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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第一節>毒花の香り
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過去との決別 #11


「父さん、今日は体の調子がいいみたいですね。」


 その日、チェレンチーはいつものように父に付き添っていた。

 朝起きて、部屋のカーテンを開け、父の体を拭いて着替えを済ませると、用意された朝食を食べさせる。

 すっかり食欲の落ちていた父ではあるが、この日は、スープを残さず飲み、その後もしばらく目を開けていた。


「後一月もすれば、春ですよ。ここからでも、庭の草木に花が咲くのが見れますね。楽しみですね。」


 チェレンチーのかける他愛ない言葉を、父はモゴモゴと口を動かしながら、落ちくぼんだ目を見開いて黙って聞いていた。

 特にチェレンチーに不満や要求など訴えるふうではなく、病の中にも彼と二人きりの穏やかな時間に静かに身を任せている様子だった。

 既に医者からは、「持って後一ヶ月半といった所でしょう。皆さん、心の準備をしておいて下さい。」と言われていたが、チェレンチーは、父には少しでも長く、心身共に穏やかな日々を過ごしてほしいと願っていた。


「父さん、見舞いに来たよ!」

「あなた、今日のお体の加減はいかがかしら?」


 珍しく、午前中から、兄と夫人が揃って父の部屋に見舞いにやって来た。

 最近は、父が朦朧とした意識の中で眠っている事が多いため、一日一回顔を出せばいい方だったのに珍しい、と内心チェレンチーは思っていた。

 兄と夫人がやって来たのを見て、嬉しそうな表情を浮かべる父を見て、ちょうど目が覚めている時で良かったと思った。

 邪魔をしないようにと、部屋の隅で、体の前で手を組んで静かに立っていた。


 「チェレンチー。」しばらくして、チェレンチーは夫人に呼ばれ歩み寄った。

 夫人は、チェレンチーに折り畳まれた一枚の紙を渡してきた。

 見ると、街の宝飾品店に頼んでいたらしいブローチの受取書だった。


「おつかいを頼まれてくれないかしら? もう出来上がっている筈だから、取ってきてちょうだい。」

「し、しかし、奥様。僕は父さんについていないといけません。どなたか他の方にお願い出来ないでしょうか?」

「この私が頼んでいるのよ! お前が外出している間は、私と息子がついているから、大丈夫に決まっているでしょう? さあ、早く行ってきなさい!」


 夫人は、高額な宝飾品なので、気軽に使用人に頼めないのだとチェレンチーに言った。

 確かに、父が病に伏してから、商売の要の役割は信用のおける古くからの使用人に任せており、彼らはいつも忙しそうだった。

 その日は父の体調が良かったのもあって、チェレンチーは、父も夫人や兄と家族水入らずの時間を過ごしたいだろうと思い、夫人の使いを受ける格好でしばらく席を外す事を決めた。


