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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第一節>毒花の香り
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過去との決別 #8


 ドゥアルテ家当主の妻であるドゥアルテ夫人は、兄とは違い、チェレンチー母子に無関心だった。

 向こうから積極的に話しかけてきたり、接触してきたりといった事はなかった。

 と言うよりも、極力避けている印象だった。


 チェレンチーは、移動している時屋敷の渡り廊下において、または働いている店先において、時折夫人を目にする事があったが……

 向こうはまるで、そこにチェレンチーが居ないかのように、彼の存在を完全に無視していた。

 稀に目が合うと、すぐにサッと視線を逸らされた。

 その、目が合ってから逸らすまでのほんの一瞬、夫人の目の奥を見たチェレンチーは、その冷たさにゾッと背筋が凍る思いだった。

 おそらく、チェレンチーと、彼の背後に居る母親の存在は、夫人にとって、今すぐ消し去りたい程不快なものだったのだろう。

 ある意味、兄とはまた違った強い嫌悪感を抱いている事が知れた。

 いや、憎悪という意味では、兄よりももっと根深く容赦なく残虐な気配だった。

 醜い虫、あるいはそれ以下の何かを見たかのような……人間が自分以外の人間に向けるべき優しさや親しみの感情が一片も感じられないものだった。


 チェレンチーはそんな夫人の目を見た時からしばらく、母に何かされるのではないかと心配でならなかった。

 しかし、昔は美しかった母も、今は病で見る影もなくやつれ、使用人の住まいである別館の小さな一室から出てくる事はない。

 チェレンチーの父である当主の関心も、今はすっかり母から離れ、一度も様子を見に訪れなかった。

 そんな状況を知っているのか、婦人はもう母の事を全く相手にしておらず、自分の脳から存在しないものとして排除し終えている様子だった。

 ともかくも、母の身の安全が保たれている事にチェレンチーは安堵した。



 夫人は外見も立ち居振る舞いも派手な人物だった。


 父とは、絵に描いたような政略結婚だったそうだ。

 ドゥアルテ家の商売を広げる資金を確保するため、地方富豪の娘であった彼女を妻にしたのだ。

 今は、父の長年の働きの末に、国を代表するような大商会となったが、それまでには長い年月と苦労があった。

 父の代の初めの頃は、夫人の父親の資金援助が商会にとっての命綱であったため、父は長い間夫人に頭が上がらなかった。

 夫人は、顔に性格のきつさが表れているものの、まず美人の部類で、衣食住は贅沢で派手なものを好んだ。

 その地方では並ぶもののない豪族の長である父親に蝶よ花よと可愛がられて育ったためか、自分の思い通りにならないと癇癪を起こすわがままな所があり、基本的に自分以外の人間のほとんどを下に見ているような人物だった。



 チェレンチーは、たまに夫人が日中中庭で友人の女性達に囲まれているのを見かけた。

 おそらく、屋敷内のサロンでのお茶会や広間での舞踏会なども頻繁に行われていたのだろうが、そちらはチェレンチーは目にする機会がなかった。

 中庭の木々は、庭師によっていつも隅々まで手入れが行き届いており、一糸乱れぬ整然とした幾何学的かつ人工的な美しさが保たれていた。

 その一角の東屋で、高貴な身分の女性達は、お茶やお菓子をつまみに、飽きもせず社交界の噂話に興じていた。

 たまに、渡り廊下をゆくチェレンチーの存在に気づく女性が居て、夫人に媚を売ろうとしてか、聞こえよがしに話す事があった。


「奥様、例の卑しい女は、あれからどうしているのです? 相変わらず蜘蛛のように図々しく、このお屋敷に住み着いているのかしら?」

 それに乗って、他の女達も、口々にチェレンチーの母の悪口を並べ立てた。

 「泥棒猫」「召使いの分際でお屋敷の主人に色目を使うなんて、犬猫よりも節操がないわ」「でももうすぐ死ぬのでしょう? 天罰が下るとはこの事ね」「本当に、そんな悪い女は早く死んでしまえばいいのに」

