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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第八章 過去との決別 <第一節>毒花の香り
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過去との決別 #7


 屋敷についたチェレンチーは、綺麗に体を洗ったのち、新しい服に着替えさせられた。

 そうして、屋敷の中庭で、初めて自分の父親に会った。


 チェレンチーは、一目見て、間違いなくこの人物が自分の父なのだと悟った。

 歳は、母とは親子程も離れている。

 立派なヒゲを蓄え、豪華な衣服に身を包み、いかにも気難しそうな表情を浮かべているが、そのふっくらと頰に肉のついた丸顔や、灰金色の巻き毛や、小さな丸い目は、チェレンチーの容姿と酷く似通っていた。

 いや、そんな外見的特徴の一致がなくとも、体の中を流れる血が、本能的に、この人間こそが間違いなく自分の父親だと告げていた。

 それは、向こうも同じだったようだ。

 使用人に連れられてやって来たチェレンチーを初めて見た時、しばらく目を見開いて言葉を失っていた。


 膝をついてこうべを垂れるチェレンチーに、父であるドゥアルテ家の当主は、一切優しい言葉も態度も見せなかった。


「これから、お前を、この家の、わしの息子として育てる事に決めた。ドゥアルテ家の名に相応しい立派な人間になれるよう、しっかりと励むように。」

 自分の事は、当面「旦那様」と呼ぶようにと言われた。

「旦那様にお願いがあります!」

 さっそくチェレンチーは、この屋敷にやって来た一番の目的を切り出した。

 病を患っている母にしっかりと治療を受けさせてほしい、体力を回復するのに充分な衣食住を与えてほしいと、必死に訴えた。

「フン。いいだろう。しかし、その代わり、お前はわしの言う通りに、これから商人になるための勉学に専心するのだ。お前に商人としての見込みがないとわしが判断した時は、お前とお前の母親は、元の暮らしに戻るのだという事を忘れるな。」

「はい!」

 チェレンチーはひざまづいてこうべを垂れたまま、力強い声で答えた。



 結局、ドゥアルテ家当主は、チェレンチーに父親らしい話は全くせずに、事務的に一方的に目的を伝えて立ち去っていった。

 病に伏している、かつて自分と関係のあったチェレンチーの母親の様子を部屋に見に来る事もなかった。


 チェレンチーは、そんな実の父親の態度を目の当たりにしても、特に傷つきはしなかった。

 おそらく、父に、自分達母子への愛情はないだろうと予想していたためだ。

 少しでも愛情があれば、貧民街で苦しい生活を送っていた自分達を十年以上放っておく筈がないと思ったのだった。


 そんな父が、どうして今頃になってチェレンチーを自分の息子と認め屋敷に連れてきたのか?

 その意図はまだ分からなかったが、ともかくも、チェレンチーに他に道はなかった。

 この屋敷で商人としての勉学に励み、父である当主に認められなければ、病におかされている母を救う事は出来ない。

 チェレンチーは覚悟を決めた。


「母さん、僕、頑張るよ! きっと、母さんの病気を治してあげるからね!」

 チェレンチーは、伏せっている母のベッドの脇に膝をつき、痩せこけた母の手を握りしめて誓った。

 母は、心配そうな目でチェレンチーを見つめていた。


 チェレンチーと母親は、ドゥアルテ家当主の一家が暮らす豪華な本館ではなく、使用人達が暮らしている別館の一室に部屋を与えられた。

 それでも、三食賄いが出て、清潔な衣服やベッドもあり、今までの貧民街の下宿に比べれば天国のような環境に思えた。



 屋敷に着いた翌日には、チェレンチーの願い通り医者が母親を診察にやって来た。

 ドゥアルテ家の屋敷には当主一家だけでなく、多くの使用人が住んでおり、彼らの健康を管理するために専属の医者が居たのだった。


 そこで、チェレンチーは、絶望的な事実を医者から聞く事になった。

 どうやら、母の患っている病は、治すすべがない不治の病であるらしい。

 ただ、安静にして、定期的に薬を服用し、栄養のある食事をとっていれば、寿命は延びるとの事だった。

 チェレンチーは必死に、最善の治療をしてくれるよう医者に頼み込んだ。

 医者は、出来るだけの事はすると言ってはくれたが、薬代が決して安くない事を同時に告げた。

 チェレンチーは、母には、この話はしないようにしてほしいと医者に言った。

 治療を続ければ、いつかはまた元のように元気になれると、母には伝える事にした。


 チェレンチーは、この屋敷にずっと置いてもらうため、父の望み通り立派な商人にならなければと、ますます強く思うようになった。

 チェレンチーが真面目に勉学に励んで、結果を出し続ける限り、父は母の治療代を払ってくれるようだった。

 大商人であり富豪でもある父にとって、世間一般では高価とは言っても、母の薬代は大したものではないのだろう。

 今は、その父の経済力に、一も二もなくすがる他なかった。



 すぐにチェレンチーの教育が始まった。

 文字の読み書き、数字の理解と計算、ソロバンの扱いなど、商人にとって必須な知識や技術は当然の事……

 この国をはじめとした世界各国の歴史や文化についての教養、社交界のような公の場に出ても恥ずかしくない礼儀作法、そして、心身を鍛えるために剣術を主とした武術の訓練も行われた。