「父さん、少し出てきます。すぐ戻りますので。戻ったら、昨日料理長が仕入れてくれた、父さんの好きな苺を食べましょうね。」


 部屋を出る前に、そう、父に声を掛けた。

 父は無言ではあったが、小さくうなずき、麻痺で歪んだ口の端が微かにほころんだように見えた。



 チェレンチーは足早に街をゆき、夫人の使いを済ませた。


 夫人が宝飾品店に頼んでいたのは、黒い宝石が飾られたブローチだった。

 夫人の趣味にしては地味だと思ったが、店の主人の話では、上流階級の女性達の間では喪に服する時のアクセサリーとして用いるのが流行っているらしい。

 もう、父が死んだ時の用意をしているのかと、チェレンチーは少し沈んだ気持ちになった。

 「お代は、いつものように月末にまとめて頂戴しにうかがいます」という事だったが、箱の中に溜まった請求書の束に夫人の浪費癖の一端を見るようで不安を覚えた。


 大通りを急ぎ足で行き過ぎている際、ふと花売りの子供が目に止まった。

 花の咲く時季になると、郊外に出かけて野の花を摘み、それを道ゆく人に売るの貧しい子供達の姿を良く見かける。

 まだ、春には少し早かったが、どうやら必死に花を探して摘んできているようだった。

 チェレンチーは自分の小遣いから金を出して、小さな花束を急ぎ一つ買った。

 それは、チェレンチーが子供の頃、母と行った城壁の外の野原で摘んだ花でもあり、母の墓前に毎年備えている花でもあった。

 懐には、夫人に頼まれたブローチの小箱を大事にしまい持ち、手には花束を抱いて、チェレンチーは再び帰路を急いだ。


 ところが、本館に入って父の部屋に向かう途中で異変に気づいた。

 普段は廊下を走る事を禁止されている使用人達が、慌てふためいて走り回っている。

 途端に嫌な予感に襲われ、父の部屋に駆けつけると、もう既に、医者が呼ばれていた。

 ベッドの脇には、ハンカチーフを握り締めた手を顔に押し当ててうつむいている夫人と、彼女を支えるように立つ兄の姿があった。


 近づいていくと、ベッドに横たわっている父の顔に、真っ白な布が掛けられているのが見えた。

 医者はチェレンチーに気づき、椅子から立ち上がって、父がほんの十分程前に息を引き取った事を伝えた。

 医者も、「旦那様の容態が急変したと聞いて駆けつけてきてから、あっという間に亡くならてしまった」と言っていた。

「……まさかこんなに早く亡くなられるとは……あまりに突然の事で、なんと言ったらいいか……心からお悔やみ申し上げます。……」

 自分が病人の力になれなかった無力さに打たれている様子の医者に、何か慰めの声を掛けるべきだとは思ったが、その時のチェレンチーにはそんな余裕はなかった。


「……と、父さん!……父さん! 父さん!……うっ、うっ、うっうっうっ!……」


 チェレンチーは、ベッドに横たわった父の体に覆いかぶさって泣き崩れた。

 彼の足元には、父の枕元のチェストに飾ろうと買ってきた、春の野に咲く花で出来た小さな花束が落ちていた。



(……結局僕は、母さんの死に目にも、父さんの死に目にも、会えなかったなぁ。……)


 それが自分の皮肉な運命なのかと思い、チェレンチーはしばらく、父のベッドのかたわらで茫然自失となっていた。

 ところが、そんなチェレンチーを尻目に、夫人と兄は、早くも気分を切り替えた様子だった。


「さあ、さっそくお葬式の準備に取りかからなくてはね! 綺麗なお花をいっぱい飾って、高貴なお客様をたくさん招いて、ドゥアルテ家当主の葬儀に相応しいものにしなくてはいけないわ! まあ、忙しい事!」

「あー、コホン! 俺も、そろそろ行こうかな。どうしても外せない用事があるんだ。」

「お医者様も、本当に長い間ご苦労様でしたわ。後は使用人達に任せますから、もう帰っていただいて良くってよ。」


 夫人が目元に当てていたシルクのハンカチには、全く涙はついておらず、夫人の顔の化粧も微塵も崩れていなかった。

 兄に至っては、泣いた振りさえろくにせず、面倒ごとから逃げるように、さっさと部屋を出て行こうとしていた。

 二人が父の死を悲しむ事はあまりないだろうと予想していたチェレンチーだったが、さすがに、(父親が死んだという以上に大事な用事などないだろうに……)と、内心呆れ果てていた。


