過去との決別 #19
「それにしても、バカな事をしたものですねぇ。」
ティオは、だんだんと光量が増えて明けてゆく東の空に残った骨の残骸のような白い月を、目を細めて見つめながら、そう呟いた。
チェレンチーはハッとなって、慌てて答えた。
「そ、そうだよねぇ! いくらなんでも傭兵になるだなんて、後から改めて考えて、自分でも合ってないなって思ったよ。本当に僕って、バカだよねぇ。」
「いえ、そうではなくて……」
ティオは、灰金色の巻き毛を掻いて恥ずかしそうな顔をするチェレンチーに、否定の意を示した。
「あなたをドゥアルテ家から追い出した、先代夫人と腹違いのお兄さんの事ですよ。」
「私情を抑えてあなたを家に留めておけば、ドゥアルテ商会が現状を維持する事も可能だったでしょうに。自分で自分の首を絞めているようなものです。きっと、何も気づいていないんでしょうね。全く、バカな事をする。」
少し遠い目をして、呆れたような淡白な口調で語るティオを前に……
チェレンチーは、彼の言葉の意味が分からず、ポカンとしていた。
確かに、父が亡くなり、舵取りをする者が居なくなったドゥアルテ家は、さぞ混乱している事だろう。
長くドゥアルテ家に仕えてきた、父が鍛え上げた使用人達は、大番頭を筆頭に優秀な人間も何人か居たが、彼らは所詮良く出来た歯車でしかなかった。
いつしか巨大な図体に膨れ上がってしまったドゥアルテ商会を、亡き父のように、広い視野で全体を把握しつつ、同時に隅々まで睨みを利かせて、まとめ上げ、調節し、引っ張っていくだけの器はなかった。
兄と夫人が、そんなドゥアルテ家の商売の役に立つ筈もないのは言うまでもない。
いや、むしろ、金を湯水のように消費する二人の存在は、多大な害をもたらしている事だろう。
しばらくは、父の作り上げた体制の元、なんとか持ちこたえるであろうが、この先、ドゥアルテ家の商売が重大な危機に直面するのは、火を見るより明らかだった。
商売の規模を大幅に縮小する事になるのか、あるいはもっと悪い状況に陥るのかは、分からなかったが。
(……で、でも、そんな重大な局面に、たとえ僕がドゥアルテ家に残っていたとして、どうなったとも思えない。僕のような出来損ないでは、きっと何も出来やしない。……)
久しぶりにドゥアルテ家の事を思い浮かべたたチェレンチーの脳裏に、在りし日の父の声が蘇ってきた。
それはまるで、時間が来ると自動的に鳴るからくり時計の鐘の音のようだった。
『チェレンチー! お前は、兄を助けて、このドゥアルテ家を守っていくのだ! それが、お前の役割だ!』
まだ病に倒れる前の、かくしゃくとしていた頃の厳しい声や表情のものから……
『……へ、へれんひー、お、おまえらけか、た、たよひら……かならしゅ、お、おまえのあにをしゃさえ、こ、ここ、このいえをまもっへ、くへ……』
死期の近づいた頃の、弱々しくも強い執念を感じさせる亡霊のような姿まで、様々に入り乱れていた。
チェレンチーは、思わずバッと両手で頭を抱えうつむいた。
(……ご、ごめんなさい!……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!……父さん!……)
(……ぼ、ぼぼ、僕には、なな、何も出来なかったんです! ぼ、僕は、無力で、不出来で、厄介者で、ドゥアルテ家の恥でしかなくて……も、もも、もう、僕は、勘当されて、ドゥアルテ家とは関係のない人間になったんです!……)
チェレンチーは、自分の周りを父の怨霊がグルグルと回り続けているような気がしてきて、ブルブルと震えた。
『守れ!守れ!』『なぜわしの言う事を聞かんのか!』『チェレンチー!……ちぇれんちー……へ、へれんひー……』
幻は、ギュッと塞いでいる筈の耳のすぐそばで、頭の奥で、背中の後ろで、恨みがましく喋り続ける。
チェレンチーは真っ青な顔になり、冷や汗をダラダラ垂らしては、ヒュウッと息が吸えなくなっていた。
「チェレンチーさん?……チェレンチーさん!」
「……ハア、ハア……ティ、ティオ君……」
ティオに肩を叩かれ、揺すぶられて、ようやくチェレンチーはハッと我に返った。
心配そうなティオの顔を間近に見た途端、チェレンチーの感覚は、スウッと、執念を滲ませた父の怨霊のいる幻の中から、整備をしていた早朝の訓練場へと戻ってきていた。
まるで、ティオの存在に助けられたような心持ちだった。
「大丈夫ですか? どこか具合でも悪いんですか?」
「……だ、大丈夫、だよ。ちょっと、クラッとしただけ、だから。……」
