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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第一節>毒花の香り
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過去との決別 #9


 愛する母の死は、チェレンチーにとって大きな不幸だった。

 しかし、彼にとっての不幸は、まだ、他にもあった。



 母の死以降、チェレンチーの目に宿っていた光は消えてしまった。

 チェレンチーは、母を失った悲しみ以上の空白を、自分の中に感じていた。

 自分の胸にポッカリと穴が空いたような、いや、自分自身が丸ごと、空っぽになってしまったような気がした。


 それは、チェレンチーが、生きる希望を失ったせいだった。

 自分の生きる目的を失くしてしまった。

 それまでのチェレンチーは、ただひたすら母のために、母を一日でも長く生きながらえさせるためだけに、生きてきた。

 その方法として、医師の診療を受けさせ薬を飲ませ、清潔で温かなベッドと充分な栄養のとれる美味しい食事を用意すべく、このあまりにも厳しいドゥアルテ家の環境下で、どんな艱難辛苦にも耐えてきたのだ。


 しかし、チェレンチーがこの世で唯一大切にしていた、愛する母はもう居ない。

 となれば、チェレンチーには、これ以上このイバラの城のような屋敷で、彼の人間性や感情を完全に無視した過酷な扱いに従う理由は何もなかった。


 ところが、チェレンチーは、母の墓参りを済ませると、そのまま真っ直ぐドゥアルテ家の屋敷に戻った。

 それは、聡明で歳の割にしっかりしているとは言ってもまだほんの十三歳の少年が一人で生きていくのは難しかった、という理由ではない。

 チェレンチーが屋敷に戻った理由はただ一つ。

 「旦那様にそうするように言われたから」だった。


 そう、母を失って空っぽになったチェレンチーの中に残っていたのは、この二年半の間に叩き込まれた父の命令だった。

 ただひたすら、従順に、言われた通りに従うよう、毎日毎日木の定規で叩かれながら心と体に刻まれた、見えない呪いの鎖のような教え。

 元々素直で真面目な性格だったチェレンチーは、まるで、良く躾けられた犬のごとく、飼い主の元に戻った。

 たとえ、その飼い主が、彼に一欠けらの愛情もなく、彼を道具のように扱い、言う事を聞かなければ容赦なく痛めつけてくるような、酷い飼い主だったとしても。


(……母さん、僕、どうやったら幸せになれるのか、全然分からないよ……)


 父の取引について旅に出る前、最後に聞いた母の言葉が、今もチェレンチーの胸の中にしっかりと残っていた。

 「これからは、自分のために生きて」「自分の幸せを見つけてね」母はそう言っていた。

 その言葉も、その時の母の表情も声も、全て、焼きついたように覚えている。

 けれど……その意味が、チェレンチーには理解出来ないのだった。


 「自分のために生きる」とは、どういう事なのか?

 「自分の幸せを見つける」には、どうしたらいいのか?


 その時の空っぽなチェレンチーにとって、一番簡単だったのは、「父のため」に生きる事だった。

 今までチェレンチーは「母のため」だけを思って生きてきた。

 他の生き方など、まだ若干十三歳の少年に見い出せる筈もない。

 まして、多感な思春期に、毎日毎日父に叩かれ、その痛みと共に「わしの言う通りにしろ!」と刷り込まれてきた少年には、「今まで通り父に従う」以外の生き方など、全く考えつかなかった。


