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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第二節>城下の青空
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過去との決別 #18


「そうだったんですか。それは、大変な思いをしたんですね。」

「ああ、うん。そう、なのかな。……でも、その当時は、とにかく自分に課せられた義務を一日一日しっかりとこなす事に夢中で、それだけでもう精一杯で……自分が大変な状態だとか、精神的にギリギリだとか、そんなふうに落ち着いて客観的に考える余裕すらもなかったんだよね。そうなると、もう、人間、辛いのかどうかも良く分からなくなるものらいしいよ、ハハハ。心が麻痺してくるって言うか、一々『辛い』とか『悲しい』とか感じていたら、精神が持たないからね。自己防衛のために、感情が鈍るんだろうね。」


 チェレンチーが、ティオに関して不思議に思う事は、彼の卓越した知能や膨大な知識ばかりではなかった。

 ティオは、いつもヘラヘラした笑みを浮かべていて、掴み所のない、悪く言えばうさんくさい雰囲気を醸し出している人間なのだが……

 なぜか、彼の前では、ずっと誰にも言えなかった重い過去の話がスラスラと口をついて出てきてしまっていた。

 ティオが旅の途中で見聞きしたという遠い異国の文化の話に興味深く耳を傾けていたつもりが……

 気がつくと、いつの間にか、彼にポツポツと、自分の昔話を打ち明けている状況が何度もあった。


 それだけ、内心ではティオを信用していた、という事なのかもしれないが……

(……いや、違う。……たぶん、それだけじゃない。……)


(……ティオ君には、何か、不思議な魅力がある。……)


 ティオは喋るのが非常に上手かったが、それ以上に、聞き上手でもあった。

 彼と話している内に、フッと、とても穏やかな安心した心持ちになってくる。

 そして、一見何気ない彼の問いに一つ一つ答えていく内に、いつしかスルスルと、自分から大事な秘密を打ち明けてしまっているのだった。


 チェレンチーは、今までティオのような不思議な雰囲気を持った人間に会った事がなく、その感覚を自分の中で上手く言語化出来ずにいたが……

 敢えて言うなら……


(……「人たらし」の能力、とでも言うのかなぁ。……あるいは……)


 無意識の内に人の気持ちを自分の思うように操り、「彼についていけば絶対に大丈夫!」という特に根拠のない、けれどあまりにも自然で心地良い安心感を人に与える。

 それはどこか、上質な酒や、または、ナザール王国では禁忌とされている麻薬の力に似ている所があるようにさえ思えた。


(……カリスマ……)


 それを今現在、ティオは特に意図せずに行っている状態だった。

 これが、彼が自分の持つ魅力を自覚して、最大限に発揮出来るよう、その聡明な頭脳で仕組んだのならば、一体どんな事になってしまうのか?

 チラと想像を巡らすだけで、チェレンチーはゾクゾクと背中が泡立つような感覚を覚えていた。



「どうしてチェレンチーさんはこの傭兵団に?」


 と、早朝、訓練場の整備をしながら、ティオに問われたチェレンチーは、すんなりと彼に、自分が元はドゥアルテ家の人間だった事を話していた。

 ティオが傭兵団に入って、つまり彼と知り合って、まだほんの五日目の朝の事だった。


(……あれ? なんで、僕、こんな事をペラペラティオ君に話してしまっているんだろう?……ここに来てから、誰にも何も話した事なかったのに。……)



 まあ、チェレンチーが自分の経歴を誰にも教えなかったのは、団員達が特に聞いてこなかったというのもあったが。

 力こそ全てである傭兵団において、チェレンチーのような落ちこぼれに興味を持つ者は居なかった。


 いや、ああ見えて意外にも面倒見のいいボロツには、一度尋ねられた事がある。

 チェレンチーが入団した折、あまりにも思いつめた様子だったので、心配してくれたらしい。


「なあ、チャッピー。お前、なんでこんなとこに来たんだよ? ハンスの旦那じゃねぇが、どう考えても向いてねぇだろう? 戦士だとか兵士だとか、そういうガラじゃねぇように思えるんだがな?」