 風に乗って聞こえてくる、口さがない言葉に、チェレンチーはギュッと拳を握りしめて耐えていた。


 しかし、夫人は、気の強そうな眉をひそめて「そんな話はやめてちょうだい、あなた達」と取り巻きの女達を止めた。

「わたくし、昔から醜い虫は大嫌いなのよ。だから、わたしくの前で虫の話はしないでちょうだい。」

 そう言って、すました顔で白磁のカップから茶を飲んだ。

 取り巻きの女性達はしばしキョトンとしていたが、やがて……

「そうね、奥様のおっしゃる通りね!」

「私も虫は嫌いですわ。虫の話はやめにしましょう。」

「卑しいものとはいえ、せめて人間の話をいたしましょうよ。人間と虫では、生まれも住む世界も違いますものね。」

 女達はしばらく笑い合ったのち、また元の噂話に戻っていった。



 こんなあからさまな事がなくとも、チェレンチーは、ドゥアルテ家の人間に自分が同じ人間として扱われていない事は知っていた。

 ただ、母を悪く言う事だけは、どうしても許せなかった。

 自分はどんなに虐げられても侮辱されても構わない。

 しかし、母の尊厳を踏みにじる人間には、温和なチェレンチーも嫌悪感を禁じ得なかった。

 母が、どんなに優しく愛情深く清廉な人間であるかは、息子であるチェレンチーが一番良く知っていた。


 この時はまだ幼くて、男女の機微が理解出来なかったチェレンチーだったが、後になって、当時から屋敷に仕えていた使用人達から伝え聞いた話によると……

 真実は、あの女達が勝手に騒いでいたように、チェレンチーの母が当主である父を誘惑したのではなかった。

 きつい性格の夫人に頭の上がらない父が、抑圧された欲望を、若くて美しい下働きの娘に向けた。

 身寄りのない娘は屋敷の主人の命令を断る事が出来ないままに、無理やり体を使われ、それが繰り返される内に、子を身ごもった。

 その事実が、やがて夫人の知る所となると、夫人は烈火のごとく怒って、身重の娘を着の身着のまま屋敷から叩き出したのだった。

 そして、娘を身ごもらせた当人の当主も、完全に無視を決め込んだ。

 当主にとっても、使用人である娘は、自分と同じ人間ではなく、自分の好き勝手に摘んだり捨てたり出来る庭の花と同じだったのだろう。



 自分には一切愛情はなく、兄の優秀な道具にするために、叩いて厳しくしつけてくる父。

 事あるごとに稚拙な嫌がらせをしてくる、放蕩癖のある意地の悪い腹違いの兄。

 そして、醜い虫でも見るかのように、自分達母子を憎み嫌っている夫人。

 チェレンチーの周りには、彼の肉体や精神や人としての誇りを蝕む人間ばかりだった。


 それでも、チェレンチーはいいと思っていた。

 母が居さえすれば、母が生きて、自分のそばに居てくれさえすれば、それだけで充分自分は幸せだと思っていた。



 しかし、そんなかりそめの幸せも長くは続かなかった。

 父であるドゥアルテ家当主の経済的な援助のもと、医者は熱心に母の診察を続け、薬もしっかりと与えてくれていたが、それでも、不治の病におかされた母の体からは、日一日と、確実に命の炎は失われていった。