 父の居るこの屋敷で生きていく事は、決してチェレンチーにとって幸福な人生とは言えなかった。

 しかし、彼は、ごく当たり前のようにその道を選んでいた。

 「母のために生きる」という目的が、「父のために生きる」という目的に、あまりにもすんなりとすり替わっていた。


 それこそが、母の死の後に待っていた、チェレンチーにとってのもう一つの大きな不幸だった。



 虚ろな目をしたまま屋敷に戻ってきたチェレンチーは、父に「月に一度だけでいいので、お休みを貰って母の墓参りをしたい」と頼み込んだ。

 使用人でさえも、週に一日は休みをもらうのが普通の世の中で、チェレンチーの願いは、あまりにもささやかなものだった。

 チェレンチーが母の死に直面してあまりにも茫然自失となった様子を目の当たりにしていた父は、そんな彼の願いを渋々ながらも認めてくれた。

 チェレンチーは、感動して熱い涙を流し、「ありがとうございます、旦那様!」と繰り返した。


「これからもお前は、わしの言いつけを良く聞いて、立派な商人になるために励むのだぞ。お前は、将来このドゥアルテ家の当主となるお前の兄を支え、この家を守っていかねばならぬのだからな。」

「はい。……はい。全て、旦那様のお言いつけ通りにいたします。」


 そうして……

 厳しい父に徹底的にしごかれ、腹違いの兄にバカにされいじめられ、酷薄な夫人にはゴミのような目で見られるという、ドゥアルテ家におけるチェレンチーの悲しい人生は、延々と、淡々と、続いていったのだった。



 そんなチェレンチーの人生に大きな転機が訪れたのは、彼が二十歳の誕生日を過ぎたばかりの事だった。


 ナザール王国をはじめとしたこの地方一帯では、男子は、特に十五歳になった時と二十歳になった時、その成長を祝う習わしがあった。

 貧しい家庭でも、精一杯のごちそうが並び良い服を着せるものだったが、それが貴族や富豪の家ともなると、多くの客を招いて盛大に行われていた。

 貴族の家では、子供の成長を喜ぶというよりも、いよいよ本格的に息子を社交界に売り出す意味合いがあり、また、そのパーティーの豪華さで、家の隆盛を周囲に知らしめるという目的もあった。

 おかげで、見栄のために、借金をしてまで豪勢なパーティーを開く者まであった程だ。

 チェレンチーも、腹違いの兄が二十歳になった折に、屋敷で盛大な祝宴が開かれたのを見ていた。

 いつもは気難しいしかめっ面で金に厳しい父が、この時ばかりは、景気良く高い酒や料理を客に振る舞い、宝石を散りばめた衣装で着飾らせた兄を伴って来客の間を回っては、えびす顔でせっせと自分の息子を売り込んでいた。

 そんな様子を、豪華な祝宴の慌ただしい裏方の手伝いの一人として駆り出されたチェレンチーも目にしていた。

 もちろん、チェレンチーは、十五歳になった折にも二十歳になった折にも、祝宴どころか、祝いの料理も、おめでとうの言葉の一つも、父から与えられなかったのは言うまでもない。


 そんな、いつもと変わらない一日をおくって誕生日が終わり、それからしばらくしたある日の事だった。

 キャアア! という使用人の女性の悲鳴の後、「だ、旦那様が! 旦那様がぁ!」という声が聞こえ、チェレンチーが慌てて駆けつけていくと、商品を保管している倉庫の中で父が倒れていた。

 倒れる所を見た使用人の話では、父は、少し気分が悪いと言って椅子に腰を下ろし、間もなく昏倒したらしい。

 周りに使用人がたくさんおり、すぐに医者が呼ばれたのは不幸中の幸いだった。

 その後、父は、一晩昏睡したのち、目を覚ましたが……

 手や足、顔などの一部に、麻痺やしびれが出た状態だった。


「手は尽くしますが、果たして元のようにお元気になられるかどうか……」

 医者は暗い表情で、夫人と兄に告げた。

「私の経験上、倒れてから目覚めた方は居ましたが、何年かするとまた倒れて、倒れるたびに体が弱り、ついには亡くなられました。意識が戻ったからと言って、決して安心は出来ません。」


