。
雲は遠くへ走り去り、何事もなかったような明るい春の空が再び輝きはじめていた。
「フム。後一時間は大丈夫でしょう。その後は、少しずつ崩れて、日が暮れる頃には本降りになる感じでしょうかね。」
ティオが目の上に手をかざして、まばゆい日差しを遮りながらそう語っていた。
□
ナザール王都を南から北へと縦断して流れる川のほとりは、市民の憩いの場となっている。
川の周囲は建都の折、石垣によってしっかりと補強されていた。
川幅は、およそ10m程だが、中州や河原はなく、端から端まで水深1m強の水がサラサラと淀みなく流れている。
川の両脇には、石畳の小道と並木が続き、所々木製の橋が掛けられていた。
四十年前は若木だった並木の木々も、今は二階建ての屋根を越す程の大樹に育ち、心地良い日陰と葉擦れの音を、小道を歩く者に与えてくれていた。
川沿いの石畳の並木道には、内戦の影響で家の外を出歩く人数が減ったとはいえ、やはり都の他の場所に比べて多くの人を目にする事が出来た。
特にこの辺りは、高級品を扱う大店が軒を並べる東門大通りから近い事もあって、上流階級の人間らしき衣装の人物も頻繁に見られた。
侍女に日傘を差させて散歩を楽しむ老貴婦人も居れば、デートだろうか、うら若い女性に腕を貸してエスコートする紳士の姿もある。
一方で、どこかのお屋敷で飼われているのか、何匹もの犬を散歩させている使用人が、手に持った縄に引きずられるように、必死な顔で小走りに過ぎてゆく。
まだ首の座っていない子供を胸に抱いて日光浴させている、木綿の服を着た庶民の女性も居た。
布で覆った野菜の入ったカゴを手に、小鳥のようにお喋りしながら並んで歩いていく、どこかの食堂の下働きらしい少女達の姿もあった。
皆、川の水の流れと並木の緑に心洗われるのか、表情が明るく、ここだけ見ていると、今もこの国で戦が続いている事を忘れてしまいそうだった。
川のほとりには、いくつもの屋台が出ていた。
この並木道を通る人々を目当てに、ちょっとした食べ物を売っている店である。
焼いた小魚を大きな木の葉に包んだもの、薄く伸ばして焼いた小麦粉の生地で野菜やチーズを巻いたもの、芋を蒸してバターを乗せたもの、お茶やミルクやビール、などなど。
食べ物の他には、小さな猿に芸をさせたり、珍しい種類の鳥を見せたり、楽器を弾いたりする事で、行き交う人々から小銭を貰おうという者も居た。
「チェレンチーさん、お腹が空いてませんか? いい匂いです! 焼き魚を食べましょうよ!」
「え、で、でも、僕は持ち合わせが……」
「もちろん、俺の奢りです。今日付き合ってくれたお礼ですよ。」
チェレンチーは、少し申し訳ない気持ちになりながらも、ティオの好意をありがたく受ける事にした。
「お、美味しい!」
「やっぱり焼き立ては美味しいですね! 魚も新鮮ですしね。水と自然が豊かなこの地方でしか味わえない美味ですね。」
「塩が効いているのがいいね。包んでいる葉の香りが、魚の生臭みを消してくれてる。シンプルだけど、良く考えられた料理だよね。」
ティオとチェレンチーは、川に沿って設置されている木製の手すりに寄りかかって、しばし焼き魚に舌鼓を打った。
焼いた魚を巻いている大きな葉は、近郊の野山で採られたものだが、季節により生のままの時と乾燥させたものの時があり、今はまだ秋口に集めて保存してあった乾燥した葉が使われていた。
乾燥した葉は生の葉とはまた若干違った香りになり、また、焼き魚の種類もその時々で異なる事から、そういった差異も屋台を訪れる楽しみの一つとなっているようだった。
(……美味しい。……なんだか、夢を見ているような気分だなぁ。……)
チェレンチーは口の中に広がる魚の滋味をしみじみと味わいながら、ぼんやりと思い出していた。
□
チェレンチーの目には、母と二人、貧民街の下宿で暮らしていた頃の幼い自分の幻が見えていた。
