望まぬ不和 #2
「なんかねー、不思議なものがいっぱい見えたよー。見えたっていうか、感じたのー。暑いとか、寒いとか、いろいろ、たくさんー。」
ティオの精神領域にあった果ての見えない巨大な構造物……
サラはその本質が「壁」ではないと分かってはいたが、とりあえず「不思議な壁」と呼んでいた。
その表面には、奇妙な模様を描くかのように溝が刻まれており、その溝の中を覗くと、溝の中にもまた複雑な模様を描いて溝が走っていて……
その溝の中にも、溝の溝の中にも、溝の溝の溝の中にも、不可思議な構造と模様は延々と続いていた。
その無限とも思える溝の片隅に、チラと見覚えのある風景を見たと思って、そちらに意識を向けた時……
サラの精神は、ゴウッと吹き荒れる暴風に飛ばされるように、どこか遠くへとさらわれたのだった。
「見た事もない場所を見たよー! なんだか、おっきな砂の山があったりー、水の上で分厚い氷がぶつかり合ったりしてるのー!」
「それからねー、いろんな生き物になったなぁー。……ヤギだったりー、小鳥だったりー、虫だったりー、キノコだったりー、ほんといろいろな生き物だったよー。それでねー、生まれてー、必死に食べて大きくなってー、でも、死んじゃってー。それを、たくさんたくさん繰り返したのー。……なんだか、すごーく長い時間が流れたような気がしてたけどー、こっちの物質世界ではまだ真夜中だからー、本当は全然時間が経ってなかったんだねー。不思議な感じー。」
「あ! それでね、それでね! 最後にとっても怖いものを見たのー! ううん、見たっていうか、体験したって言った方がいいかなー?」
「怖い体験?」
サラは、「不思議な壁」に触れる事で奇妙な体験をいろいろとする事になったが、中でも一番最後の体験が特に強烈に脳裏に刻まれていた。
物質世界に戻ってきて、自分のベッドに横たわり、ずいぶん落ち着いた状態になったと感じていたものの、今でも思い出すと反射的にブルブル体が震えてくる。
サラは、思わずバッと上半身を起こし、ベッドの端に腰掛けているティオにグッと顔を近づけて語った。
「あ、あの時は、私ー、たぶん、人間、だったと思う。……そう、人間の女の人ー! フワッとした白いワンピースを着てたもん。それから、モコモコしたあったかい上着も着ててー、寒い場所だったなぁ。真っ赤な夕日が、山の向こうに沈んでいくの。私は、木で出来た小さな家の中に居て、窓からそれを見てるのー。」
「そしたら、突然何か……誰か、かもしれないけど、やって来てねー、私、一瞬で捕まえられちゃったんだー。えっと、後ろで腕を押さえられてたからー、ソイツがどんな姿をしてるのかは、ほとんど見えなかったなぁー。うーん、なんか、黒っぽかった? ススみたいな?……ア、アハハ、人間が黒いススみたいなんて、おかしいよねぇ。すっごく怖かったから、なんか見間違えちゃったのかなー?」
「そ、それでね、それでね、ティオー! ソイツが、その真っ黒いヤツがー、私の前に剣を突きつけてきてねー! 脅すだけかと思ったら、私の……わ、私のお腹を、その剣で刺してきてー……ち、血が、いっぱい出てー、すっごくすっごく痛くってー、それでそれで、私……」
「……サラ、もういい。」
「し、死んじゃうかと思ったよー! 怖くて怖くて、ガクガク震えてー、真っ白いワンピースがみるみる真っ赤に染まっていってねー……」
「もういいって言ってるだろう! それ以上喋るな!」
「……」
それまで静かにサラのそばで話を聞いていたティオが、突然叫ぶように制止したので、サラはビクッと体を震わせて息を飲んだ。
ティオは、うなだれて片手で隠すように顔を覆い、少しハアハアと息を切らせていた。
伸び過ぎた黒い前髪の下で、彼の額にビッシリと冷や汗が浮いているのが見えた。
サラは、自分が思い出しながら追体験していた腹に剣を刺される恐怖と痛みも忘れ、ティオを案じて手を伸ばしたが……
ティオは、サラの手を避けるように、スッと立ち上がってベッドから数歩歩き離れた。
ティオは、手を押し当てた顔をサラから逸らし、背を丸めていたが、それもほんのしばらくの事だった。
クルリと振り返った時のティオの顔には、まるで何事もなかったかのような、いつものように少し気の抜けた笑顔が浮かんでいた。
「サラ。……サラが、俺の精神領域で経験した事は、サラの本当の体験じゃない。」
「見た事のない景色も、いろいろな生き物の生涯も、サラ自身の記憶じゃない。ただの偽物で幻だ。」
ティオが、精神領域での体験で心にダメージを負った自分を気遣って言ってくれているのだとサラは分かっていたが、それでも、つい、自分の経験したものを共有したくて、訴えていた。
「で、でもね、ティオー! 私本当に自分の事みたいに感じてたんだよー! 特に最後の、何かに襲われて、お腹に剣を刺された時の事は……」
「だから! それは、お前の本物の記憶じゃないって言ってるだろう! ただの幻なんだよ!」
「……ティ、ティオ?」
「忘れろ。」
「早く忘れろ、サラ。そして、もう二度と思い出すな。」
□
はじめてはっきりと険しい表情を見せて怒鳴ったティオを前にして、サラはようやくハッとなっていた。
(……ティ、ティオ……ひょっとして、本当は……最初から怒ってた、の?……)
サラ自身、目を覚ました直後は気が動転していて深く考えなかったが……
ここは、物質世界だ。