無理をせずに休んだ方がいいというティオの提案を断って、チェレンチーは止まっていた手をせわしなく動かし、程なく訓練場の整備を終わらせた。
(……そ、それにしても、どうして父さん言葉を思い出したんだろう? もう僕は、ドゥアルテ家とは全く関係のない人間になったっていうのに。……)
チェレンチーは、未だ自分が、亡き父の、夫人の、腹違いの兄の、呪縛の中にある事を自覚していなかった。
それ程までに、長い年月をかけて彼の中に刷り込まれてきた彼らの言葉や感情は、チェレンチーの素直で優しい心に深い傷を負わせていたのだった。
□
「訓練場も用具倉庫も、すっかり綺麗になったね。やっぱりこうなっていると気持ちがいいものだね。」
この数日習慣となっていた早朝の訓練場の整備を終えて、チェレンチーはティオと二人、手にしていたトンボを片づけに用具倉庫へと向かった。
二人が真面目に効率良く作業に没頭したおかげで、訓練場の地面の状態は、もうすっかり良くなっていた。
今朝は、ほぼ、砂を少し足して、乱れていた所を直して終わった。
訓練場の整備をするための用具や、仕上げに地面の上に撒いている砂は、どちらもティオが調達してきたものだった。
出所を聞くと、傭兵団の兵舎の敷地に隣接している、王国正規兵用の兵舎の管理係から、借りたり貰ったりしたものらしい。
王国正規兵の兵舎には、傭兵団とは違って正式な管理係が何人かおり、訓練場の整備から宿舎の清掃など、細々とした雑用を行なっている。
チェレンチーもその事はなんとなく知っていたが、彼らは、傭兵団を「ならず者集団」と毛嫌いしている様子だったので、近づこうとは思わなかった。
しかし、ティオはいつの間にか気安く彼らと世間話をする程打ち解けていたらしく、整備用具を貸してもらったり、余っていた砂を譲ってもらったりしていたようだった。
チェレンチーは、ティオの「人たらし」の性質に改めて感心しかつ唖然とした。
「でも、もう用具倉庫も片づけるだけ片づけてしまったから、今日はやる事がないなぁ。久しぶりにみんなに混じって訓練に参加する事になるのかな。」
チェレンチーは見違えるように清潔になった用具倉庫を見渡して、ポツリと言った。
この数日で、必要なものは手入れをして、要らないものはバッサリと処分して、修理出来るものは修理して、更に、ガタガタになっていた備えつけの棚も、補正していた。
樽に入った訓練用の剣は、全て丹念に磨かれ、もはや手垢で黒く汚れているものは一本もない。
用具倉庫の壁に開いていた穴を塞いだり、建てつけの悪くなっていたドアの調節も行なって、もう、思いつく限りの事はやってしまった感があった。
商家での下働きが長かったチェレンチーは、こうしてスッキリ整っているのを見ると充実感を覚えたが、一方で、またあの苦手な戦闘訓練に参加しなければならないかと思うと、気が重かった。
「あ! それなんですけどー……」
ティオが何か思い出した様子でパアッと顔を輝かせて話しかけてきた。
その聡明さとどこか厭世的な態度のために、時折、十八歳とはとても思えない大人びた気配を漂わせるティオであったが……
こんな表情を見ると、歳相応の青年、いや、まるでいたずら好きの少年のようにさえ見えた。
「今日の午後、ちょっと用事があって街に出かける予定なんですよー。良かったらチェレンチーさんも一緒に行きませんかー?」
「え?……街に出かけるって……僕達は傭兵だから、城の外に出るには、ハンスさんの許可がないとダメな筈だよね?」
「それなら問題ありませんよー。……ほら!」
そう言って、ティオは、色あせた紺色のマントの懐から筒状に巻かれた一通の書簡を取り出し、チェレンチーに手渡してきた。
チェレンチーが開いて目を通してみると、そこにはハンスの署名があった。
実直な武人であるハンスらしい無骨な文字が並び、今日の日付と共にこの書状を持った者の外出を許可するという内容が簡潔に記されていた。
その下には、誰か別の、ハンスよりも身分の高い文官らしき人物の名前が記され、小難しい法律的な内容が細々と水の流れるような書体で綴られていた。
書状の縁には飾り罫が施され、その格式ある見た目からも正式な文書である事が伝わってくる。
チェレンチーはそれを見て、(なるほど、ハンスさんに許可を貰っているなら大丈夫そうだ。)と思った。
「用事っていうのは、いったいどんなものなんだい? 僕もついていって平気なのかな?」
「ああ、まあ、ちょっとしたお使いですよ。そりゃあ、チェレンチーさんがついてきてくれた方が嬉しいに決まってますよ。」