 チェレンチーは、残念ながら運動神経が悪く、一生懸命訓練に励んだものの、武術の腕はさっぱり上達しなかった。

 しかし一方で、文字の読み書きや計算などの商人に必要な分野は、人一倍飲み込みが早かった。

 その他、歴史や文化といった教養も良く覚え、礼儀作法も身につけ、更には、社交界の人間が喉から手が出る程欲しがる美的センスも、非常に優れたものを持っている事がやがて分かってきた。

 チェレンチーには十二分に、商人となる資質があった。


「フン。わし程ではないが、なかなか見所があるようだな。決して驕る事なく、この調子で励むのだぞ。」

 そんなチェレンチーの様子に、父であるドゥアルテ家当主も満足そうな様子だった。



 しかし、チェレンチーの勉学の日々は決して甘いものではなかった。

 朝は日が昇る頃から剣を振り、朝食の後、国語、算術、歴史、と昼食まで休みなく授業が続く。

 どうやら、父親であるドゥアルテ家当主がチェレンチーを一人前の商人に育てようという意気込みは本物のようで、チェレンチーには、父が選んだ一流の家庭教師がつけられていた。


 午後は、家業に慣れるようと店に出て働かされた。

 と言っても、商いの中心を扱う事はなく、掃除や荷物の整理といった下働きだったが。

 商人の父は、半人前のチェレンチーに金銭を扱う仕事を任せたりはせず、逆に「金には絶対触れるな」と厳しく言いつけられていた。

 店で様々な雑用をこなしながら、他の使用人達の働きぶりを見て、自分で学ぶようにと言われていた。


 店の雑用は夕方の賄いを挟んで夜遅くまで続き、母の寝ている自分の部屋に戻る時、チェレンチーはいつも疲れ切っていた。

 母の寝顔を見て、ホッと心が癒されるのも束の間、すぐに自分のベッドに倒れるように寝転んで泥のように眠る日々が続いた。


 父は、商人としての仕事が忙しいのもあって、当初チェレンチーの様子を見に来る事はあまりなかった。

 我が子というよりは、弟子といった扱いであり、普通の家族のように一緒に食卓を囲んで食事をとりながら話をするといった事は全くなかった。

 しかし、チェレンチーに商人としての見込みあると知ると、一日に一回は、彼の勉強を見に来るようになった。

 父がやって来ると、家庭教師は部屋の隅に下がらされ、直に父が教鞭をとった。

「また間違えているぞ、馬鹿者め! そんな事も出来ないで、この家の商売を任せられるか!」

 父の教え方は厳しく、少しでもチェレンチーに至らない所があると、手にした木の物差しで容赦なく体を叩かれた。

 酷い時には何日も跡が残る程で、それを見て母が心配するので、チェレンチーは、母の眠っている隙に素早く着替える癖がついた。


 そうして、日々勉学や店の手伝いに追われ忙しく過ごしている内にも、少しずつドゥアルテ家の屋敷での生活に慣れていったチェレンチーは、次第に自分の置かれた状況を理解していった。

 いや、嫌でも知る事となった。



 チェレンチーの実の父親であるドゥアルテ家二代目当主には妻がおり、その間に息子が一人あった。

 チェレンチーとは十歳年の離れた腹違いの兄である。

 兄には、良く、理不尽に酷い目に遭わされた。


 チェレンチーが一日の内で自由に出来る僅かな時間を母と過ごそうと、昼食時、裏庭を突っ切って足早に使用人の住む建物へと向かっていると、待ち伏せしていたらしい兄が、友人達と共にどこからか現れた。


「おい、召使い。お前、剣が苦手なんだってなぁ。俺様が稽古をつけてやる。ありがたく思えよ。」


 もちろん、稽古をつけるなどというのはていのいい名目で、チェレンチーは一方的に木刀で叩かれるばかりだった。

 元々運動神経が悪い上に、二十歳の兄とは体格が違い過ぎた。

 兄が引き連れている友人達は、チェレンチーが小さな体を丸めて必死に逃げ回るの見て、いつもゲラゲラ笑っていた。

 稀に兄の剣をさばいて打ち返そうものなら、「生意気な!」「薄汚いドブネズミの分際で、身の程を知れ!」と、怒り狂った兄に、尚更酷く叩かれるばかりだった。


 チェレンチーが母のためにと取っておいた菓子を勝手に捨てられた事もあった。

 勉強用の黒板が折られていたり、教本が破かれているといった妨害も日常茶飯事だった。


 チェレンチーの指導に来た父である当主は、勉強道具が何者かに壊されいる有様を見た時、しばし呆然としていたが、「自分のものはしっかりと管理しろ」と、チェレンチーを定規で叩き伏せてきた。