 そんな話をチェレンチーが聞いたのは、父が倒れてから何日も経ってからの事だった。

 父がチェレンチーを呼んでいるという連絡を受け、兄の二十歳の誕生日を祝うパーティー以降はじめてドゥアルテ家の人間が暮らす豪奢な本館に足を踏み入れた。

 父は、チェレンチーを見ると、顔半分が麻痺した状態でたどたどしく言葉を発し、自分の世話をするように言ってきた。

 もう数年前からは、国語や算術といった初歩的な教育は終え、一日のほとんどを店の下働きに費やしていたチェレンチーだったが、そちらの仕事はなるべく続けたまま、これからは父の看病をするように命じられたのだった。



 後から知った事だが、どうやら夫人や兄は、父のそばについている事を嫌がったようだ。

 麻痺と痺れで一人では立ち上がる事も出来ず、顔も醜く歪んでしまっている父を気味悪がり、また介護を面倒に思って避けていた。

「使用人ならたくさん居るじゃない。誰かに任せればいいわ。医者だってついているんでしょう? 素人のわたくしに出来る事はないわ。」

「お、俺は忙しいんだ! ドゥアルテ家当主代理として、父さんの代わりを務めなきゃならないからな!」

 確かに屋敷にはたくさんの使用人が居て、専属の医者もおり、後遺症が残っている父が不便な思いをする事はなかった。

 ちなみに、店の方は、古参の番頭が仕切って、父が居ない穴をなんとか埋めてくれていた。

 兄は、たまに店の様子を見に来て、ああしろこうしろと素人考えで威張り散らすばかりで、大抵は使用人達に任せて、外に遊びにいってしまった。

 夫人は夫人で、いつも通りに社交界の付き合いで忙しそうにしており、朝と夜五分程度しか父の様子を見に来なかった。



 チェレンチーは、父が倒れてからというもの、屋敷の本館への立ち入りを許され、仕事の合間を縫って足繁く看病に通った。

 医者の勧めで、少しずつ自分で立ったり食べたり出来るようにと、体を動かす訓練にも根気良く付き合った。

 夜もついているように言われたため、長らく父の寝室の端のソファーで眠っていた。

 そんな、チェレンチーの献身的な介護が実り、数ヶ月後、父は杖をつき、誰かに支えられながらではあったが、立って歩けるまで回復したのだった。

 顔に麻痺が残ってはいたが、言葉も、倒れたばかりの時よりしっかりと喋れるようになっていた。



 そうして、父は仕事に復帰した。

 当初は、もう再起は無理かと皆に思われていたため、使用人達は強い当主の復活を「奇跡だ」と喜んだ。

 医者も「並々ならない精神力の賜物でしょう」と驚き感心していた。

 さすがに、その大病以降は、大きくなった商会の業務の全てを一人で指示する事はもう無理だったが、経験豊富な使用人達に適宜任せつつも、重要な権限は変わらずしっかりと父が握っていた。


