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宙の落とし子  作者: 小岩井豊
序章
2/28

この世界で最も愛されなかった子ども〔後〕

 森林を分け入って進む。

 森は深くどこまでも続いている。いつか迷い込んだ地下水路と違い、乱立する樹林の獣道は方向感覚をつかむのが難しく、果たして自分がちゃんと前へ進んでいるのかもあやしかった。


 (くるぶし)から折れた右足は治る気配もない。片足を摺って歩くのは捗らないので、固そうな木の枝を見つけ、それに寄りかかるようにして当てどなく進んだ。

 数日ほど彷徨った末、一軒の木造建屋に行き着く。森の奥深くにぽつりと建つ、ほとんど小屋のような家だった。

 疲れ果て、私はそこでへたり込む。家からは煮物の良い匂いがする。洞人たちがいつも食べていたような……ただ私は、温かい食事というものを口にしたことはなかったが。


 庭先で飼われた鶏が、そこらを徘徊している。私を見て、くっく、くくっく、と小刻みに鳴いた。

 家の扉を開け、おじいさんが出てきた。彼は私を見てとても驚いた。


 おじいさんは始め、私を化け物か何かの一種だと勘違いしていたらしい。軒先に立て掛けられた長斧を手に取り、刃の穂先をこちらに向けた。


「たべもの」


 私が言うと、おじいさんは長斧の構えを解いた。「人の子か?」と詰問するように叫ぶ。私が答えられないでいると、おじいさんは私に向けて手を伸ばそうとした。


「さわらない。どく。わたし、さわらない」


 尻を擦っておじいさんから距離を取る。当時の私の知能と言語力では、自分に触れるのがいかに危険なことか、口で上手く説明できる自信がなかった。

 鶏がそばを通りかかる。私は木の枝を手放し、片手で鶏の首を掴んだ。すると鶏はばたばたと暴れ出す。たちどころに白い羽毛が抜け、肉が焦げるような激臭が漂った。私は鶏から手を放して解放する。鶏冠(とさか)が鬱血し、酩酊したようにとぼとぼ歩いたかと思えば、次には地面に伏して痙攣を始めた。

 それを見たおじいさんは私から一歩後退る。やはりなと、私を森の化け物と疑っているらしい。

 ふと彼は、私が胸に抱いたものを指差した。


「それは何だ?」


 私は胸にしたものをおじいさんに掲げて見せた。


「聖書か」


 私は首を傾げる。「せいしょ」と、音声を真似るように口ずさんでみる。

 おじいさんは何か思案し、家に戻っていく。しばらくして戻ってきた彼の手には一着の外衣があった。真っ黒な頭巾が付属した長丈の外衣(コート)である。それを着ろ、と指示され、私はそれに袖を通す。

 寒冷期の森林は寒く、裸の私はずっと凍えながら彷徨っていた。その黒い外衣はほぼ布切れと呼んでいいほどに薄手だったので、防寒具としては幾分不足と思われた。

 だが不思議なことに、それを纏うだけで寒さという感覚が一瞬で消え失せた。一片たりともである。それでいて温かい着心地であったかと言えば、特にそういう訳でもなかった。

 外気温が強制的に遮断された、と表現するのが最も近いかもしれない。


「それには特殊で高度な力が付加されている。そいつを身に着けるだけで、外界の自然現象から断絶される。代わりに、お前が外界へ何かしらの干渉をすることもできなくなるというわけだ。お前はこれから、決してそれを脱いではいけない」


 黒い頭巾を被る。頭巾は私にはいくらか大柄で、顔の上半分をほとんど覆い隠してしまう。頭頂部の深い凹みもそれで隠された。

 眼前に、手が差し伸べられる。皺の寄った大きな掌。私ははっとして顔を上げる。髯に隠されたおじいさんの口元が笑みをつくった。


「さあ」


 私は恐る恐る、おじいさんの手に触れる。

 手には特段の感触がない。外衣の効果だったのだろう。触覚が失われたようで、また肌の温もりも一切伝わってこない。まるで石でも触っているみたいだった。




 * * *




 おじいさんは私に食事を与え、寝床を用意した。私は掛け布の使い方を知らず、おずおずと寝床の上で三角座りをする。おじいさんに促されるまま横になり、上から布を掛けられた。

