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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第一節>毒花の香り
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過去との決別 #13


「うっ!……ゲ、ゲホッ! ゲホッ!」


 チェレンチーは、なすすべもなく床に転がり、手で腹を押さえて苦しんだ。

 胃液が込み上げてきて口から漏らすと、兄は「汚ねぇなぁ!」と吐き捨てながら、更に、ガッガッと容赦のない蹴りを、腹部に、背中にと、叩き込んできた。

 キャアァッ! とその場に居合わせた若いメイドが悲鳴を上げたのが、横たわって震え蠢くチェレンチーの耳に、まるでどこか遠くから響いてくるかのように聞こえていた。


 子供の頃は、十歳近く年上で一回り以上も体の大きな兄に、良くこうやって無抵抗のまま暴力を振るわれていたチェレンチーだったが……

 父が初めて病に倒れた後、チェレンチーが本館で寝起きするようになってからは、こういったあからさまなイジメはなくなっていた。

 しかし、それは、兄が大人になり人として成長して分別がついた、という訳ではなく、チェレンチーをそばに置いている父の目を気にして押さえていただけだった事が、この時はっきりと分かった。


「いいんだよ、コイツは『害虫』だからな! 何をしたって! 虫を人間と同じに扱う必要なんて、ねぇんだよ!」

「……ぐ、うっ!…… がっ!……ううっ!……」


 使用人達も、兄が連れてきた水商売の女性達も、あまりの酷い暴力に青ざめていた。

 しかし、兄は、今まで溜まっていた鬱憤をぶつけるように、チェレンチーを思い切り蹴りつけ、踏みつけ、踏みにじった。

 これで、十五年以上も目障りだったチェレンチーともおさらばだ、最後に好きなだけ憂さを晴らそう、という気持ちもあったのだろう。


 だが、夫人も兄も、チェレンチーという人間を全く分かっていなかった。


「……に、兄さん!……」

「だ、誰が、お前の兄だ! お前は、俺とは一切血の繋がりのない赤の他人だ!……俺の事は、旦那様と呼べ!」

「……だ、旦那様!……ぼ、僕を、この屋敷に置いて下さい! 僕は、旦那様のために、一生懸命働きます! 誓います! どうかお願いします!」

「は、はあぁ?」


 兄は、乱れた生活で肌が荒れ気味の顔を、大きく歪めた。

 これだけなじっても、暴力を振るっても……すがるように自分を見つめてくるチェレンチーの目には、一点の曇りもなかった。

 彼の言葉に微塵も嘘はなく、本心から誠心誠意自分達母子に仕えたいと思っているのが伝わってくる。

 これには、兄も夫人も混乱した様子だった。


 人間は、自分の器量でしか他人を測れない。

 兄と夫人には、チェレンチーがここまで必死になるのは、何か裏があるのだろうとしか思えなかった。

 ヤツは腹に一物あって、今は大人しく従順な振りをしているが、隙を見てこの家を乗っ取るつもりなのかもしれない、そう考えた。

 このドゥアルテ家の莫大な財産に強い執着のある二人には、それ例外に、チェレンチーがここまでして屋敷に残りたいという理由が思いつかなかったのだった。


 しかし、チェレンチーは、ただただ、父の言葉を守りたいだけだった。

 幼い頃からずっと繰り返し教え込まれた、父の教え……

『お前は、立派な商人となって、兄を支え、この家を守っていけ!』

 それが、愛する母を失った後チェレンチーに残された、ただ一つの生きる目的だった。

 自分がこの世に生きている、唯一の意味だった。

 今の彼の、存在の全てだったのだ。


 そんな、呪いのような呪縛に、もう十五年以上もの長い年月に渡ってチェレンチーが縛られ続けてきた事を……

 父が与えたその呪いが、もはや、彼の血肉と心と魂と、不可分に混ざり合ってしまっている悲しい事実を……

 チェレンチーを「目障りな汚らしい虫」としか思っていない兄や夫人が、理解出来る筈もなかった。


「ど、どうか、どうかお願いします! 旦那様、奥様! ぼ、僕は、このドゥアルテ家のためなら、お二人のためなら、どんな事でもいたします!」


 チェレンチーは、どんなに酷く夫人に蔑まれようとも、どんなに激しく兄に蹴られようとも、全く諦めなかった。

 二人の前に土下座して、額を床に擦りつけ、何度も何度も懇願し続けた。


 

