過去との決別 #14
(……甘い匂いがする……)
チェレンチーは、ナザール王城内にある傭兵団用の兵舎の敷地の一角に、一人ぼんやりと佇んでいた。
他の団員達は、夕食が終わってからも食堂に残って、ゲームをしたり、酒を飲んだりと賑やかに過ごしている。
時折、風に乗って彼らの笑い声が聞こえてきていた。
チェレンチーがなぜこんな人気のない場所にやって来たかというと、ふと嗅いだ記憶のある甘い匂いに気づいたからだった。
その時は、まだ昼間の訓練中だったため、匂いの漂ってくる元を探す訳にはいかなかったが、夕食後のこの時間なら、少し出歩く事が可能だった。
それに、傭兵団の人々は、想像していたよりずっと気さくな者達だったが、酒を酌み交わしてバカ騒ぎを楽しむ彼らのノリについていけない所があり、食堂から離れていたかったのだった。
(……やっぱり、この花の匂いだったんだ。……)
兵舎の敷地の隅を、城壁に沿うようにゆっくりと歩いていたチェレンチーは、程なく、黄色い花の咲いた一群れの茂みを見つけた。
それは、ドゥアルテ家の庭の片隅に植えられていたものと同じ種類の花木だった。
春になると、鮮やかな黄色い花を溢れる程大量につけ、その花には独特の甘い芳香がある。
花の黄色は、いかにも春らしい明るい雰囲気があり、またとても良い香りがする事から、庭木として好まれ、ナザール王都の邸宅の庭先に植えられる事が多かった。
傭兵団の敷地の外れにも、雑多な草木に混じってその木が植えられていた。
ちょうど春の季節を迎え、黄色い花が特有の甘い芳香と共に咲き出している所だった。
兵舎の建物から漏れてくるわずかな光の中でも、その鮮やかな黄色ははっきりと捉える事が出来た。
傭兵団の兵舎は、元は見習い兵士用のものであり、内戦で兵士の人数が著しく減ってから使われなくなっていた事もあって、その敷地に植えられた植物もまた、ほとんど手入れがなされていない様子だった。
チェレンチーは、乱れた樹形ながらも、甘い匂いを発して可憐に咲く黄色い花へと、そっと手を伸ばそうとした。
と、その時、背後から声が響いた。
「その花、毒がありますよ。」
慌てて振り向くと、一人の背の高い青年が立っていた。
いつの間に来たものか、チェレンチーは彼の足音にも気配にも全く気づかなかった。
つい昨日、傭兵団に入ったばかりの青年で、部屋割りで同じ二段ベッドを使う事になり、挨拶をした。
そんないきさつがなくとも……ボサボサの黒髪に、古びた大きな丸い眼鏡を掛け、185cmを超える長身という、あまりにも特徴的な外見の彼は、一度見ただけでしっかりと記憶に残っていた。
青年は、穏やかで人の良さそうな、しかし、どこか掴みどころのない笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「こんな所で何をしてるんですか、チェレンチーさん?」
「え?」
チェレンチーは驚いて、小さな丸い目を見開き、青年を見つめた。
そんなチェレンチーの反応に、青年の方も戸惑った様子を見せた。
「あれ? チェレンチーさんで合ってますよね?」
「……あ!……う、うん。……いや、その、みんな僕の事を『チャッピー』って呼ぶから。……僕の名前、覚えてくれてたんだね。」
「昨日自己紹介してもらったばかりですから。……そう言えば、確かにみんなあなたの事を『チャッピー』って呼んでますね。なんでなんだろうと思ってました。あだ名ですか?」
「あだ名……あ、ああ、うん。まあ、そんなところかな?」
「それで、チェレンチーさんは、どうしてこんな所に?」
と、背の高い青年は尋ねてきた。
こんな夜中に人気のない場所で一人ぼんやり突っ立っていたら、不審に思うのはもっともだとチェレンチーは思った。
が、それはその青年にも言える状況である事には気づいていなかった。
まして、彼が、傭兵としての生活の合間をぬって、王城内の建物の配置や見張りの見回りの時間などを調べている最中だったとは、知る由もなかった。
「あ、え、ええと、昼間、風に乗って甘い匂いがしてきてね、それがどこから香ってきたんだろうと思って探していたんだ。」
「なるほど、それは確かにこの黄色い花の匂いでしょうね。」
「でも、間違っても口に含んだりしない方がいいですよ。毒がありますので。……まあ、大人なら少し食べたぐらいでは死ぬ事はないでしょうが、何日かは寝込む事になりますよ。体の小さな子供や、体力のないご老人は、命取りになる事もあります。」
「う、うん、それは知っているよ。前に住んでいた家の庭に植わっていたからね。」
「ああ、そうだったんですか。安心しました。……なるほど、懐かしくなって、見に来ていたんですね。」
「懐かしく……ああ、うん。たぶん、そんな所かな。……ア、ハハ、まだ、懐かしがる程昔の事じゃないんだけどね。」