「そ、そうなんだ。じゃあ、僕も一緒に行こうかな。」
「やったー! 決まりですね!」
チェレンチーはニコニコ笑っているティオの様子から、あまり深刻に考える事なくうなずいた。
そんなチェレンチーの返事を受けて、ティオはそれこそ、無邪気な子供ように喜んでいた。
□
「……チェレンチーさん、チェレンチーさん。そろそろ抜けましょう。……」
ティオがそうチェレンチーにヒソヒソと耳打ちしてきたのは、昼食を済ませ、訓練場における午後の訓練がいよいよ実戦的なものになろうとしてきた頃の事だった。
この何日か、ティオの提案で、実戦形式の訓練になると、二人だけ訓練を抜け出し、訓練場の片隅にある用具室の整理をしていたのだったが、この時は、いつもより小一時間程早かった。
「……大体三時間で戻ってこようと思っているんですよー。この城から城下街まで、往復一時間と見て、向こうに居られるのは、二時間って所ですかねー。……」
「……う、うん。それはいいんだけど……ティオ君、どうしてそんなにコソコソしているんだい? 許可があるなら、もっと堂々としていても……」
「……いやぁー、いくら用事があると言っても、訓練中に抜け出して街に行くと知られたら、他の団員達が羨ましがって騒ぎになるかもしれないじゃないですかー。なるべく波風は立てたくないですからねー。……という訳で、なるべくそーっと行きましょう。気配を消して、こっそりとね。大丈夫、落ちこぼれの俺達二人が居なくなった所で、だーれも気にしませんよー。ただ、出かける所を見られないように気をつけましょうー。……」
「……な、なるほどね。わ、分かったよ。……」
チェレンチーはティオの指示通りに、ススッと、スススッと、少しずつ少しずつ、さり気なく、皆が熱心に訓練に励んでいる訓練場からフェードアウトして、渡り廊下へと出た。
その後も、ティオの後ろについて、スイスイと王国正規兵の兵舎の人気のない通路を抜け、近衛兵団が騎兵を並べている前庭の端っこをひっそりと歩き、なんら問題なく正門のそばにある通用門に辿り着いた。
チェレンチーは、傭兵団に入ってから一度も傭兵団専用の兵舎の敷地内から出た事がなく、終始緊張でギクシャクしていたが、ティオは、対照的に、まるで抜け道まで良く知っている自分の庭のように、全く迷いも感じさせずに歩いていっていた。
ティオが傭兵団以外の人間とも交流があるのは、訓練場の整備用具の一件で知っていたものの、さすがに少し不思議に思った。
「すみませーん! ちょーっと城の外に出たいんですがー。大体三時間ぐらいで帰ってきますので、通して下さいー。」
「お前達は……傭兵か? 傭兵の外出には許可が必要だぞ。」
「はいはいー。これでどうでしょうかねー。」
トテテテーッと門番に近づいていったティオは、今朝チェレンチーに見せた書状を手渡していた。
門番は、ガントレットをはめた両手で目の前に書状を全開にし、しばらくためつすがめつ眺めていた。
一見真剣な顔をしているが、片方の眉が吊り上がり、口の端が歪んでいる。
そんなヒョロヒョロした若い門番の反応から、ティオの後ろに控えていたチェレンチーは、いろいろと察していた。
(……ああ、たぶん、全部は読めないんだろうな。ハンスさんの書いた部分はともかく、もう一人の文官らしい人の文字は、かなり教養のある人間じゃないと読めない特殊な書体で書かれていたものなぁ。内容も難しかったし。……)
しかし、後半のもう一人の人物が書いた部分は、特に読めなくとも問題はなさそうだった。
要は「傭兵団の監視役であるハンスが許可を出したかどうか」が焦点であって、それは前半にはっきりと、ハンスの署名と共に記されていた。
「うむ。確かに許可は出ているようだな。……通って良し!」
「ありがとうございまーす!」
「時間通りに戻ってこいよ。」
ティオは「もちろん分かっておりますー!」と愛想のいい笑顔を浮かべて、チェレンチーの腕を引き、スサササーッと通用門を通り抜けたのだった。
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☆ひとくちメモ☆
「傭兵の外出」
傭兵達は普段王城内の一角にある専用の兵舎で生活しているが、城下町に行く事も出来る。
ただし、城門を出て城下町に行くには、監視役の王国正規兵ハンスの許可が必要となる。
城から城下町まで片道三十分はかかる事もあって、皆面倒がって滅多に外出しない。