母が洗った洗濯物や繕った衣類が入った大きなカゴを両手で持って、一生懸命街を歩いて行く。
川沿いの道に差し掛かると、美味しそうな香りがして、魚やパンを焼いている屋台が目に入った。
チェレンチーのポケットの中には、いくらかの小銭があったが、それは、母が必死に洗濯したり繕い物をしたりしたものの代金だった。
貧しさからいつも空腹でお腹を鳴らしていた幼いチェレンチーは、しばし立ち止まり、ギュッと唇を噛み締めたのち、再び大きな荷物を抱えて歩き出していた。
あちこちにツギハギをした擦り切れた衣服、汚れてくすんだ髪や肌、栄養状態が悪くガリガリに痩せた手足。
遠い昔、どんなに焦がれても手に入る事のなかった美味しい食べ物を、今の自分は食べている。
(……下宿のみんなは、今どうしているんだろう? 元気でいるのかな?……)
木造二階建ての古びた建物に、ギュウギュウ詰めに四十人近い人間が暮らしていただろうか。
大家から小さな一室を借りて住んでいた者達は、皆チェレンチー親子と同じ、この都の最底辺の生活をしていた。
それでも、困った時は他人であろうとも助け合う温かさが、あの場所にはあった。
そうでもしなければ、生きていけない劣悪な環境であったとも言える。
おそらく、彼らは未だに、あの毎日空腹に苦しむ日々を送っているのだろうと、チェレンチーは想像した。
チェレンチーは、運良くと言うべきか、ドゥアルテ家当主の息子であった事が分かり、あの場所から母と共に抜け出す事が出来た。
その後、厳しい父の監視の元ではあったが、ドゥアルテ家で充分な教育を受ける事も出来た。
しかし、何のよすがも、手に職もない彼らには、あの貧困の沼から逃れ出るすべが全くないのだ。
(……どんな境遇の人間でも、望めば教育を受けられて、仕事に役立つ技能を身につけられるような機会があったらいいのになぁ。……)
ナザール王国よりもっと栄えている大国では、全ての国民を豊かにする事が国の発展に繋がるとして、国営の教育機関が設置されていたりもするのだと、ティオの旅の話に聞いて、驚いた事があった。
それに比べると、このナザール王国は、確かに平和で気候や自然の幸には恵まれているのだが、国を治める王族や貴族の意識は、自分達の権威と富を守る制度を頑なに施行し続ける事にしか向いていなかった。
彼らには、特に悪意はないのだろう。
ただ、支配者階級と被支配者階級は生まれながらに分かれているものだという考えに凝り固まっていて、それを変動させようという発想を持たないのだ。
まして、最底辺の貧しい国民の生活を良くしようなどとは、彼らは夢にも思っていない事だろう。
(……たぶん、このままでは、百年経っても、この王国の体制は何も変わらないんだろうな。富める者は富める者、貧しい者は貧しい者。貴族は貴族、平民は平民。……)
チェレンチーは、貧しくとも、教養がなくとも、自分達母子に裏表なく親切にしてくれた貧民街の人々を、懐かしく思い出すと共に……
なんとも言えない、やるせない悲しみに暮れていた。
□
「ところで、この街に来た時から気になっていたんですが……」
と、ティオが、チェレンチーと共に焼き魚を食べ終わった頃を見計らったように話し出した。
ペロリと手についていた魚の塩気を舐めとると、それまで背を預けていた手すりに、今度は腹部を乗せるような格好で川面に少し身を乗り出す。
「この街の治水はかなりしっかりと行われていますね。特に、この川の周辺は頑強な石垣で囲われている。」
「王都をこの地に作る時に、都の中央に川を通す形で、その水を生活用水として利用する事を念頭に設計されたという話だよ。」
「確かに、水は人間の生活に必要不可欠な重要なものです。せっかく良い川が流れているのだから、それを利用して都の生活に活かそうという考えも分かります。しかし……」
ティオは、うっすらと眉間にシワを寄せて目を細めた。