チェレンチーはほぼ初対面の青年に、自分の重い過去の話を打ち分けられる筈もなく、ぎこちない笑みを浮かべてお茶を濁した。
青年は、そんなチェレンチーの気まずさに気づいているのかいないのか、飄々とした笑顔で、スッとその長い腕を黄色い花に伸ばし、掠めるように花弁に触れた。
「知ってますか?……この花、巷では『甘い香りの毒花』として有名ですが、毒性は花だけでなくこの植物全体にあって、特に根が最も強いんです。でも、その根は、頭痛や喘息の薬として使われる事もあるんですよ。まあ、薬としての使用は、余程の知識と経験がないと難しいでしょうけれど。」
「ええ? こ、この植物が薬にもなるのかい? そ、それは知らなかったよ!」
チェレンチーは、青年の博識さに驚きの声を上げていた。
「ど、毒が、使いようによっては薬にもなるなんて、初めて知ったよ!」
「薬と毒は紙一重のものも多いですよ。特に強い効果がある薬の場合は。要するに、使い方次第って事ですね。」
「す、凄いね! 君は物知りなんだね!」
「いえ、そんな。あちこち一人で旅をしていたので、何かあった時、自分の身を守れるようにと覚えただけですよ。単なる自己防衛のための手段です。」
「へえ、その歳で一人旅なんて、凄いなぁ!……僕は、ほとんどずっとこの王都の中で暮らしてきたから、いろんな所を一人で旅して回るなんて、想像もつかないよ。よ、良かったら、少し話を聞かせてもらえないかな?……あ、ええと……」
チェレンチーが思わず言い淀んだのを察して、青年は柔らかく笑って言った。
「ティオです。」
「あ、そ、そうだ! ティオ君、だったね! ゴメン、忘れてて!」
「いえ。……ところで、話なら、宿舎に帰ってからにしませんか? ここは少し風が冷たい。春とは言っても、まだ夜は冷えますからね。」
「う、うん、そうだね。それがいいね。」
そうして、チェレンチーはティオと二人、宿舎に向かって歩き始めた。
建物からの灯りがわずかに零れる夜の闇の中に、未だ、甘い花の香りが漂っていた。
この奇妙な風体の青年との出会いが、自分の人生を大きく変える事になるとは、この時のチェレンチーは、まだ夢にも思っていなかった。
□
父親であるドゥアルテ家二代目当主の葬儀の翌日、兄に教唆され、チェレンチーが自殺未遂を起こした事件ののち……
チェレンチーは程なくドゥアルテ家から放逐された。
唯一チェレンチーの能力を買っていた父が死んでしまった後は、もうチェレンチーはドゥアルテ家ではただの厄介者でしかなかった。
兄と夫人は、本当はチェレンチーにあのまま自殺して死んで欲しかったようだった。
しかし、今一歩の所でチェレンチーが二人の命令を聞かずに突っぱねたので、企みは失敗してしまった。
次なる手を考えていた二人は、やがて、チェレンチーを傭兵団に入団させる事を思いついた。
「おい、マヌケ、臆病者。自分で死ねないなら、国のために戦って死んでこいよ。そうすれば、ゴミのようなお前の命も、少しは役に立つんじゃないのか?」
「この家では何の役にも立たないお前だけれど、傭兵になったら、ちゃんとお役に立てるように精々頑張りなさいな。」
この一年、父の看病で忙殺されていたとはいえ、チェレンチーの耳にも内戦の話は届いていた。
すぐに国王軍の圧倒的な勝利によって決着がつくかと思われていた戦であったが、思いの外長引き、それは王都の住人や経済状況にも、ジワジワと悪影響が広がり始めていた。
更に、泣きっ面に蜂で、都にたちの悪い流行り病が広まっていった。
そこで、内戦を早期終結するために、王城では広く傭兵を募っているという。
過去の経歴は一切問わず、どんな者でも志願すれば傭兵となる事が出来て、報奨金も貰えるとあって、王都の内外から、犯罪者まがいのならず者が多く押し寄せているとの噂だった。
ずっと下働きではあったものの、十歳の時からドゥアルテ家の屋敷の中で過ごしていたチェレンチーは、荒っぽい無法者だらけの傭兵団に放り込まれる事に恐怖を覚えたが、兄と夫人は許してはくれなかった。
結局、ほとんど着の身着のままで屋敷から追い出されたチェレンチーは、仕方なく傭兵になるため王城に向かった。
普通の人間なら、ここで逃げ出す事も出来たのだろう。
しかし、チェレンチーは、未だ兄と夫人の精神的呪縛の中に居た。
さすがに「死ね」という命令には抵抗して、わずかに心の中に光を取り戻してはいたが、十五年以上も刷り込まれてきた思考はなかなか抜けない。
チェレンチーの中では、自分の主人である今の兄と夫人の命令は絶対で、なんとしても遂行しなければならない使命だった。
そうして、王城に傭兵になるため志願しにやって来たチェレンチーだったが、入団試験でハンスに不合格を言い渡されてしまった。
ドゥアルテ家において、父の教育方針から、肉体を鍛え護身術を身につける目的で剣技を学んだ経験はあったものの、チェレンチーは元来運動神経が悪く、いくら真面目に訓練しても全く成長しなかった。