 私は丸二日ほどを睡眠に費やす。起きると、湯気立つ鍋の香りが鼻をついた。


 おじいさんは本に記された言葉の意味を一つずつ、時間をかけて私に教えてくれた。湿った土壌に降り注ぐ雨のように私はそれらを吸収していった。空っぽの赤子同然の私にとって、新たな知を取り込むことは急速な世界の拡張を意味していた。おじいさんが口にする言葉の一つ一つは脳を刺激し、爆発じみた覚醒を呼び起こすかのようであった。

 何百、何千、何万回と本を開いただろう。頁が幾度も外れる度、おじいさんが補強して治してくれた。


 私はあの黒い外衣(コート)を昼夜問わず、寝食の際も身に着けた。

 外衣に宿された力は本物で、私の毒の膚でさえ無力化する効果を有していた。他者の肌の柔さ、温かみというものは相変わらず感じられなかったが、そのときの私には『生き物に触れられる』というだけで大きな価値があったのだ。

 私は常に外衣を羽織り、おじいさんの木こりと狩猟を手伝うことで毎日の食事と寝床にありつくことが出来た。


 冬が終わり、春を経て夏が来る。

 そして晩秋を迎えた何時頃か。いつものようにおじいさんと本を読みながら、あることを尋ねた。


「神さまって、いるの?」


 おじいさんはきょとんとし、やがて大口を開けて笑い出した。


「今更だな。居るに決まっているだろう」


 私は首を振った。自分の聞き方が悪かった。上手く言語化するよう、凹んだ小さな脳みそを回す。

「神さまって、だれなの?」


 これにはおじいさんも暫し頭を捻る。私の問いを哲学的に推考し、適切な解を導きだそうとしていた。


「お前が心の底から信ずる者。そして、その信ずる者がまことに神であれば、いついかなる時もお前を庇護し寵愛を授けるだろう。お前自身が、その何者かを信ずる限りな」


 言うとおじいさんは、思い立つように椅子を立った。

 ぐるぐると家中を回り頭を悩ませ、あるとき私の前でぴたりと立ち止まった。


「よし、今決まったぞ」

「なにが?」


 おじいさんは私の手から本を取りあげる。羽根筆に墨をつけ、本の表紙に字を綴った。私はそれを覗き込む。『Gnade』とそこには書かれている。

「なんて読むの」

「グナーデ」

「ぐなーで?」


 おじいさんは本を私の胸に返した。


「お前の名前さ。グナーデ」




 * * *




 おじいさんと暮らして二年が経っていた。

 ある暑い炎昼の日。数人の武装兵士がおじいさんの家を訪れていた。

「どうかご助力を願います。ウーヴァイ元中佐殿。貴方の知と武略が必要なのです」と懇願したのは、ひと際豪奢な鎧を纏った兵士であった。

 話に寄れば、おじいさんは昔、騎士団の偉い兵隊であったらしい。高齢のため引退しこの森で隠居生活をしていたが、現在、世では大きな戦争が起こっていた。戦争のことを、豪奢な兵士は『聖戦』と呼んだ。

「明日、改めてお迎えに参じます」

 恭しく会釈すると、兵士たちは家を後にした。


 その夜、私はおじいさんの寝床のそばに立っていた。おじいさんは寝苦しそうに目蓋を閉じている。

 引退した兵士にまで声が掛かるという事は、戦況はかなり悪いのだろう。儂はおそらく、もう生きて帰ることは出来ん。

 おじいさんは寝床に入る前、そう零していた。


 私は貰って以来ずっと被り続けていた黒い頭巾を払う。外衣を脱ぎ床板に放った。瞬間、扉の隙間から入り込む秋怜の風が私の身を通り過ぎた。久しぶりの外気温に肌が凍る。窓辺の月明りが、おじいさんの苦悶の寝顔を照らしている。

 私は全裸のままおじいさんの寝床に入りこむ。掛け布の中は、おじいさんの体温で仄かに温かかった。


「おじいさん……」


 おじいさんの手を取り、頬に当てる。彼の手はこの世の何より温かい。頬ずりし、両手に包みこんでいると、抑えきれぬほどの幸福と全能感で頭がいっぱいになった。本で想像してきた光景が自然と浮かんでくる。身体から冷えが遠のいていき、意識がぼうっとする。