「チェレンチー! どこに居る、チェレンチー!」

「は、はい、旦那様、こちらに!」

「何をしている! お前はずっとわしのそばについているように言ったではないか!」

 チェレンチーは、一人では歩けない父の体を支え、手に麻痺の残る父の代わりに文字を書き、日中はほとんど離れず付き添うようになった。


 更に、父が回復した事から、再び使用人用の自分の部屋で寝起きする事になるのだと思っていたが……

 父は、チェレンチーに、これからは本館の一室で暮らすようにと命じてきた。

 それに合わせて、今までは最低賃金の使用人と同じものだった彼の服も、豪奢な本館で浮かない程度に仕立ての良いものを着るように言われた。

 それからは、父が食事をする時も、風呂に入る時も、着替えも移動も、全てチェレンチーが付き添って世話をするようなった。

 チェレンチーは、父が自分の部屋のベッドで眠りについたのを確認してから、そっと自分の部屋に戻って休んだ。


 チェレンチーが本館に出入りするだけでなく、本館の一室で暮らし始めた事で、当然、夫人と兄は、強い不快感を示した。

 しかし、父からどんな話を聞いたものか、(まあ、面倒な事は、全てあれに押し付けられるのだったらいいか)と思ったらしく、その内何も言ってこなくなった。

 同じ建物に住むようになっても、チェレンチーを忌み嫌っている二人が彼と交流を持つ事は相変わらずなく、屋敷の廊下ですれ違う折に顔を会わせる機会が増えただけだった。

 チェレンチーは二人を見ると、いつも深く腰を折って挨拶していたが、夫人は無視を決め込み、兄は尊大な態度でフンと鼻を鳴らすばかりだった。



「実は、これは私の息子なのですよ。」

「おや、そうでしたか。」

「使用人に産ませた子供なので、お恥ずかしくてなかなか表に出せないでおりましたが、これも二十歳になり、そろそろドゥアルテ家の人間として世間に顔見せしなければと思っている所です。」

 上顧客であり、友人としても親交のある貴族の男に、父がそう言うのを見て、チェレンチーは目を丸くした。

「まあ、まだまだ未熟者なので、当分商売の方は任せられそうにもありませんが。親しくしているお客様には、少しずつお話ししていこうかと思っております。」


 巨大な岩のようだった父の心に、大病の経験から何か変化があったのだろう。

 父のチェレンチーへの態度が、少しずつ軟化していっていた。

 気がつけば、チェレンチーは、もう久しく父に叩かれていなかった。



 ドゥアルテ家当主である父が、チェレンチーを「自分の息子」だと外部の人間に話し出した事は、すぐに夫人と兄の耳に入ったようだった。

 二人は、入れ替わり立ち替わり凄い剣幕で父に詰め寄ってきた。

 それまでは、チェレンチーの事を使用人に毛が生えた程度だと考えていた二人だったが、ここにきて俄然チェレンチーが時期当主の座を脅かす存在に感じられたのだろう。


「馬鹿を言え。わしがこれに我がドゥアルテ家の将来を任せる筈がない。しかし、これは、商人になるべく長い間修行を積んできた身だ。きっと、お前達の役に立つ事だろう。」


 父は、夫人と兄をそう言ってなだめた。

 父の言葉に偽りがないのは、そばで聞いていたチェレンチーも良く知っていた。

 父は、相変わらず、自分の跡目は兄に継がせるものと決めており、その考えは全く揺らいでいない。

 しかし、一方で、自分の命令を忠実に聞く優秀なチェレンチーに信頼を寄せ始めてもいた。

 ただ、それは、自分が手塩に掛けて躾けてきた番犬が立派に育った、という感覚でしかなかったが。



 チェレンチーは、自分に対する父の態度が軟化している事に驚きはしたが、だからと言って、今まで以上の何かを父に求める気持ちは更々なかった。

 父に愛されていないのは良く良く知っていた。

 兄がどんなに我儘で冷たい態度をとっていても、父は変わらず兄だけを自分の子供として溺愛している。

 その事に、特に不満はない、今までもずっとそうだったのだから。

 ドゥアルテ家において、父の血を引いているとはいっても、自分はあくまで裏方で、今は父を、やがては跡を継いだ兄を支えて、この家の繁栄を守っていくのが自分の使命なのだと、チェレンチーは当たり前のように思っていた。


 しかし、これ以降、いっそう兄が自分に突っかかってくるようになったのには、内心閉口していた。

 また、今まではまるで見えていないかのように完全に無視を決め込んでいた夫人まで、チェレンチーを見るとチクチクと嫌味を言うようになっていた。


 それでも、チェレンチーは、愚痴一つ零さず、従順に真面目に、父の言いつけを守って……

 献身的に父を支えつつ、日々の仕事にいそしんでいた。


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「ドゥアルテ家の屋敷」

ナザール王国を代表する大商人であるドゥアルテ家の屋敷は、貴族や富豪の屋敷が立ち並ぶ王都中央区にある。

広い敷地内には、豪奢な本館や贅を凝らした中庭などの他に、使用人の住む別館があった。

チェレンチーは、ドゥアルテ家に来た当初、母と共に別館の一室を使用していた。

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