4 酒徒の墓
翌朝。
例によって讃課の鐘で起床したケムリは、兵舎裏手の若木に向かって矢を射っていた。
十本ほどを射ったところで中断し、長弓を城郭の壁に立てかける。たったこれだけの射弓で、もう息が乱れ出している自分に驚く。
長い旅路と行商活動の中、己の基礎体力にはそれなりの自信があった。へたな冒険者や行軍兵士には心胆、足腰も劣らない。事実それに見合うだけの道程を経てきた。それが情けないことに、今はたった十本の矢に体力を奪われかけている。
たぶん、使っている筋肉が違うのかもしれない。
と、安易に憶測してみるも今ひとつ腑に落ちない。もう十、二十ほど射ってみる。
矢はことごとく若木の脇をすり抜け、誰も見ていないのに、少女は一人恥ずかしい思いになる。
今まで使ってこなかった筋肉が重要であるのには違いなさそうだ。具体的には小指から前腕にかけて、肩から首筋、背中周りに痺れるような倦怠がある。
が、そもそも力の使い方が違う可能性があるなら、筋の疲労箇所を分析したところでさして参考にはならないのかもしれない。
何時だかに見た、とある高名な射手の武芸を回顧する。彼は海岸に設置された踏み台から、霞むほど遠くに見える林檎の的を一度で射ってみせた。大衆の歓声に触発されるまでもなく、普段は飄然としたケムリも思わず柏手を打ったものである。
卓越した射手は恐らく、姿勢からして違う。筋肉もそうだが、そう単純な話ではなさそうだと断定的に思う。
と、そこで少女の手から長弓を取り上げる者があった。
見上げると騎士で、彼はきりりと矢羽を引いたかと思うと、寸瞬後には力強い射出をしてみせた。矢は真っ直ぐと飛び、細い若木の中心部に深々と突き刺さる。その一連の動作はあの高名な射手を連想させるものであった。
「朝から精が出るな、行商の子よ」
騎士は極端に老けた面で爽やかに笑う。ケムリは計らずも感嘆の息を漏らし、惜しみない賞賛の拍手を送った。
気を良くした騎士は更に何度か矢を射ってみせる。矢は面白いほど若木へと吸い込まれていく。これは手本にすべきとし、ケムリは彼の動作一つ一つをつぶさに観察した。
「ところで、騎士さまにお願いごとがあるのですが」
「なんだ。弓の事なら遠慮せず、なんでも聞け」
「それは是非ともお願いしたいのですが、あともう一つ」と、騎士に正対する。「ご迷惑でなければ、もうしばらくこの地に滞在させて頂きたいのです」
騎士はもう一本射る。
「何故だ? 【竜】という立派な目標があるのに、このような廃城に長居したところで大して得るものがあるとも思えんが」
道理の弁だ。得るもの、という視点でいけば竜に会うこと以上の事績などこの世にはないだろう。しかしケムリが最終的に見据えていくのは、竜でなく人。
「ご覧のとおりわたしは世間知らずの若輩者です。物を売るしか能のない一般庶民にございます。そもそもが『竜』に会おうと思い立つことすら憚られる身。それでも会わねばならぬ事情があるのですが――ともかく、今はこの地に留まり、騎士さまより数多の知見を得るべきと考えております」
「ふむ。その心は」
「一番は、『闘うこと』について。わたしは、戦場というものに疎いのです。戦とは何か、自身の命を投げうち何かを護るという心理。騎士さまを通してそれらの如何を知りたい……否、」
幾らか本心を隠してしまったことに、仄かな罪悪感が沸く。
「この目で見定めたいのです」
「見定める、と来たか。大きく出たな」
騎士は矢筒が空なのを確認し、長弓を地に降ろした。
「君の真っ直ぐな目は嫌いじゃない。なにか、高位の聖職者にも通ずるものがあるような……。おれもどんぱちやるしか能のない一雑兵だが、後世を担う若者に幾つか指南してやるというのも、先達者としての責務なのだろうな」
ついて来い、と騎士は有無を言わさぬ足取りで林の間へと入っていった。
* * *
林を抜けた先、なだらかな巌の坂を上がっていくと、渓谷を一望見渡せる丘に着く。
小高く狭小な砂丘の片隅に、墓標を模した石碑らしきものが立てられている。騎士は懐から小瓶を出し、蓋を回した。
「“とも”の墓だ」
石碑の上で小瓶を傾け、琥珀色の液体をかける。琥珀蒸留酒のようだ。その名は『生命の水』を意味する。
「とも。戦友ですか」
「そんな様なものだが、その呼び方はあまり好かんでな。どちらかって言うと酒徒だな。こいつとは仕事のあと毎晩のように飲み明かしたもんだ。ずっと同じ戦場で目新しい話題もないのに、何でもかんでも語り合った。特に、訓練兵時分の指導官の悪口が始まるとな、朝まで止まらなかったよ。最後まで生き残っちまったもん同士。それで互いに酒傑と来れば、嫌でも気が合う」
彼の穏やかな横顔に、ケムリは何か微笑ましい気持ちになる。
「すみません。わたしも、お酒が飲めれば良かったのですが」
「気遣うな。君は旅の話をしてくれるだけでいい。酒のつまみとしては十分に余り有る」
ケムリは墓の前で跪き、両指を絡ませ瞼を閉じる。深呼吸をし、酒徒への祈りを捧げた。
「こいつが逝ったのは……間もなく命日だから、もう三年も前になるか。珍しく中級の大型霊獣が来るというから、二人で張り切り勇んだが、まるで実力が及ばなくてな。牛の頭を持つ巨躯の亜人だ。互いに一合、二合打ち合った時点で歴然の差を理解した。だが、おれは一矢報いてやったんだぜ? 長い抗戦で武器を折られた瞬間、野郎の左の目玉、この掌でくり抜いてやったのさ。よほど予想外の反抗だったのか、それで牛亜人は怯んで逃げ出していった。おれは野郎に対処するだけで周りが見えていなかった。ふと見れば、横で共闘していたはずの酒徒は――」
突如言葉を切った騎士に、ケムリは目を開けて振り返る。彼は感情とも言えぬ感情を瞳に宿していた。冷えた山風が、不規則な白髪の並びを揺らす。
「あのう」ケムリは何も言わぬ騎士へと怪訝に、恐る恐ると声を掛ける。「お辛ければ、無理にお話頂かなくても……」
「いや、まさに立派な死であった。死の仔細は見ていなかったわけだが、ともかく、騎士らしい戦死であった事に相違ない。うむ。よもや長年連れ添った仲間の最期を見逃すとは、我が騎士人生最大の不覚よ」
と短く、幾分無理を押した朗笑を零す。彼は残った琥珀蒸留酒を石にかけると視線を背けるように丘を下っていった。
ケムリは時間をかけ最後まで祈りを通す。終わって踵を返すと、夕陽が渓谷の裾野に差し掛かるところであった。
ふいに、視界の端に黒い布切れが映った気がした。
はっとして振り返るが、そこにあるのは静謐と佇む石碑だけだった。