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十三番目の賢者  作者: 綾里悠
第六章 終末と賢者と救世主 <後編>果てのない壁
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終末と賢者と救世主 #25


「……サラ?」

 ティオが異変に気づいたのは、それまで、いつものように長椅子でひじ掛けにくるまり横になっていたサラが、無言で起き上がったためだった。


 トン、とおもむろに長椅子から降りる。


 サラは普段、物質世界においては生成りの上下の服に、胸元に赤いリボンのついたオレンジ色のコートを羽織り、膝の辺りまで隠れる革のブーツを履く、という出で立ちなのだが……

 なぜか精神世界ではブーツは履いておらず、素足のままだった。

 物質世界では、足を保護したり身なりを整えるためにブーツを履いているものの、本心では(窮屈で嫌!)と思っているせいかもしれない。

 見た目だけは儚げな絶世の美少女なのだが、中身は野山を素足で走り回るのが良く似合う野生児そのものなので、ティオはどこか納得していた。

 まあ、サラの頑丈さから言って、素足で砂利道を疾走しても足の裏にケガ一つしないと思われ、そういう意味での心配もしていなかった。


 そんなサラの、華奢な白い素足が、真っ白な虚無の地面に着いた。

 それを追うように、サラが身にまとっていたひじ掛けがパサリと足元に落ちる。

 サラは、ひじ掛けが落ちた事を全く気にしていない、というより、気がついていないかのように、落ちたひじ掛けを踏んで歩き過ぎた後、スタスタとどこかに向かっていった。

 活発な子供ようなサラの事なので、なかなか眠れないから運動でもしようと思いついたのかもしれない、と考えたが……

 サラは、北の大陸特有の織物様式で出来たひじ掛けをとても気に入っており、いつも大事に扱っていたので……

 そんな些細な行動が、ティオの中に違和感となって引っかかった。


 何かがおかしい、ティオがそう気づくのと同時に……

 まるでスルリと絹のベールがすり抜けるように、サラの小さな白い手が、握っていたティオの手から抜け出して遠ざかっていった。


「……サラ? どうした、サラ?」


 呼びかけるが、返事がない。

 いや、反応そのものがない。

 まるで、こちらの声が聞こえていないかのようだった。


 気がつくと、ペタペタと裸足で歩いていったサラが、ある場所でピタリと立ち止まっていた。

 その前には……

 例の巨大な構造物が鎮座していた。


(……ま、さか……)


 全く表情の起伏が感じられないサラが、「それ」に向かってゆっくりと手を伸ばすのを見て、ティオは、ガタンと座っていた椅子を蹴って立ち上がった。


「サラ! サラ!! やめろ!『それ』に触るなっ!!」



 その時、サラには、ティオの声は全く聞こえていなかった。

 ただサラの前には……

 「不思議な壁」だけがあった。

 ふと気がつくと、引き寄せられるように、無意識の内に、壁の前に立っていた事も、特に気にならなかった。


(……そんな事より、この「不思議な壁」……私ー、「これ」をもっと良く見たいのー……)


(……もっともっと、もーっと、近くで良く良くよくヨク、見なくっちゃ、ネー……)


 フフ、ウフフ、とサラの、操り人形を思わせる感情の消えていた面に、奇妙な笑みが浮かんだ。

 サラは、訳も分からず、何やら楽しくなって、面白くて、クスクス笑い出し、止まらなかった。


(……あっれー?……何、か、あルよー?……なんだろうー? コれ、模様ー?……ウフフ、フフ!……)


 サラに見えている「不思議な壁」は、未だ向こうの真っ白な虚空が透けるようなうっすらとした状態だった。

 しかし、その半透明な壁の表面に、何か、溝のような筋のようなものが走っている事に気がついた。


 溝は、壁全体に渡って、規則的に、あるいは不規則的に刻まれている。

 はじめは、浅く彫り込まれた模様か何かだと思っていたが、ジッと目を凝らして見ている内に……

 それが、地割れのごとき底知れない深さのある切れ目なのだと気づいた。

 それは、酷く直線的で幾何学的な、それでいて同時に、生き物を思わせる曲線的で有機的な、奇妙で複雑な文様を、壁一面に描き出していた。


(……んー?……)


 サラがその不思議な模様のごとき溝を見つめていると、フッと、視界の端でその溝が蠢いたように見えた。

 良く見えなかったので、そちらに視線を向けると、今度は、逸らした方の視界の端でまた、ぐにゃりと動く気配がある。


(……今、動いタ、よねー?……ンフフ!……)


(……ひょっとシてー、この壁みたイなものー……生キてり、しテー?……アハ、アハハハハハ!……)


 サラは、もっと良く見ようと、壁に顔を近づけて、特にその、あちこちに走っている溝のようなものの中をジーッと覗き込んだ。


(……あれー?……アれー? あレー? アレー?……)