「……そ、それは、その……ぼ、僕には、ほ、他に、行く所が、なくて……」


 チェレンチーは、その時は、思わず言葉を濁して誤魔化してしまった。

 自分がかのドゥアルテ家の人間であったと知られて、団員達に面白おかしく騒がれたり、無遠慮に詮索されるのが嫌だったというのもある。

 また、長い間家門の恥である私生児として扱われてきた自分の情けない境遇を知られたくなかった、これ以上他人から恥辱の目で見られるのが辛かった、という感情もあった。

 チェレンチーにとっては、今はまだ隠しておきたい暗い過去だったのだ。


 兄と夫人に勘当され、ドゥアルテ家とは正式に縁の切れた現在も、チェレンチーの心はまだ「主人の命令を遂行する」という洗脳の中にあった。

 だからこそ、彼らに命じられた通り、真っ直ぐに王城にやって来て、必死に懇願し、傭兵団に採用してもらったのだ。

 そう、チェレンチーの胸の奥には、ポッカリと大きな傷が口を開いたまま、タラタラと目に見えない赤い血を流し続けていた。


「フン。まあ、お前にもいろいろ事情があるってこったな。……ま、とにかく、この俺様の傭兵団に入ったからには、しっかりやれよな、チャッピー!」

「は、はい! が、がが、頑張り、ます!」


 ボロツは、チェレンチーが喋りたくなさそうに口ごもっている様子を、しばらく太い指でアゴを揉みながらうかがっていたが、それ以上追求してくる事はなかった。

 気をきかせてくれた、と言うよりは、ここ傭兵団の人間は大なり小なり脛に傷を持つ身で、皆様々な問題を抱えているため、チェレンチーに何か事情がありそうでも大して気にしなかったという方が大きかっただろう。

 そういう意味では、「過去は問わない」という暗黙の了解がある傭兵団は、チェレンンチーにとってありがたい居場所だった。



 しかし、半月程前、ボロツには言えなかった自分の辛い過去を、チェレンチーはティオには素直に話していた。


 ティオならば、他の団員達と違って、妙なからかいの的にしたり、下品な質問を投げつけてくるような真似はしないだろうという信頼があった。

 そして、実際ティオは、まだこのナザール王都に来て日が浅い様子であるのに、ドゥアルテ家の噂を良く知っているらしく、チェレンチーの辛い過去の告白に真剣に耳を傾けてくれた。

 親身になって、チェレンチーの心配をしてくれた。


 ……さすがに、そんなティオ相手にも、自分が兄と夫人にそそのかされて自殺しかけた事だけは、どうしても言えなかったが。

 父から体罰を受けながら厳しく躾けられた事、兄に良くいじめられ暴力を振るわれた事、夫人には、母共々口さがない悪口を言われ、終始人間扱いされなかった事……そういった強烈な印象を与える内容は極力避けた。

 自分は十歳の時ドゥアルテ家に引き取られた私生児だったが、父が亡くなって兄と夫人に出ていくように言われ、行く場所もなく傭兵団にやって来た、という上部の事実を、淡々と語った。

 幸い、ドゥアルテ家を出る際の自殺騒ぎでついた首の傷は、もう今は薄く残っている程度で、ティオを含め誰にも気づかれている様子はなかった。


「大丈夫ですか、チェレンチーさん?」


 チェレンチーの話を聞き終えた後、ティオは静かな声でそう言った。

 そこには、不思議な事に、憐憫、哀れみといった感情は一切感じられなかった。

 いや、むしろチェエンチーにとっては「可哀想な境遇の人間」と妙に同情されたくなかったので、その点はありがたかった。

 ティオから感じられたのは、ただ「心の底から心配している」という真心だけだった。


 チェレンチーは、そんな彼の気持ちを嬉しく思う一方で……

(……そんなに心配する事かな?……)

 と、まるで他人事のように不思議に思っている所があった。


「も、もう全然平気だよ! ドゥアルテ家とは、縁が切れたしね。今は完全に自由になったから、傭兵団で出来るだけ頑張っていこうって、張り切っているよ!」

「『今は完全に自由になった』……そうですか。」


 心配してくれたティオにこれ以上気を遣わせまいと、チェレンチーは訓練場の地面をならしていたトンボを頭の上に掲げて、自分は元気だと笑顔でアピールした。

 珍しく無理におどけてみせるチェレンチーを、ティオは、眼鏡の分厚いレンズの奥の緑色の瞳を、辛そうに少し細めて見つめていた。


 そんなティオを見ると、チェレンチーは胸の奥がズキリと痛んだ。


(……ティオ君は……本当に、いい人だ……)