 「後は任せたわよ、チェレンチー。」そう言って、チェレンチーが持ってきたブローチを受け取ると、夫人は兄と共に足早に立ち去り……

 後に残されたのは、チェレンチーと医者だけになった。

 しかし、患者が亡くなってしまっては、もはや医者もするべき事がない。

 テーブルの上に開いていた荷物を鞄にまとめはじめた医者に、チェレンチーは声を掛けた。

 せめて、自分が居ない間に起こった父の最期の様子など聞いておきたいと思ったからだった。


「旦那様ですか?……私が来た時には、もう、酷い苦しみようで、容態を把握しようとする間もなく亡くなってしまった感じでした。」


 医者の話を聞きながら、チェレンチーはそっと父の顔に掛かっていた白い布をめくってみた。

 確かに、父は死に瀕して激しい苦痛を味わったようで、顔は恐ろしい苦悶の表情に歪んだままだった。

 両目はカッと大きく見開かれ、痩せこけて皮と骨だけになった喉は大きく反り返って、口からはよだれが垂れている。

 そんな、誰の目にも明らかな父の死を医者が目撃すると、すぐに夫人が「可哀想だから」と、父の顔を布で隠すように言ったらしい。

 「では、私はこれで失礼します。」そう言って、医者は深々と頭を下げた後、静かに立ち去っていった。


「……父さん、辛かったんだね。もう、苦しくないよね。……体を綺麗にして、服を着替えようね。……」


 部屋に一人残ったチェレンチーは、涙が滲んでくるのをこらえながら、死後硬直の始まっている父の遺体を、夫人に言われた通り綺麗に整えようと、ベッドの脇に膝をついた。


 まず、手の平で優しく撫でて開いたままの目を閉じさせた。

 その後、口の周りについたよだれを拭いて、口を閉じさせようとしたのだったが……そこで、ふと、この部屋で嗅いだ事のない匂いに気づいた。

 夫人が常に身につけている香油の残り香かとはじめは思ったが、それとは異なる甘い花のような香りだった。

 そしてそれは……死んだ父の開いた口の中から漂ってきていた。


(……ま、まさか!……)


 チェレンチーは社交界の噂にはあまり詳しい方ではなかったが、あまりに有名な話だったのでかろうじて知っていた。

 それは、とある花から簡単に毒が作れるというものだった。

 誰それが、嫉妬に狂った恋人に毒を盛られて死にかけたとか、あるいは、どこかの何某かが、長年いじめられて憎んでいた姑を毒を盛って殺そうとしたとか……

 夫人の友人である社交界の貴婦人達が話題にしてるのを、小耳に挟んだ事があった。


 その毒の材料となる花には独特な甘い芳香があり、それは乾燥させてもはっきりと香る程の強さがあって、その花から作られた毒もまた、花と同じ甘い匂いがするという。

 上流階級の貴婦人達は、巷で噂される愛憎物語にその甘い芳香を放つ毒薬が登場する事を、ドラマチックに感じていたのだろう。


 後で調べて分かった事だが、その植物は、美麗な黄色い花をたくさん咲かせ、育てるのも難しくない事から、貴族の広い庭園などには良く植えられているものだった。

 実際に、ドゥアルテ家の庭の片隅にも、何年も前から植えられていた。

 そして、その花には、間違って口にすると中毒を起こす強い毒性があった。

 たとえそれが、健康な若者にとっては、しばらく具合の悪くなる程度のものだったとしても……

 チェレンチーの父のように体力の落ちた老いた病人であったのなら、最悪命を落とすという危険も充分あり得えたのだった。



(……僕を使いに出してこの部屋から遠ざけたのは、そのためだったのか。……)