 溝の中には……

 また同じような溝があった。

 「不思議な壁」一面に走っている、奇妙な模様のような、筋のような溝は、良く良く見ると、それぞれが、もっと微細な溝や筋で出来ていた。

 その溝の中の、細かい糸が絡まったような溝を更に良く見ると……

 その細く小さな糸の中に、もっともっと細く細かい模様のような溝があり……

 その溝の中にも、もっともっともっと微小な溝が模様を描き出していて……

 それは……まるで入れ子構造のごとく、延々と続いていた……

 ……どこまでもどこまでも……小さく小さく……深く深く……


「……ア、アハハハハ! キャハハハハ! アハハハハハハ、アハハハー!」


 サラは、その永遠に続いていくかのような、砂つぶよりも小さい迷路のごとき構造物を見ている内に……

 なにやら、おかしくておかしくてたまらなくなって、お腹を抱えて笑い出していた。

 笑いが止まらず、息がヒューヒューと苦しくなり、腹の皮が引きつるように痛み出しても、まだ笑い続けていた。


「……ウフフフフ! アハ、アハ!……あっ!……」


(……イ、今ー、何かあっタよー!……)

 笑いながら、それでも食い入るように「不思議な壁」を見つめていたサラの目に……

 溝の奥の奥の奥の溝の、そのまた奥の溝の中に、チラッと何かが見えた気がした。


 良く見るとそれは……

 見覚えのある泉だった。

 朽ち果てた小さな古代文明の遺跡が、人気のない冬の森の中にポツリとあり、その中央付近に、元は人工の池か何かだったらしい小さな泉があった。

 遠い昔は美しい庭園の一部だったのかもしれないが、現在は見る影もなく荒れ果てている。

 しかし、池の一部から、今も澄んだ水だけは、こんこんと湧き続けていた。


(……あ、あレって……私が目ヲ覚まシた場所だヨねー!……)


(……なんで、なンでなんデナんデ、あの泉が、こコこ、こコにああ、アる、のー? 私、わたし、ワタシワタシの事、何か分カるカもー? かもかモかモカモー? キャハハハッ!……)


 サラは、ためらう事なく、目の前の「不思議な壁」に向かって、壁をビッシリと覆い尽くす奇妙な溝に向かって……

 その細く白い腕を伸ばしていた。



 サラの華奢な指先が、その薄く柔らかな白い肌が、ほんのわずかに「不思議な壁」に触れた。


 その瞬間……

 サラの頭の中に、心の中に、胸の中に……

 目の中に、体の中に、全身に……

 サラの「存在」全ての中に……

 ゴウッと轟音を鳴り響かせ、暴風雨のごとき膨大で甚大で莫大な情報が、入り込んできた。


 抵抗する間もなく、サラの「意識」も「存在」も、まるで嵐の前の小さな木の葉のように、さらわれ、飲み込まれ、グルグル舞いながら、どこかへと連れ去れていった。



 ……色が……見える……光が、見える……闇が見える……形が見える……

 ……ありとあらゆるものが見える……みんなみんな、いっぺんに見える……

 ……匂いがする……知っている匂いも、知らない匂いも……かぐわしい花の芳香も、思わず吐きたくなるような汚物の腐敗臭も……

 ……チクチクと肌を指す触覚……ピリピリと小さな雷が肌を這うような……ヌルヌルとした無数のヒルが、体のあちこちを這い回っているような……

 ……冷たい風が足の指を凍えさせ……同時に、脇腹を柔らかな動物の毛のようなものが撫でている……

 ……髪の毛の一本一本が、それぞれ別のものに繋がっていて、引っ張られたり、燃やされたり、溶かされたりしているような感覚を同時に味わう……



 ……見た事のない景色を見た……


 ……辺り一面、砂しかない……砂の山、山山山……ジリジリと照りつける太陽……風が吹くと、サラサラと乾いた砂が、巨大な砂山の表皮に無数の蛇が這うような模様を描いた……