 ティオが、本当は心根の優しい人間だという事に、もうこの時、チェレンチーは気づいていた。



 ティオは、誰に対しても、一定の距離を置いて付き合っているように見えた。

 他人の事情に興味本位で踏み込む事はなく、自分の事についても、ペラペラと他人に喋ったりしない。

 対人関係の一番表層では、ヘラヘラと緊張感のない笑みをたたえている掴み所のない人間。

 もう少し目を凝らして観察すると、親しげなのは表層だけで、彼の心の奥には、固く閉ざされた大きな扉のようなものが存在している感じがした。

 その奥には、おそらく、彼が他人に隠しておきたい秘密が詰まっているのだろう。

 その扉を、彼は決して自分から開ける事はなく、また、誰かがその奥に踏み入ってくる事も頑なに拒んでいる。

 誰にでも触れられたくない過去や思いはあるものだと、今まで長い間辛い経験をしてきたチェレンチーは実感していたので、そんなティオの禁忌に触れる事は避けていた。


 しかし、そんなふうに、他人と深く関わる事を、まるで恐れているかのように避けているティオであったが……

 誰かに頼まれれば、嫌な顔一つせず応えていた。

 目の前に困っている人間が居れば、何の迷いもなく手を差し伸べていた。

 つまずきそうになっている者に気づけば、黙って支え、道に迷っている者に出会えば、出口を差し示した。


 ティオには、特に善行を行なっている自覚はないようだった。

 ただ、ごく当たり前に、自分の周りに居る者が窮している時は手助けをする。

 ティオは、一般の人間に比べると逸脱して頭が良く、また勘も非常に鋭いために、人の危機を頻繁に察知するのだろう。

 そして、当人さえも気づいていない内に、そっと手助けをして、その者を危機から救っていた。

 例えるなら、自分が断崖絶壁の突端に居る事を知らず虚空に足を踏み出しそうになっている者の腕を掴んで、こちら側に引き戻しているような感じだ。


 自分の命を賭けるような危険を冒してまで他人を救おうという意気込みがある訳ではない。

 星の数程居る遠くの他人を誰も彼も助けようと、がむしゃらに駆け出していくような事はない。

 彼は、ただ、自分の周りの、手の届く範囲で、気づいた限りにおいて、そっと力を貸しているだけに過ぎなかった。

 それでも、彼の能力の高さを考えるに、今まで、たくさんの人間が彼によって救われてきた事だろう。

 その功績を知る者はほとんどおらず、救われた者も、救ったティオでさえも、気づいていないに違いない。

 それが、あまりに自然な行動故に。


 ティオが周りの人間に与える影響は、そういう類のものだった。

 彼にとっては何の変哲もない、日常の一部である。

 無自覚の善行を、息を吸って吐くように、周囲に与え続けている。

 それは、太陽が、特に意図せず地上にあまねく光を降らせ、人々の営みに恵みを与え続けているのに似ていた。

 太陽がただ、元よりそういう存在であるように、ティオもまた、元来そういう人物であるのだ。


 自分のそばに居る者を気遣う心。

 他人に優しく接する事、親切である事。

 困っている者が居て、自分に余力があるのならば、手を差し伸べ助ける。


 そんな、人と人との関わり合いにおいて、一見ごく常識的に思える行動と思いやりを……

 チェレンチーは、久しく忘れていた事を思い知らされた。

 これまで自分を長年取り巻いていた環境がいかに異常だったかを、改めて自覚した。


 母が亡くなるまでは、チェレンチーもそれらを確かに知っていた。

 母が惜しみなく与えてくれる無償の愛に包まれていた。

 しかし、そんな最愛の母が亡くなって、もうかれこれ十五年近い長い月日が経ってしまった。

 その間、チェエレンチーが周囲の人間から与えられたのは、身勝手な規範の押しつけや、蔑みや、悪意や憎悪といった、歪んだ酷いものばかりだった。


 チェレンチーを執拗にいじめてきた腹違いの兄やドゥアルテ夫人は、思えば、愚かな人間だった。

 自分の先行きさえもろくに見えていない、頭の悪い者達だった。


 そんな彼らとは、知性の面で雲泥の差のあるティオが、もしも、周囲に悪意を持って振舞っていたのなら、どうなった事だろう?

 あるいは、他者を全く思いやらず、自己の欲望を満足させるためだけに、手段を問わず行動するような非道な人間であったのなら?

 きっとそれは、チェレンチーの兄やドゥアルテ夫人どころではない不幸を周りの人間に振りまいていた事だろう。

 もはや、人間一人が与える害の範疇を超えて、天災のごとき災厄となり、多くの人間が巻き込まれていたに違いない。


 しかし、幸いにも、と言うべきか、あるいは、疑いようもなく当たり前に、と言うべきか……

 ティオは、とても心根の優しい人間だった。

 どんなに恵まれた知性と能力をその身に備えていても、それを決して悪用しようとはしない。

 そもそも、悪用するという考えさえ、彼には全くない様子だった。


 そうして、ティオは、当然のように隣人に向けている優しさを、チェレンチーに対しても等しく与えてくれた。

 ティオにとっては、特別な事をしている意識は何もないのだろう。

 けれど、そんな、さり気なく、自然で、見返りを求めない、彼の優しが……

 チェレンチーには、何よりも嬉しかった。


 思わず込み上げくる涙を、ティオに気づかれないように、チェレンチーは慌ててゴシゴシとシャツの袖口で拭った。


読んで下さってありがとうございます。

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☆ひとくちメモ☆

「チェレンチーの傭兵団への入団」

傭兵団に入るには、監視役の王国正規兵であり、剣の達人でもあるハンスによる実技試験を受けなければならない。

ここで、戦力となり得ない者は弾かれる決まりになっており、チェレンチーはあまりに運動神経が悪くて落とされかけた。

ボロツに意気込みを認められてなんとか拾ってもらえたが、それ以降も必死に訓練に励むも、全く剣の腕は向上しなかった。

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