「天然の川が中央を流れるように街を作るというのは、利点だけでなく危険も伴うのではないですか? 例えば……大雨で川が氾濫した場合です。」
「この川は、都に流れ込む前に、本流と支流に別れ、こちらは流れの小さな支流となっていますよね。本流の方は、この先北に向かって、更にいくつかの支流に別れたり、新たな川と合流したりしながら、徐々に川幅を広くして流れていっています。その本流の方では、何年かに一度、様々な場所で氾濫を起こしていると聞きました。」
「特に春のこの季節、雨が多く降り続く年が定期的にあり、その時には良く氾濫が起こるのだとか。」
「確かに、河川の氾濫は、一口に災害と言えない部分もあります。何年かに一度に起こる大河の氾濫によって、上流から栄養分の多い土が運こばれ、ナザール王都北部の平原は肥沃な農業地帯として保たれている。大河のそばに住む人々は、それを良く理解していて、繰り返される川の氾濫への対応が習慣化していますよね。すぐに高所に避難する、家や家畜小屋は氾濫で水に覆われる低地には作らない、常に土嚢を用意しておいてすぐに積めるようにしておく、などなど。」
「しかし、この都では、そういった川の氾濫を予想した対策が、まるでなされていないように感じるのですよね。川周りの街の構造だけでなく、人々に危機感がないように思われます。」
「川の氾濫が土に恵みをもたらす農地ならまだしも、ここは城壁で囲われ、多くの人々が住む住居が密集した街です。川の氾濫は、ここでは、百害あって一利なしでしょう? 普通もっと警戒するべきなんじゃないですか?」
チェレンチーは、ティオの洞察力の鋭さに驚きながらも、自分の知るところの話を説明した。
「それは、この川は一度も溢れた事がないからね。」
「一度も? 一度もというのは、この都が造られてからですか? それともそれ以前から?」
「この地に王都が建設される前からだよ。僕が聞いた話では、ゆうにここ百年はなかったと思うよ。そういった歴史を踏まえて、王都はこの川を中央に位置取るように設計されたという話だよ。」
「なるほど、そういった経緯があったんですね。」
「確かに、本流の大きな川の方は、頻繁に氾濫が起きているね。でも、そのおかげというか、雨が降り続いて氾濫が起こるような時には、大きな流れの方に水の勢いが集中するみたいなんだ。それで、支流のこちらには、それ程影響が出ないんだよ。……えーっと、ほら、あそこ!」
チェレンチーは、手すりをしっかりと掴んで川の上に身を乗り出し、指差した。
良く見ると、川を囲う石垣に、茶色の線のようなものが、川の流れと水平に、水面の70cm程上部についていた。
その線の、更に50cm程上に、ティオとチェレンチーが今居る石畳の歩道があった。
「あれが、前回、ええと、十二年前だったかな、大雨が続いてついに本流で大規模な氾濫が起こった時に、この川の水位が上がった跡だよ。あそこまで水が来たんだ。でも、まだ、石垣を超えて溢れ出すって感じじゃないだろう?」
「確かに。川の周辺は建都の折に特に力を入れて整備をした様子がうかがえますしね。都に住む人々もこれなら安心だと思っているという訳ですね。」
「しかし……」
とティオは、穏やかながらも冷静な口調で続けた。
「やはり、もう少し、川の氾濫には注意をした方がいいと思いますがね、俺は。いえ、杞憂ならそれでいいんですけれども。」
「今まで一度もなかったからといって、これからもないとは、必ずしも言い切れませんからね。」
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☆ひとくちメモ☆
「ナザール王都の物資」
ナザール王国の王都は、肥沃な平原とそこを流れる川の恵みによる物資が集まってくる場所である。
王都周辺の農家からは、作物、乳製品、家畜の肉、川魚などが豊富に持ち込まれている。
一方で、鉱山が遠く産質量も少ないため、銅や鉄といった鉱物資源は少ない。