「まったく、何を考えているのかしら、このゴミは? わたくし達のためなら、どんな事でするですって?……じゃあ、いっその事、死んでくれないかしら。お前の事なんて、二度と見たくなくってよ。」


 夫人がせわしなく扇子を動かしながらげんなりした顔でそう言ったのを聞いて、兄はハッと何か閃いた様子だった。


「母さん、それだよ! 名案じゃないか!」

「あら、どういう事かしら?」

「コイツに死んでもらうんだよ! 今ここで!」


「なあ、チェレンチー! 俺達のために何でも出来るって言うんなら、死ぬ事だって出来るよなぁ? 何しろ、俺も母さんも、お前には飽き飽きしてるんだ。お前が生きてこの世にいる事自体が、もう、嫌で嫌でたまらないんだよ。俺達の幸せを思うなら……」


「今! ここで! すぐに! 死んでくれ!」


「……え?」

 さすがに、チェレンチーも、まさか「死ね」とまで言われるとは思いも寄らず、岩で頭を殴られたように呆然となった。

 しかし、ようやく顔を上げたチェレンチーの眼の前にあったのは、一片の慈悲もなく、下卑た笑みを浮かべる兄と夫人の顔だった。


「ああ、さすがに、自分で首を絞めて死ぬのは難しいか? 庭の木に縄でも吊るすか? いや……俺のナイフを貸してやろうじゃないか。ほら、これを使って、自分で自分の首を掻き切れよ。簡単だろう?」


 そう言って、兄が懐から取り出し、鞘を抜いて放ったナイフが、チェレンチーの前にカラカラと転がってきた。


「何してるんだ、グズグズするな、ゴミ! さあ、それを拾え! 拾えって言ってるだろう!……そうだ、そうしたら、それを両手でしっかり持って、首の横に当てるんだ。……ハハハ! お前みたいな出来損ないも、やれば出来るじゃないか!……そうそう、後は、それを思いっきり手前に引くだけだぞ。それで終わりだ。楽になれるんだ。」


「俺達は、お前が死んでスッキリするし、お前も、俺達の幸せのために死ねて、さぞ嬉しいだろう? なあ?」


「ほら、どうした? 死ねよ。早く死ね。さあ。……死ね! 死ね死ね死ね、死ねぇ! お前なんか、さっさと死んじまえぇ!」


 チェレンチーは、兄に促されるまま……

 目の前に落ちていたナイフを拾い上げ、両手で柄を握り、ゆっくりと自分の首筋に当てがった。

 チェレンチーにとって、主人である兄の命令は絶対であり、まるで心を持たない操り人形のように、チェレンチーは自然と自分の首にナイフを押し当てていた。


 しかし、体はやはり、生物的な本能から来る恐怖でブルブルと震えてしまう。

 ハアハアと過呼吸気味になり、真っ青な顔で凍りついたまま、そこからなかなか手を動かせずにいた。


(……ぼ、僕……僕の価値、は……もう、この世界のどこにもないのか?……誰も、僕を必要としていない、のか?……)


(……ぼ、僕みたいな、役立たずの厄介者は……こ、ここで、死んだ方が、兄さんの、奥様の、この家の人達みんなの、ためになる、のか?……)


 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!……と、憎悪を込めて、弄ぶようないたぶるような声で命じてくる兄の声が、チェレンチーを追い立てていった。


(……そ、そうだ。うん。……僕はここで死んだ方が、きっと、いいに違いない。兄さんも、奥様も、喜んでくれ、る。……)


(……死のう。……)


 チェレンチーはそう思い立つと、両手に握りしめていたナイフにグッと力を込めた。



 ポタポタと、ナイフが入り込み切れたチェレンチーの首の皮から、真っ赤な血が床の上に落ちた。

 「キャアァー!!」という、その場に居た使用人の若い女や、夫人の取り巻きの貴婦人、兄の連れてきた娼婦達が悲鳴を上げる。


「わ、若旦那様! これはさすがにやり過ぎでは……」

「うるさい! 俺はもう『若旦那様』じゃない! れっきとした、この家の主人だ!『旦那様』と呼べと、言ってるだろう!」

 見かねた古参の番頭が兄を止めに入るが、兄は、年老いた番頭相手に、胸ぐらを掴んでドカッと思い切り殴り飛ばした。

 番頭はドサッと力なく床に倒れ、使用人仲間が慌てて駆けつけ助け起こしていた。


「お前達も良く覚えておけ! これからは、この俺が、ドゥアルテ家の当主だ! この家のものは、全て俺のものだ! お前達もな!……俺が、俺のものをどうしようと、俺の勝手だ! 二度と口を出すな! 次に俺に意見してきたヤツは、このジジイと同じ目に遭わせるからなぁ!」