嘘のつけない精神世界とは違って、話す言葉でも表情でも態度でも、嘘をつこうと思えばつく事が出来る。
精神領域で体験した事を仔細に聞き出すため、ティオはわざと感情を抑えて自分に接していたのでは? とサラは気づいた。
サラを気遣う穏やかで優しい態度は……ティオがサラを気遣っていたのは間違いないのだろうが……サラにすんなりと話をさせるための演技だった。
はじめから怒りを全開にした不機嫌な態度では、いくら素直なサラでも、喋るに喋れなかっただろう。
「俺の『宝石の鎖』が見えたって言ってたな? どうして、それをすぐ俺に言わなかった?」
「あの場所は、俺の精神領域だぞ。しかも、普通は他人が入り込む事なんてありえない場所だ。何か変わった事が起こったら、お互いの安全のためにも、すぐに俺に知らせるべきなんじゃないのか、サラ?」
「……そ、そうだけど……ティオが、『宝石の鎖』の事は、私に隠してるみたいだった、から……って言うか、最初からティオが話してくれてたら、こんな風にならなかったんじゃないのー?」
態度を一変させて、厳しい表情でサラを責めはじめたティオに戸惑いながらも、サラは必死に対抗した。
「ティオ!『あれ』は、一体なんなのー?……すっごく大きくて、訳が分かんないぐらい複雑で、ちょっと触っただけで、頭がおかしくなるぐらいいろんなものを見たり体験したりしたりする、あの変なものー! な、なんで、あんなものが、ティオの精神領域にあるのよー? 最初からちゃんと全部私に説明してくれれば良かったのにー!」
「……」
「……俺が……」
ティオは青白い月明かりの中で腕組みをして立ち、冷たい目でサラを睨んで言った。
「それを、サラ、お前に言うと思うのか?」
取りつく島もないティオの返答と態度に、サラは思わず、言葉を失った。
精神世界で酷い目に遭って辛そうにしていたサラに、ほんのついさっきまでとても優しくしてくれていたティオは、もうそこには居なかった。
□
最近、精神世界にあるティオの精神領域に当たり前のように行き、二人きりで過ごしていた時間が積み重なったおかげか、ティオはサラに心を開いているように見えていた。
基本的にティオは、恐ろしく慎重で警戒心の強い人間だ。
かつ、勘が鋭い事もあって、大抵の異変や違和感には酷く敏感で、危機をいち早く察知し回避する能力に長けている。
しかし、物質世界で、表面的な彼の態度や反応を見ていると、一見とてもそんな人物には見えないのが、厄介な所だった。
現実でのティオは、ボーッとどこか抜けているように見えたり、能天気な程緊張感がないヘラヘラした笑顔を浮かべていたりする。
まるで、決まった形を持たず、気ままに風に流されてゆく雲のように、掴み所のない人間、といった印象だった。
けれど、ティオの事を知っていく内に、特に精神世界で彼に会ってからは、サラのティオに対する印象は大きく変化した。
精神世界では、物質世界と違って、本心や本質を偽る事が出来ないからというのもあるだろう。
能ある鷹は爪を隠すと言うが、ティオが現実で自分を道化のように見せている理由については、サラは未だに良く分からない。
ただ、本来のティオは、驚く程頭が良く、鋭い洞察力と深い思慮を持った人間だった。
加えて、彼が今まで経験してきた厳しい境遇のせいか、簡単に他人に心を開かない用心深さを持っていた。
ティオ自身、天才故の異質さを良く自覚しており、そのため、他人から敢えて距離を置くように立ち回っていたのかもしれない。
そんなティオが、精神世界で関わりを持つようになってからというもの、サラに対しては、少しずつ心を開いてくれていっているように見えた。
サラは、それがとても嬉しかった。
精神世界で眠れないとダダをこねると、そっと手を握ってくれる、そんなティオの優しく大きな頼もしい手が、サラは大好きだった。
ティオは、まさに、天才という概念が実態化したような、磨き抜かれ、研ぎ澄まされた、鋭利な程の知性と頭脳を感じさせる人物ではあったが……
その心根は、とても優しく、あたたかく、愛情深い事を、サラは知った。
ティオと精神世界で二人きり、他愛のない話をしたり、笑い合ったり、手を取り合ったり、そんな風に過ごす時間が……
自分にとって、いつしか、とても大切なものになっていた事に、サラは気づいた。
彼が、ティオという人間が、自分の中で大きな存在になってい事を、この時初めて気づいた。
自分はティオの事が大好きで、ティオともっと一緒に居たい、ティオについてもっと良く知りたい、そう思っていた事に気づいた。
サラは、今まさに、目の前で……
開いていた筈のティオの心の扉が、バタンバタンと大きな音を立てて次々閉ざされていくかのような感覚を覚えていた。
自分がティオの信頼を裏切った事で、すぐそばにあった彼の心が急激に自分から離れていくのを、ヒリヒリと肌が痛むかのごとく感じていた。
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☆The 13th Sage ひとくちメモ☆
「サラの私室の机」
古びた木製の机と椅子が、窓の前に一つ置かれている。
サラは、燭台を置くぐらいでほとんど使っていなかったが、ティオはそこで良く書き物をしている。
素焼きの水差しと木の器も置かれており、適宜喉の渇きを潤せるようになっている。




