企画提出版
名前が無かった子供たちがいた。
人も文化も自然も野放しの土地で彼らはどこにも行く当てが無く、何人かで一緒に過ごしていた。
降雨林の中にある、作りかけで放置されたような白いコンクリートの建物で寝起きし、日銭を稼ぐために色んな場所へ出かけて、靴みがきや道案内や動物の預かり人や、とにかく色んなことをする。子供たちの間には傷にも似たつながりができていた。
林の近くの町はいつも穏やかだ。たまに遠くから来た人が通りを歩いているぐらい。
その辺りで一番にぎやかな街には、毎日露店がならんでいて、その場で焼いた肉を売る店もあった。太い鉄串に貫かれた肉の塊が焼かれると、焦げ臭さ交じりの香ばしい匂いが立ちのぼる。ぞんざいに串ががらりと回されるたび、滴った膏がしゅうしゅうと声を上げた。みな見て見ぬふりをしているのに、その店を通るたびに釘付けになってその様子を見ている子供もいた。
埃やガスに汚れた大きな都市にみんなが行ったのは、一度だけだろう。少し距離のある道のりを歩いた末に子供たちが見た都市は、まるで鉄の絡み合う巨大なひとつの建造物だった。空がせまいせいか、昼間なのに暗く、人の街なのに人の気配がほとんどしない、青白い空気。
とまどった顔を見合わせたり首を振ったりして会話を交わしていた子供たちが珍しかったのか、暗い通りの奥から一人の人間がふらりと歩いてきた。放心したような目の、やせた少年だった。
無口な少年に子供たちは、まるで知り合いだったかのように話しかけはじめた。少年は名前どころか記憶もあやふやだったが、子供たちも程度の差こそあれ同じようなものだった。
少年はいつも一人だけ黒い服を着ていた。白い建物や林にも、さわぐ子供にも、もの珍しそうな顔をした。仲間になって少しすると、子供たちにきちんとした名前は無くても、代わりのようなものがあることを教えてもらった。と言っても、名前なのか分からないほど単純なもの。木の種を集めてばかりいる奴がいれば「ドングリ」になるだろうし、拾ったボールをけってばかりいる子はその通り「ボール」になる。つまり、遊びのひとつだ。あだ名と違うのは、自分で名前をつけることもあるということと、本人が気に入っている名前であるということ。そんなものだから、「名前」はしょっちゅう変わる。聞くたびに違う答えを返す子供も多かった。
月日がたち、少年が小さい子の相手をするぐらいになったころ、遠くから来た人が辺り一帯のものごとの具合を変えた。見えない波が広がるようにあちこちで家が取り壊され、道が新しくなった。変化は子供たちの住む町にも訪れ、そこで初めて彼らは、子供は大人に守られるものだということを知った。
不安もあったがそれは町の他の人たちも同じ。別れ別れになることになっても、みんな明るくいようとしていた。
「生きてまた会おう」
最後に彼らが握手を交わしたときの言葉はそんなだったか、たぶん……
僕は黒が好きというわけではない。でも、自分に合っているとは思う。
気が付くと僕はなぜか親子ほども年が離れていないであろう青年に引き取られていた。僕も骨ばった体だったけれど、彼はスーツを着てもごつごつした骨の形が分かるほどだった。
男の住まいは都会の高いビルの一室で、窓が広かった。都会でこんなに明るいと思ったのは初めてだった。
あまり、いい思い出はない。言葉を覚えろと本を投げていなくなったかと思えば、突然怒られたり見下されたり。世の中はこうだ、お前はこうだ、とことあるごとに決めつけるのにつっかかって、追い出されたら困る立場なのに喧嘩ばかりだった。
あの人が遠い親戚だと分かっても、なぜこの人は自分を引き取ったのだろうという僕の思いはつきなかったのに、仕事の仲間や家族から避けられていることに気づいてから、そんな風に思わなくなった。嫌なやつだ。
僕はまた「ちゃんとした」名前で呼ばれるようになったけれど、僕はまだひそかに自分で「名前」をつけていた。きっかけはたぶん植物の本にあったアカシアの写真。
林にいたころに戻りたいとは思わない。でも、疲れたのかもしれない。
約束は確かめないもの、それぐらい僕だって知っている。それでもあるとき僕は、何気なくビルを出て、地下鉄に向かってふらふら歩きだして――
◇◆◇
僕には特に気になる子供がいた。なぜか一緒にいることが多かった年下の子供だった。「名前」は何だったろう。栗色の髪とまつげ、あどけない丸い顔で、あまりしゃべらなかった。
彼を引き取ったのは町へ来た老夫婦。町が変わり始める少し前にその夫婦はやってきたのだが、特に少年を気に入ったのは主人の方で、コンクリートの家までやってきて少年に構うようになった。家までやってくる大人を子供たちは当然みんな怖がったけれど、やがて黙って見過ごすようになった。最初に子供を引き取った大人でもあるその人は、子供たちの今までの生活が終わるひとつのきっかけだった。