 と、そこでおじいさんが跳ね起きた。家の壁まで後退り、全裸の私と、煙を上げて爛れていく自分の左手とを交互に見た。


「ひ、ひいいっ」


 おじいさんは裸足で家の外へと飛び出していく。私は微睡(まどろ)んだ頭のまま、寝床から起き出しおじいさんを追いかけた。

 森中におじいさんの悲鳴が響いていた。あまりに大きな声なので、姿が見えなくても追いかけるのは簡単だった。また、片足を引き摺りながら走るのは随分と慣れてしまっていた。


「おじいさん、言ったよ。おじいさんはもう、『せいせん』で死んじゃうんだよ」

 

 逃げ惑う彼の背中に声を掛ける。


「おじいさんは、グナーデの、神さまなんでしょう? だって、グナーデ、いちばん信じているの、おじいさんなの。おじいさんも、助けてくれた。あいしてくれた。『ひご』してくれる。『おんちょう』、たくさんくれた。神さま」


 私は追う。


「わたしを、わたしを抱いて。抱きしめて。おじいさん」


 おじいさんは逃げながら、私に様々な言葉をぶつけた。『怪物』、『忌み子』とか、今まで彼が口にしなかった種類の言葉だった。今となってはほとんど思い出すことも出来ないが、それはゆっくりと沁み落ち、井戸の底の泥土ように私の心に沈滞していく。

 やがておじいさんは崖の淵に立つ。私は肩で息をしながら、おじいさんに近づく。


「ひどいことを言った……許してくれ、グナーデ」


 それでも私は止められない。おじいさんの『温もり』は私の世界――そう、世界そのものだった。


「ああ、神よ……」


 おじいさんは腐った左手と正常な右手を握り合わせる。涙を一筋零し、天を仰いだ。涙を一筋零し、天を仰いだ。「我が子よ、光の中を歩め」そうおじいさんが呟くと、弱々しい声が森に溶けた。私はあと一歩で触れられる距離だったが、おじいさんは背中から崖底へ倒れ込んだ。

 私は崖の下を覗き込む。遥か下方で、おじいさんは全身をぐしゃぐしゃにさせて死んでいた。




 * * *




 それから私は、その場所で三日三晩泣いた。

 自分にも涙が出るのだというのが驚きだった。また、一度溢れた涙は絶えることなく流れ続けた。地をのた打ち、空を引っかいてもがきながら私は泣き喚いた。樹に何度も頭を打ち付け、幾つかの新しい凹みをつくった。全身に爪を立て、膚の毒を追い出そうとする。しかしそれは逆効果のようで、私の毒はより強くなってしまっていた。近くを通りかかった兎が、触れてもいないのに、突然泡を吹いて倒れた。身体から煙を噴出し文字通りどろどろに肉を腐らせ溶けていった。また周辺の樹々は萎び、数刻後には同様に溶けて土に還った。


 涙が枯れてふと見ると、満月が空に浮かんでいた。

 あたりの地面は私の涙と血でしっとりと濡れている。

 見回しても私の周りに生命を持った者はいない――かに思われたが。


 崖の鼻先を見ると、無数の『光』が浮かんでいた。それは数百体の群集で、『光』はそれぞれが背中に翼を有し、ゆらゆらと宙を浮遊していた。『光』は一様に私を視ている。


≪母よ≫


 と『光』の一体が言う。


≪我らが母≫


 『光』は面を上げる。その両眼は煌煌と、碧色に煌めいている。いつしか手にしていたらしい剣もまた眩い光を帯びていた。

 瞬間、私の首は綺麗に分断され地面に転がった。いつの間にか私はそれを俯瞰するように、現場を頭上から眺めていた。転がった私の頭と身体を、『光』が一体ずつ剣で突き刺していく。何百もの剣を受けていると、私の頭は肉塊とも呼べぬ肉塵と化していく。

 私は慌てて辺りを見回し、本を探した。思考が朧になり言葉を無くしていく感覚がしたからだ。だが不運なことに、本は家に忘れてきてしまっていた。

 代わりに私は頭を巡らす。本の表紙に書かれた文字を必死で思い起こした。


 『Gnade』

 グナーデ。

 そうだ。

 私は、グナーデ!


 最後の一体の剣が塵となった肉片を突き刺すと、私の身体は消失し大地と一体となった。

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