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宙の落とし子  作者: 小岩井豊
二章 一千日の騎士
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8 無力、あるいは偽善

 兵舎の談話室にてヘイスと二人、香草茶を啜る。

 やがて騎士が談話室に顔を出した。その顔は霊獣の黒血で塗れている。ヘイスの存在に気づくと何かを察したように目を伏せ、息を吐き「顔を洗ってくる」と外へ出ていった。


 平服で戻ってきた騎士に、淹れかえたばかりの香草茶を差し出す。一気に飲み干されてしまったので、ケムリはもう一度茶杯を満たしてあげた。


「久しいなヘイスティングくん。もう二年ぶりになるか」


「ご無沙汰しております、隊長殿」


「君が次にここへ顔を出すとき、『それは“潮時”を伝えに来るときだ』と言っていたと記憶しているが」


 ヘイスは目を伏せる。ずっと口元に湛えていた緩みを解き、厳しい顔つきで謝意を示した。

「申し訳ございません。私共も商売でございまして」


 ヘイスは円卓に文書の束を置く。ローグン公国の財政状況、もしくは騎士への令達について記されたものだろうか。騎士は文書に軽く目を通し「ふむ」と頷くと、盆を抱いて立ち尽くすケムリに目をやった。


「悪いな、行商娘よ。しばし席を外してくれぬか」


 ケムリは幾許か逡巡し、頭を下げて談話室を退出する。

 扉越しに、二人の会話が軽く耳についた。


「ところで彼女の名は?」


「聞いていないよ。おれの名も、当然教えてない」


 ケムリは扉から一歩引く。「その方が、あるいは良いのでしょうね」二人の言から逃げるように彼女はその場を立ち去った。




 * * *




 二人が兵舎を出てくる頃、あたりには晩課の鐘が鳴り響いていた。古城を囲う盆地中にごうん、ごうんと、からくり鐘は機械的に日の入りを報せる。


「話はもう少し残っているのだが、もう闘る時間なのでな」


 軒先で乾かしていた冑を被り、幅広剣を手に取ると、騎士はさっさと林の方へと駆けていく。

 その背中を見送りながら、黙ってヘイスと立ち尽くす。向こうの曇り空から遠雷の音が聞こえた。


「この城への支援が断たれること、もうお伝えしたんですよね」


 ヘイスは小さく頷く。


「ということは、帰還の命も降りたのでしょうか? 国もこの城を維持する余裕がなくなったと。彼は本国へ戻り、元の通り城の警護でも任せられるのでしょうか。いえ、これだけご活躍されたのですから、特権階級を受け今後は軍隊の指揮、後輩指導に当たるとか。あるいは政治権を得て、国を統治する立場に就くのか……」


 これには、彼の反応はなかった。ただ遠くの灰雲を見守るばかりで、後ろに手を組んだままぴたりとも動かない。


「食糧庫の蓄えはあとひと月分もありません。騎士さまの武具もずっとぼろぼろのままで……。帰還の時期は、いつ頃になるんですか? 騎士さまもずっと待ち望んでいた令達でしょうから、なるべく早い方が良いのでは?」


 言いながらケムリは、自分がまるで駄々をこねる幼児にでも戻った気分がした。

 先ほど談話室でヘイスが謝意を露わにしたこと。これが全てを物語っていた。


「まさかとは思いますが、今回は支援を断つというお話だけで……お国からの令達は、特になかったのですか?」


「こういった言い方は何ですが」

 ヘイスは顔を前に向けたまま、隣の少女を横目に瞥見する。

「たとえばあなたがそれを知ったとして、一体どうなるというのでしょう?」


 少女は小さな拳を握る。ほとんど睨むように青年を見詰めた。


「要するにローグン公国の君主は、騎士さまをお見捨てになられたのですね。この何の役に立つかも分からない古城を十年も守らせておきながら、特段の干渉も、手当ても、報酬も、昇級のお話もなく、労いの手紙の一つだって寄越さないで、ただただ死ぬまで闘いつづけろと」


「普通の人間ならとっくの昔に逃げ出してるでしょうね。だけど彼は騎士ですから。目に見える利益を欲したがる僕たち商売人とは違う」


 ケムリの焦燥は抑えがたく、一度その場で小さく地団太を踏んだ。それが余計ヘイスの目には子どもに映ったのか、彼は呆れたように目を逸らした。


「この古城はね、社会の縮図なんですよ、ケムリさん。どうせそのうち世界は滅ぶ。いくら武力に長けていたって、それが何の役に立つと言うのか。土地は荒廃し、疫病が蔓延し、世界人口は減っていく一方で、今はどの国も食うに困っている状態です。次の『天使』の侵略に対抗する方策も余力もない。いくら技術が発達したって乗り越えられない現実が我々の眼前に立ちはだかっている。そんな時代だから、だからこその君公の命なのです。せめて『()の騎士を伝説とせよ』と」


「伝説が何だっていうんですか? そんなの、騎士さまご自身が望んだことじゃないでしょう」


「それならあなたは今、自分が望んだ通りの人生を歩めていますか?」

 一帯に響いていた晩課の鐘が鳴り止む。

「少なくとも僕には、その自信はない。望んだ人生など忘れ、今の自分にできることを駆使しひたすらに生きていくだけです」


 ケムリには反駁する言葉がない。林の奥から霊獣の断末魔が聞こえる。彼は今も剣を振るっている。


「それなら騎士さまは、何故闘うのでしょう。誰がために命を投げうつのでしょう。命を懸けたって守れるものなんて、もうこの世にはないのに……何故それでも闘わねばらないのですか?」


 ヘイスは溜息を吐く。深く長い、あるいは怒りさえ含んだような溜息だった。


「もう一度言いますよ」そう、少女を見据えた。「“無力”なあなたがそれを知ったとして、一体どうなるのですか?」




 * * *




 それから一週間が経った。

 騎士は相変わらず霊獣を狩る日々を送り、空いた時間で野山に出かけ、少しでも食糧をかき集め備蓄を持たせようとした。ケムリも兵舎の食餌にありつく身、さらに騎士のためにと狩猟や採取に精を出した。

 だが食糧庫の問題は労働力を増やすだけでは解決せず、蓄えは目に見えて減っていく。

 

 ある日の朝、ケムリは旅路着を着込み外套(マント)を羽織った。荷袋の整理をし、忘れ物がないことを確認して談話室に降りた。

 騎士は椅子で居眠りしていたが、彼女の気配を察すると隈の出来た目を開けた。ケムリの出で立ちを見て、老け面に満面の笑みを浮かべる。


「旅立ちか」


 ケムリは小さく頷く。


「いやはや、別れとなると寂しいもんだ。世話になったな、行商の娘よ」


「いえ、旅立ちはしますが別れではありません。騎士さま、ローグン公国までの行路図はございますか?」


 ケムリは瞳に決意を湛えた。


「わたしが直接、支援物を引き受けにいってまいります」

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