少年の方はというと、人より動物の方が好きなようで、あとはといえば、食べることぐらい(もっともこれはみんなそうだった)。だから男性がどう話しかけようとたいてい別の方を見ていたけれど、それでも「写真を撮らせてくれないか。それだけでいいんだ」という彼の言葉には、手元をいじりながらもこくりと頷いていた。
「なあ、私達の元に来ないか?」
ある日の昼、夫婦の部屋の食卓にはごちそうが並んでいたという。
「私たちには子供がいないの。来てくれたら嬉しいのだけど……」
焼けたブレッド、スープに新鮮な野菜。スライスされたローストビーフ。夢のようにぼうっと料理を眺めていた少年に、夫婦が語りかける。
「食べていいの?」
「もちろん、君のためのものだよ。これからは毎日だって食べられるぞ」
少年はそっとスプーンでスープをすくう。あたたかで野菜がたくさん入っていた。これすごくおいしいと彼が言ったのを聞いて主人は満足そうにほほ笑んでから、ふと気が付いたように言った。
「そういえば君たちは、仲間内での名前を大切にしていたんだっけね。『スープ』なんて名前もどうだろう。君が自分のことをそう呼ぶだけだろう? やっぱり変かな」
冗談だったのかもしれない。少年は少しまごつく。
「うん、いい、と思うけど……」
老夫婦の家がある場所は元いた町よりずっと安全で、彼は穏やかな生活が送れたはずだった。だが食べ物を熱心に見つめることもあったはずの少年はある時から食欲を無くし、前よりもいっそう上の空になった。どうしたの、と婦人が問いかけると青ざめた顔で服をいじりながら少年は言った。
「どうしよう。忘れちゃった……」
食事に手を付けず、表情を失くした彼を夫婦も放っておくわけにはいかない。
「今までの生活に戻りたいわけじゃないんだろう? それなら何が不満なんだ」
「みんなもう一人じゃないもの、きっと元気よ。大丈夫」
「でも……ぼくは、忘れちゃったのに」
主人は大きくため息をついた。髪が真っ白になっていっそう年老いて見えるようになった彼は「不安なことがあるのなら、相談に乗ってくれる人を探そう」と電話をかけ始めた。
ほっとした婦人が席を立つと彼はもう一度、まだ手を付けていない少年の料理を食べるようにすすめ、チーズフォンデュした温野菜や、香りのする細枝に刺して焼いた肉をどれだけ美味しそうに食べてみせた。話に聞くだけでお腹が空きそうな料理にも、少年は手を出そうとしない。主人の笑顔がつぶれる。
「なあ、どうしてだ? あんなに喜んでくれたじゃないか。出来ることは何でもするよ。だから、頼むよ」
少年は彼と目を合わせるものの答えない。
「君が喜んでくれれば、それだけで……」
ふいに主人は、戸棚から写真を取り出すとテーブルの空いた部分にぶちまけた。かつて少年に頼み込んで撮ったはずの写真を彼は、一つ一つ塗りつぶすように言葉を吐きだしはじめた。
お前はずっと知らん顔していたが、私にも不満はあるんだ、本当は我慢していたんだ。あまりの勢いに少年はびっくりしていたが、次の瞬間にはもう彼の様子など目に入らないほどある写真に見入っていた。
「この写真」
それは南の果物のような黄色い羽が目を引く小鳥の写真だった。
あんなにきれいな色の鳥だ、売り物の鳥を誰かが放したのかもしれない。弱って林の落ち葉のなかにうずくまっていた小鳥を、少年が拾ってきたことがあった。大したこともできず不安そうに鳥を気に掛ける少年を見かねて男が籠やえさを買ってくると、少年は珍しいぐらい喜んでいた。
「そうだ、私は鳥なんて好きじゃなかった! どうせお前が鳥しか見なくなることは知っていたのに、私は金をかけて籠を買ってきたんだ!」
そのとき鳥に付けた「ツイバミ」という名前が、そのまま少年の「名前」になるほどだった。
僕は思い出した。林が騒がしかったので、鳥を怖がらせないよう少年が籠を少し離れた場所へ隠しにいったことがあったのだ。それが、彼が引き取られる前日。忘れたのは鳥の行方か。もしかしたらその名前も。
椅子を鳴らして立ち上がった少年の手は、空をつかんで地に落ちた。
「信じてほしいの。あの時はどうかしていたのよ。主人は……」
僕は年老いた女性の顔を見た。出された茶には手をつけていない。
「私はね、まだやり直せるはずって思う。でも……あの人は火の消えたみたいになってしまった」
「約束なんて守らなきゃいいのに」
「え?」彼女は顔を覆っていた手を外す。
「もう、帰らなきゃ……たぶん、怒られるけど」
「あなた、笑ってるわ」
「ええ」僕は言った。「……幸せってどんなものなんでしょうね」