 やがて、母は、一日中ベッドに横になったまま、うつらうつらと浅い眠りの中で過ごすようになっていった。

 日に日に食事の量が減っていき、医者の処方する薬も飲みたくないと言うようになった。

 チェレンチーは、なんとか母に食事と薬を取って欲しいと願ったが、医者は「もう体が限界なのでしょう。お母さんもそれを自覚しているようです。」と告げた。

 チェレンチーは、医者の事は信頼していたが、その言葉だけはどうしても信じられなかった。


「母さん、ちゃんと薬を飲まないとダメだよ。病気を治して、早く元気にならなくちゃね。」

「……私には、もういいのよ。もったいないわ。……」


 母は、チェレンチーが口元に持っていった白湯さえも、むせてしまってほとんど口に出来なくなっていた。

 気がつけば、かつて元気だった時の美しさは見る影もなく、母は痩せ衰えていた。

 目は落ち窪み、頰はこけ、皮膚は乾いて粉を拭き、骨と皮ばかりの体となっていた。


 チェレンチーは、母に最善の治療を受けさせるためにここドゥアルテ家にやって来たのだったが……

 ここに来てからというもの、毎日商人になるための勉学に、商売の手伝いにと朝から晩まで忙しく、母と接する時間は著しく失われていた。

 今にも折れてしまいそうな程痩せこけた手を握りしめながら、忙しさにかまけて、母がここまで弱っていた事に気づかなかった自分をチェレンチーは悔い責めた。


「母さん、もうすぐ春だよ。母さんは春が好きだったよね。春になったら、旦那様に頼んで、お休みを貰うよ。前のように、街の城壁の外の野原に一緒に花を見に行こうよ。」


「約束だよ。だから、それまでに元気にならなくっちゃ。ご飯をたくさん食べて、薬もしっかり飲むんだよ。お願いだよ。」



 しかし、もうすぐ春になろうという頃、父であるドゥアルテ家の当主が、他の町での仕入れにチェレンチーを連れて行くと言い出した。

 チェレンチーは、母の容態が悪い事を理由に断ろうとしたが、案の定激怒した父に定規で叩き伏せられた。


「馬鹿者め! そんな甘い考えで、こらからのドゥアルテ家を守っていけると思うのか! 覚悟が足りん!」


「これは大事な取引なのだぞ! それにお前を連れて行って勉強させてやろうという、わしの気持ちが分からないのか!」


 結局、チェレンチーは父に逆らう事が出来ず、出立が決まった。

 チェレンチーは、不安と母を放っていく申し訳なさで、胸が潰れそうだった。

 前日の夜は、一睡もせずに、母の横たわるベッドのそばにずっと付き添っていた。


「……母さん。母さん、ごめん。一週間、いや、二週間で必ず戻って来るから。それまで一人きりにしてしまって、本当にごめん。……」

「……チェレンチー、私の事はいいのよ……私の方こそ、私のせいであなたに無理をさせてばかりで、本当にごめんなさいね……私は、ダメな母親だわ……」

「そ、そんな事ないよ! 母さんは、世界一素敵ないい母親だよ!」


 チェレンチーが王都から遠く離れた町の取引についていくその当日の朝、母は、すまなそうに、愛おしそうに、痩せ細った指で息子の灰金色の巻き毛を撫でて微笑んだ。


「……チェレンチー、良く聞いて……もう、私の事は気にしなくていいのよ……あなたは、自分のために生きて……」


「……これからの人生は、自分ために生きて……そして、自分の幸せを見つけてね……」


「……私は……あなたが幸せに生きている事が、何よりも幸せなのよ……私の可愛い坊や、チェレンチー……」


 やつれ果ててはいても、自分を見つめる母の優しい瞳に、チェレンチーは、幼い頃から何一つ変わらない深い愛情を感じた。



 そうして、チェレンチーは、後ろ髪を引かれる思いで旅立った。

 旅先での取引の結果は上々で、父の機嫌は珍しく良かった。

 チェレンチーも、様々な経験が出来て、商人になるために有意義な旅だったと思っていた。


 王都の屋敷に帰ってきて、一週間も前に母が息を引き取った事を知るまでは。



「……母さん……母さん……母、さ……ん……」


 春を告げる暖かな霧雨が、緑の下草に覆われた墓地に降っていた。


 亡くなったチェレンチーの母の遺体は、チェレンチーが王都を留守にしている間に、屋敷内にあるドゥアルテ家代々の墓ではなく、王都の城門を出た郊外の墓地に葬られていた。

 王都で亡くなった多くの一般市民が眠っている墓地だった。

 結局、生きている時も死んでしまってからも、一度もドゥアルテ家の人間として認められる事のない母だった。

 しかし、チェレンチーはそれでいいと思った。

 最後まで一度も母に会いに来なかった冷たい父や、母を憎み嫌っていた夫人や、その息子らの住むあの屋敷の土の下では、母も気が休まらないだろうと思ったからだ。

 市民墓地の一角に名前を刻んだ墓石を用意してもらえただけで充分だと感じていた。


 当初、母の墓参りがしたいというチェレンチーを、父はいつものように激しく定規で叩いた。

 しかし、どんなに叩いても、チェレンチーはうずくまって泣き続けるばかりで、言う事を聞こうとしなかった。

 最終的には、父が根負けして、一日だけという条件で、チェレンチーに休暇を与えた。


 最愛の母の死を知ってからのチェレンチーは、まるで魂が抜けたようだった。

 青ざめた顔に、虚ろな目。

 食事もろくに口にせず、ボサボサの髪と乱れた衣服のまま、フラフラと辺りをさまよう様は、ドゥアルテ家当主である父や、夫人、腹違いの兄をはじめとして、屋敷の使用人達をもおびさせる程だった。


 チェレンチーは、母の墓前に、来る途中で寄った、母と来ようと思っていた野原で摘んだ花を供えた。


「……母さん、春だよ。母さんの大好きな、春が来たよ。今年も、綺麗な花がたくさん咲いていたよ。……」


「……母さん、一緒に見に行こうって約束したのに、どうして……どうして、居ないの?……どこに居るの、母さん?……」


 細かな霧雨が白い薄幕を掛けつつも、ナザールの王都郊外の春の景色は、ゆるやかな起伏の続く丘陵が真新しい緑に包まれて、牧歌的な美しさに満ちていた。

 チェレンチーは、濡れるのも構わず、薄明るい曇天を仰ぎ、また、墓石の前の緑の萌草に倒れるように伏して……

 泣き続けた。

 人気のない墓地に、一人の少年の慟哭が長い間響いていた。


「……母さん!……母さん!……うっうっうっ……うああぁぁぁー!……」


 いくら泣いても、愛する母は戻ってこない、もう二度と会う事は叶わない。

 ……身も心も張り裂けるような悲しみを、チェレンチーは初めて知った。


 チェレンチーはその春、十三歳になったばかりだった。

 ドゥアルテ家に引き取られて、およそ二年半後の出来事だった。


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆ひとくちメモ☆

「ナザール王都の郊外の墓地」

ナザール王都内には墓地を作るスペースがないため、一般庶民は、王都の城壁の外、郊外の墓地に埋葬されるのが一般的だった。

ただし、城下に広い敷地の屋敷を持つ貴族や富豪はこの限りではなく、敷地内に各々の家の墓を持っていた。

王城の敷地内にも、歴代の王族を埋葬し祀っている一角がある。

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