 チェレンチーは確信していた。

 もはや命が消え果てた父の体の横たわるベッドに顔を埋めて、歳よりも幼く見えるその顔を、深い後悔に激しく歪めた。


 確たる証拠は、今はない。

 しかし、良く良く探せば見つかる事だろう。

 夫人も兄も慎重な性格ではないので、どこかから入手した毒の材料となる花や、毒を作った道具、形跡、出来上がった毒の余りなどが、ボロボロと出てくるに違いない。


 しかし、チェレンチーは、犯人探しや証拠探しをする気は全くなかった。

 もし実際に毒が見つかりでもしたら、きっと大ごとになるだろう。

 それは、「このドゥアルテ家を守る」という、チェレンチーが幼い頃から父に厳しく叩き込まれてきた教えに反するものだった。


 チェレンチーは、濡れた布で丁寧に父の口をぬぐった。

 それから、片手で口元を押さえ、もう片手で後頭部を支えて、反っていた頭の位置を平行に戻し……ポッカリと開いていた父の口をしっかりと閉じた。

 顔全体を綺麗に拭いた後、日頃から乾燥を防ぐために塗っていた油を、皮膚に満遍なくゆっくりとすり込んでゆく。

 激しい苦痛で醜く歪んだまま固まっていた筋肉がほぐれ、次第に穏やかな表情へと整っていった。

 チェレンチーが父の顔を繕い終える頃には、もう、あの独特の甘い香りは感じられなくなっていた。


 医者は気づかなかったのだろう、とチェレンチーは推測した。

 医者の話では、父の容体が急変したと聞いて慌てて駆けつけてきた時には、もう既に父は激しく苦しんでいる状態で、程なく事切れてしまったという事だった。

 夫人がすぐに「可哀想だから」と言って顔に布を被せて隠した。

 父は元々「持っても後一ヶ月半」と医者から宣言されており、当の父以外皆それを知っていた。

 元気な人間がいきなり苦しんで亡くなったのなら、誰もが不審に思うだろうが、父はいつ死んでもおかしくない状態だった。

 故に、急な容体の悪化も、あっけない幕切れも、医者は、驚きつつもすんなりと受け入れてしまったのだろう。

 もちろん、この一件を表沙汰にするつもりのないチェレンチーは、父の死の真相について、今後一切、医者にも誰にも語るつもりはなかった。

 むしろ、医者が何も気づかず、波風が立たないまま事件が過ぎ去っていく事に安堵していた。


 チェレンチーはこの状況下においても、父の教えの通り、ドゥアルテ家を守る事を最優先とした。

 まるで機械のように、自分の使命を遂行する事のみに専心していた。


 しかし、彼の胸に逆巻く感情は、また別だった。

 チェレンチー個人としては、夫人と兄が父にとった行動は、到底許せるものではなかった。


(……たった一ヶ月半も待てなかったのか、あの人達は!……)


 ドゥアルテ家当主である父は、寝たきりになっても尚、この家の財産を動かす全ての権限を握っていた。

 もう、一日のほとんどをうつらうつらと浅い夢の中で過ごしていたため、店の事は信用のおける古参の使用人達に任せてはいたが、日に何度か彼らから仕事の重要な決定確認を受けていた。

 父には、まだ、それが出来るだけの判断力が残っていた。

 そんな状況を夫人と兄が疎ましく思っている事を、チェレンチーは知っていた。

 母子揃って浪費癖のある二人は、早くこの家の財産を自分達の好き勝手に使いたくてたまらなかったのだろう。


(……確かに、父さんは、もう死を待つばかりだった。あの二人が手を下すまでもなく、父さんの寿命は遠からず尽きようとしていた。……)


(……だからと言って、もう直ぐ死ぬからと言って……病に伏して弱り切っている人間に、毒を盛っていい筈がない!……)


(……どんな短い命であろうとも、身勝手に奪っていい筈なんかないんだ!……)


 チェレンチーは冬の終わりの寒さの中でゆっくりと冷えてゆく父の体の前に立ち尽くしたまま、悔しさと憎悪で、熱い涙を落とした。

 体の脇に真っ直ぐに垂らした腕の先で、爪が食い込み血が滲む程強く、両の拳が握り締められていた。

 その激しい嫌悪感は、自らの父を殺されたからという理由だけではなかった。

 たとえ、死んだ人間が、チェレンチーにとっては全く見知らぬ人間だったとしても……


(……絶対に許せない! こんなむごい行為、人として、決してしてはいけない事だ!……)


 チェレンチーは、夫人と兄の、その腐りきった性根に、醜悪な人間性に、深く絶望し、吐き気を覚えた。


 しかし、今は、そんな二人の事よりも、自分の倫理観よりも何よりも、優先させるべき事があった。

 純粋に父の死を悼む事だ。


(……父さん……もう少しだけでも、あなたと話がしたかったです。……)


 チェレンチーは崩れ落ちるように絨毯に膝をついて、両手に顔をうずめ、声を殺して泣いた。


読んで下さってありがとうございます。

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☆ひとくちメモ☆

「甘い芳香の毒花」

春になると目に鮮やかな黄色い花をいっぱいに咲かせる蔓性の植物。

花には甘い芳香があり、育てやすく華やかな事から、庭園などに良く植えられていた。

上流階級では、この花の毒を用いた事件がはやっていたらしい。

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