 ……かと思うと、冷たい氷ばかりの光景が見えた……

 ……分厚い氷が、大きな暗い水の上でギシギシとひしめき合いぶつかり合って、時に片方が隣の氷に乗り上げ、かさぶたのようにめくれ上がる……

 ……ほとんど真横から、ガラスの破片のような冷たく白い雪が、延々と飛んできては、またどこかに飛び去っていった……


 ……深い緑の森の奥で、大樹の根元で、豊かな黒土を押しのけて、小さな芽が生えてきた……

 ……生まれたての双葉がゆっくりと開いた時、大樹の葉先から、先程しばらく降っていった雨の雫がポツリと垂れ、葉の小さな盃はグラグラ揺れながらも、その雫を受けた……

 ……梢の合間から光が差し、双葉の上の雫がキラキラと輝いていた……



 ……パリパリと儚い音を立てて、まだら模様の殻が割れていく……

 ……中から顔をのぞかせたのは、まだ裸の体を卵の溶液で濡らしたままの生まれたての鳥の雛だった……

 ……雛は……サラは、一生懸命口を開けて鳴いた……

 ……やがて、親鳥が巣のある木の枝に飛んできて、ピィピィ騒ぐサラの口に、芋虫を突っ込んでいった……

 ……何度も何度も、親鳥が運んできた餌を食べながら、サラはみるみる大きくなっていった……

 ……しかし、ある時、二つの目とチロチロと動く舌が現れたかと思うと、辺りは真っ暗になった……

 ……サラは……順調に育っていた鳥の雛は、木を登って巣に侵入してきた蛇に食べられて、死んでしまった……


 ……また、ある時は、サラはヤギだった……

 ……高い山の中腹にある小さな村で飼われていた……

 ……ゴツゴツした岩を器用に渡り歩きながら、こびりつくように岩肌に生えたわずかな草を食べていた……


 ……名前も知らない、小さな虫だった……

 ……葉の裏にビッシリと百個以上産みつけられた小さな卵の一つだった……

 ……自分の卵の殻を齧って這い出し、しばらく同じように卵から出て来た兄弟達と若葉に群がって葉を食べながら過ごしていたが、ある日鳥が飛んできて、サラをついばんだ……

 ……サラは、薄れゆく意識の中で、ピイピイとうるさく鳴く鳥の雛の真っ暗な喉の奥に押し込まれていった……


 ……鳥になって、全身に風を受けながら、長い長い空の旅を続けていた……

 ……仲間達が、左右に見え、励ますように盛んに鳴き交わしていた……

 ……途中力尽きた仲間の鳥が、深い谷へと真っ逆さまに落ちていっても、サラは必死に向かい風に向かって羽ばたき、旅を続けた……


 ……ある時は、トカゲだった……

 ……またある時は、植物となって花をつけた……

 ……濡れた地面の上を這う菌類だった……

 ……魚となって、光が網のように揺らめく清流を泳いでいた……

 ……土の中のミミズとして、朽ちた落ち葉を黙々と食べては消化し続けていた……


 ……サラは、数え切れない程生き、それと同じ数だけ死んだ……


 ……世界のありとあらゆる場所に、大きな命が、小さな命が、サラの知っている生き物も、知らない生き物も……

 ……星の数よりも多く、無数に、無限に、脈々と、命を育み、そして死んでいく……

 ……死は、時にゆっくりと老いと共に訪れ、あるいは、唐突に降りかかり……

 ……命の数だけ、痛みがあり、苦しみがあり、喜びがあり、輝きがあり、そして死があった……


「……ああ、あ……うう、ううう……あーあーあーあー……ああー!……」


 サラは、泣いた。

 泣き続けた。

 啜り泣き……必死に嗚咽をこらえ……止まらなくなった涙をとうとうと流し……しゃくりを上げて……

 泣いて泣いて泣いて、泣き続けた。


 ……心が、気持ちが、感情が……

 ……ボロボロに壊れて、崩れて、散り散りになって、どこかへと消えていく……

 ……虚しくて、辛くて、苦しくて、悲しくて、悲しくて悲しくて悲しくて……

 ……ボロボロ涙を零し、あーあーと言葉にならない声を漏らしながら……

 ……サラは……あるいはサラでない何かは……泣き続けた……



 ……気がつくと、サラは、見知らぬ場所に立っていた……


 ……木で出来た小さな家……

 ……開いた窓から、大きな針葉樹の黒い影の向こうに、遠い山の稜線へ沈んでいこうとしている真っ赤な夕日が見える……

 ……夕方になると冷たい風が万年雪を抱いた背後の山から落ちるように吹いてくるのを、羊毛を編んで作った上着の腕をこすりながらこらえていた……

 ……赤い夕日をぼんやりと見つめ、何かを……誰かを……待っていた気がする……


 ……バン! と背後のドアが開く音が聞こえ、振り返る間もなく、両腕を背後で拘束されていた……

 ……自分を捕らえているのが誰なのか、首をねじっても姿が見えない……

 ……視界の端に、煤のような黒い吐息がハアハアと落ち着きなく吐き出されるのが、わずかに映っていた……


 ……やがて、ヌッと、目の前に一振りの剣がかざされた……

 ……一点の曇りもなく研ぎ澄まされた鋭利な鋼の刃が、すぐ体の前にやって来る……

 ……その切っ先が、ジリジリと自分の体に近づいてくるのに気づいて、サラは恐怖に震えた……

 ……逃げようと必死にもがいても、背後の何者かに拘束されている非力な体はビクともしなかった……


 ……ヤダ!……ヤダヤダヤダ!……嫌っ!……


 ……ギラリと凶悪な輝きと共に、サラの丸い腹部に剣の切っ先が突きつけられ……

 ……ゆったりとした白いワンピースの布を切り裂きながら、剣の刃が肌にゆっくりとめり込んでくる感触が走った……


 ……嫌あぁぁーー!!……痛い! 痛い痛い痛い痛い痛い!……あああ、ああぁぁー!!……


 ……恐怖と激痛で過呼吸となり、ハアハアと切れる息の下、サラは自分の柔らかな腹を切り裂かれながら、必死に心の中で助けを求めて、呼んでいた……


 ……助けて……助け、て……


 ……ティオ……


読んで下さってありがとうございます。

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とても励みになります。



☆The 13th Sage ひとくちメモ☆

「不思議な壁」

精神世界のティオの精神領域にある、謎の構造物。

果てが感じられない程巨大で、一見壁のように見える事からサラは便宜上そう呼んでいる。

実際はその本質が「壁」ではない事を、サラも分かってはいる。

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