「このままでは戦場で無駄死にするだけだ。諦めて帰りたまえ。」
「せ、戦場に出て、力敵わず死ぬというのなら、それでも構いません! で、ですから、どうかお願いです! ぼ、僕をここに置いて下さい! もう、僕には、他に行く場所がないんです!」
不合格を言い渡したものの、全く立ち去ろうとせず、土下座をして必死に頼み込んでくるチェレンチーに、ハンスは当惑した。
と、そこへ、取り巻きを引き連れたボロツがやって来て、チェレンチーに目を留めた。
「ハンスの旦那ぁ。コイツは、覚悟ってもんが出来てる人間だぜ。ここまで必死に頼んでるんだ、傭兵団に入れてやってもいいんじゃねぇのか?」
チェレンチーの真剣さを目の当たりにして、「俺は覚悟の決まってるヤツは嫌いじゃないぜ!」とボロツが漢気を見せ、自分が引き受けるという事でハンスと話をつけ、チェレンチーを傭兵団に入団させてくれたのだった。
□
なんとか首の皮一枚で傭兵団に入る事になったチェレンチーは、もちろん懸命に訓練に励んだ。
が、はやり、生まれもっての資質は大きく、商人としての才はあっても戦士としての才はないチェレンチーは、全く上達しないままで、誰が見ても落ちこぼれだった。
(……僕は、ここでも役に立たない、要らない人間なんだろうか?……)
元々自己評価の低いチェレンチーは、ますます落ち込む結果となったが、それでも何か自分に出来る事をしようと、ボロツをはじめ団員達に言いつけられた雑用を真面目にこなしていた。
こうして、実際傭兵団に入ってみると、団員達は想像していたよりもずっと気さくな者達だった。
凶悪な犯罪者の集まりで、何かあればすぐに刃物を持ち出して殺し合いが始まるらしい……という巷の噂は、どうやら、ならず者集団の彼らに怯えた王都の市民が尾ひれをつけた話だったようだ。
特に、彼らを率いているボロツは、筋骨隆々たる大きな体と凶悪な面構えではあったが、周りの人間を良く見ており、情に厚く世話好きな一面があった。
そんなボロツを頂点とする傭兵団において、チェレンチーは、戦闘訓練では全く役に立たないながらも、それを理由にいじめを受けるような事はなく、「チャッピー」「チャッピー」といいように雑用を押しつけられつつも、仲間の一人として受け入れられていた。
それは、皮肉な事に、ドゥアルテ家における扱いよりも、ずっと人間的なものだった。
傭兵として役に立たないのは困りものだったが、そんなチェレンチーに、暴力を振るったり酷い言葉を吐いたりする者は誰一人居なかった。
とは言っても、一応同じ傭兵団の仲間ではあるが、逆に、親身なってチェレンチーの力になってくれる者も居なかった。
傭兵団では、「強さ」という絶対的な基準で暗黙の順位がつけられており、その最下位に位置するチェレンチーに、特別に興味を示したり親切にしたりする者が居ないのは当然と言えた。
しかし、そんな状況でさえ、チェレンチーにとっては、不思議な程気が楽だった。
誰も自分に、良くも悪くも、強い感情や関心を向けてこない。
来る日も来る日も「役立たず!」と罵られ、あるいは「馬鹿者!」と叩かれる事のないこの場所は、まるで別世界のようだった。
ただ、ドゥアルテ家で厳しい教育を受けてきたチェレンチーは、育ちの差か、それとも、知性の差か、どうにも傭兵達と馬が合わなかった。
彼らの事は決して嫌いではなかった。
大なり小なり倫理観の欠如は否めないものの、一般社会における不適合者である彼らも、身近に付き合ってみれば、根っからの悪人という訳ではないのだと知った。
しかし、チェレンチーの真面目で常識的な性格からして、やはり彼らに溶け込む事は出来ず、ずっと浮いたままだった。
チェレンチーは、傭兵団の中でも、いつもポツンと一人で行動していた。
それでも、特にチェレンチーに不満はなかった。
父や、兄や、夫人の、身勝手な干渉はあれど、今までもずっと一人だった。
むしろ、これが普通なのだと思っていた。
確かに、ドゥアルテ家と縁が切れた今、自由は手に入れたが、とりわけ楽しいと感じる事がないのは変わっていなかった。
生きてはいるし、真摯に日々の生活をこなしてもいる。
だが、結局それだけで、毎日、砂を噛みしめるような無味無臭の薄い感情の中で、チェレンチーは生きていた。
そう、ティオと名乗る、風変わりな青年と出会うまでは。
読んで下さってありがとうございます。
ブクマ、評価、感想、いいね等貰えたら嬉しいです。
とても励みになります。
☆ひとくちメモ☆
「傭兵団の入団試験」
傭兵団に入る者は、傭兵団の監視役を務める王国正規兵のハンスが、試験をして決めている。
主に問われるのは剣の腕であり、木の剣を使った模擬戦で実力を認められなければならない。
手の足りない時には、ハンスの部下が実技試験の相手をする事もある。