 兄の仕業と気づいており、二十歳を過ぎてまだそんな子供じみた悪さをする人間性に呆れている様子ではあったものの、その事で兄を叱るような事はなかった。


「父さん、小遣いをくれよ。」

「なんだ、またか。もう今月は充分やっただろう?」

「あれっぽっちで足りる訳がない。女を買うにも酒を飲むにも、大人は金が必要なんだよ。社会勉強が必要だって、父さんも良く言ってるじゃないか。」


「女も酒も程々にしておけ。それから、決して博打には手を出すなよ。」

 そう言いながらも、父は、懐から金糸の刺繍の施された財布を出して、兄の手に金貨を何枚か渡してやっていた。

「もう少し弾んでくれよ、父さん。」

 兄は、開いた父の財布から、更に勝手に金貨を数枚素早く取り出して、逃げるように去っていった。


 兄は、まだ十五、六の頃から、歓楽街で遊びまわっているという噂だった。

 取り巻きの友人らを引き連れ、毎夜のように出かけては、金にあかせて、女を買い、酒を飲み、そして、その頃から博打にも手を出していた。


 そんな、放蕩癖のある金持ちのバカ息子の典型のような兄を、あのチェレンチーには鬼のように厳しい父が、酷く可愛がっていた。

 一応、人前では厳格な父親という体面を保ってはいたが、目の中に入れても痛くないといった様子が、言動の端々に漏れていた。

「全く、しようのない奴だ。」

 良くそう零していたが、チェレンチーは、父が兄を厳しく叱っている所を一度も見た事がなかった。


 同じ屋敷に住んでいれば、自ずと兄の噂は耳に入ってくる。

 どうやら、兄は、勉強が嫌いで良くサボったり抜け出して遊びにいったりしていたらしい。

 もちろん、父は、兄にもチェレンチーと同様か、それ以上の教育を施そうと必死だった。

 金に糸目をつけず広く優秀な家庭教師を雇い入れ、兄を立派なドゥアルテ家次期当主にするために手を尽くしていた。

 しかし、当の本人が大の勉強嫌いで、すぐ逃げ出してしまうのでは話にならなかった。


 チェレンチーには商人としての才能があったが、兄にはなかった。

 努力を惜しまず日々勉学や下働きに励むチェレンチーと、のらりくらりと逃げて遊んでばかりいる兄では、そもそも比べるべくもなかったが。


 しかし、現ドゥアルテ家の当主である父は、自分の跡を継がせるのは兄しか居ないと思いつめている様子だった。


「もうちょっとしっかりしないか。お前はわしを継いで、このドゥアルテ家の当主となる人間なのだぞ。もっとその自覚を持て。」

 そう、兄の顔を見るたびに言っていた。

 兄は、耳にタコが出来たというようなうんざりした顔で、「分かってるよ、父さん。」と、いつもおざなりの返事を返すばかりだった。


 そして、一方で父は、チェレンチーに対しては、容赦なく定規を振り回して叩きながら、命令するように繰り返していた。


「いいか、チェレンチー! お前の役目は、あいつを支えてこの家とこの家の商売を守る事だ! そのために、ひたすら努力しろ! 貧民街で餓死寸前だったお前と母親を救ってやった、このわしの恩にしっかりと報いるのだ! いいな!」


「……はい!……はい! 旦那様!……必ずお言いつけ通りにいたします! ご恩は決して忘れません!」


 血が滲む程の痛みと共に、その身に、その心に、チェレンチーは日々父の執念を刻まれていった。


 聡いチェレンチーは、もうその頃には、このドゥアル家における自分の役割を認識していた。

 父が、長年放置していた自分をこの屋敷に引き取った理由を察していた。


(……僕は、兄さんを……次期当主を支えて、このドゥアルテ家を守るために呼ばれたんだ……)


 辣腕の商人であった父は、兄を溺愛しつつも、彼では自分が築き上げたこのドゥアルテ家の商売を守れないと踏んだのだろう。

 しかし、どうしても愛息子に自分の商売を継がせたい。

 となると、誰か優秀な人間を補佐として息子につける事を考えるのが普通だ。

 だが、猜疑心が強く、かつ自分が必死になって積み上げてきた財産に強い執着のある父には、どんなに優れた人物であろうとも、赤の他人に息子を任せる事には抵抗があった。

 いや、優秀な者ならば尚更、愚かな息子に嫌気がさして、あるいは野心を抱き、この家を乗っ取ろうとするかもしれない。


 そこで、父は、十年以上忘れたように放っていた自分の血を引くチェレンチーを屋敷に迎え入れて、次期当主を支え、このドゥアルテ家を守るに足る人間にするために、徹底的に教育を施す事を決めたのだった。


(……僕は、旦那様の、この家の……道具に過ぎないんだ……)


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆The 13th Sage ひとくちメモ☆

「ナザール王都の住居」

都中央の人工の小高い丘の上に王城が建っている。

王城を取り囲むその周辺、中央地区には、貴族の屋敷が並ぶ。

都と平原との境界である城壁に近い外周地区には、一般市民の住居がひしめき合っている。

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