 そして、首から血を流しているチェレンチーを大仰な仕草で振り返り、引きつった醜い笑顔を浮かべて宣言した。


「なんか、勘違いしてるんじゃないのか? 俺はコイツに何もしてないぜ? コイツが勝手に死のうとしてるだけだ! 俺は何も悪くない、そうだろう?……ハハ、ハハハハハ!……ハハハハハハッ!!」


 狂ったような兄の高笑いをどこか遠くに聞きながら、チェレンチーは朦朧とした意識の中に居た。


 実際は、まだ、薄く首の皮を切っただけの軽傷だった。

 しかし、強烈な痛みが走り、血が溢れた箇所は熱を持ったように熱くなって、チェレンチーの精神は激しく混乱していた。

 床に落ちた自分の血の赤さが目に入ると、ゾワゾワと生理的な恐怖が背中を駆け上がってきた。


(……こ、怖い……怖い、怖い、怖い! 嫌だ! 死にたくない!……誰か……誰か、助けて!……)


 しかし、その場にチェレンチーの味方をするものは、誰一人居なかった。

 使用人達とは、今まで、世間話をする程度には付き合いがあり、共に働いてきた仲間という意識もあったが……

 彼らだとて、ワンマンではあったが常識は持ち合わせていた先代の当主が死に、とんでもないバカ息子が跡を継いだために、窮地にあるのは変わらなかった。

 先程兄を止めに入った番頭が殴られた事で、彼に逆らうと同じように暴力を振るわれるとの恐怖が広がり、とても、自分の身を呈してまでチェレンチーを庇う者は居なかった。


(……誰、か……助、けて……)


 孤立無援、絶体絶命の危機に立たされたチェレンチーに……

 その時、声が聞こえてきた。

 それは、周囲の者達からではなく、チェレンチーの心の中から聞こえたものだった。


『……チェレンチー……私の可愛い坊や……』


(……母さん!……母さん、母さん、母さん!……)

 チェレンチーの両の目から、熱い涙が溢れ出し、ボロボロと零れた。


『……これからの人生は、自分ために生きて……そして、自分の幸せを見つけてね……』


『……私は……あなたが幸せに生きている事が、何よりも幸せなのよ……私の可愛い坊や、チェレンチー……』


(……そうだ、僕は……生きなきゃいけないんだった……)

 未だ、チェレンチーには、母が最後に残した「自分のために生きる」「自分の幸せを見つける」という、その言葉の意味が理解出来ずにいた。

 それでも、一つ、強く思った事があった。


(……死んだら、ダメだ!……だって……だって、僕のこの命は、母さんが僕に残してくれたものだから!……)


(……母さんは、心から僕を愛してくれた!……貧しい中、病に倒れても、必死に僕を育ててくれた!……)


(……僕が、今、ここにこうして生きているのは、母さんのおかげなんだ! 僕の命は、母さんがくれた、大切な大切な、宝物なんだ!……)


(……そして、母さんがこの世に生きていた、唯一の証でもあるんだ!……)


(……僕は、そんな大事な自分の命を、こんな所で捨てる訳にはいかない!……僕は、生きなきゃいけない!……)


 操り人形のように兄や夫人の言いなりだったチェレンチーの暗い瞳に、小さな炎が宿っていた。


「おい! 何やってる、マヌケ! さっさと自分の首を掻っ切って死ねって言ってるだろう!」

「……な、い……」

「ああん? なんだって?」

「……出来ない……そ、それだけは、出来ません! いくら旦那様や奥様のご命令でも、僕は死ねません!」


 チェレンチーは、涙の溢れ続ける目で真っ直ぐに兄を見つめて、手にしていた鮮血の滴るナイフを、思い切り投げ捨てた。

 天井の高い良く音の響く石造りの広間の床に、ナイフは、カランカランと音を立てて転がり、やがて止まった。


読んで下さってありがとうございます。

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☆ひとくちメモ☆

「チェレンチーの母親」

元はドゥアルテ家の屋敷で働いていた使用人の一人だった。

若くて美しい娘だったため、チェレンチーの父である当主に目をつけられ、チェレンチーを身ごもった。

その事が夫人に知れると着の身着のまま追い出されたが、チェレンチーには生涯無償の愛を注いでくれた。

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