2 竜と瞳
騎士は兵舎の一階部分、談話室の一角にケムリを案内した。
ここで少し待っていろと短く告げられる。そうして兵舎の外へ出ていき、建屋脇の井戸で鎧を脱いで水浴びを始めた。頭から冷水を浴び、全身に塗れた霊獣の血と肉片を洗い流していく。
ケムリは談話室の小窓から騎士の水浴びを盗み見る。晴れた陽光によく似合う陽焼けた上半身。そこに搭載された筋肉は極端なほど絞られ、かつ一切無駄のない駆動性を有しているように見えた。
全身の至る箇所には創傷や打撲痕が刻まれており、古傷と生傷が複雑に混融しあう様が歴戦の推移を描くようだった。
ケムリは西の都の親衛隊を引き合いに考量する。都の城下で仰々しく隊列を組み、平民を卑賎視しながら闊歩していく王都親衛の兵士たち。そんな彼らと比較し、改めて騎士の戦闘に特化した肢体美に感心するのだった。
無論、都の兵士とて日々の鍛錬は欠かさないだろう。それに見合う豪気も具備しているようだ。
ただし、それはあくまで演舞的な具備である。唐竹を割れても、恐らくは人肉骨を断つには至らぬ虚仮の武だろう。
騎士の四肢や身のこなしにはそのような粉飾性がなく、職人が時間を掛けて磨いた槍の穂先のように洗礼されている。まるで闘うためだけに、機能性のみを追求して造られたかのような――事実、彼の剣捌きは素人目にも極限まで研ぎ澄まされているように見えた。
だからこそ、ケムリは懐疑を拭えない。
あの闘いぶりには。
「待たせたな、行商の娘よ」
騎士は平服の上に鎧下着を羽織り、ケムリに対面して坐った。先ほどまでは比較的若い印象を受けていたが、冑を取った彼は思いのほか高齢に見える。ほとんど白髪に染まった頭髪は、数えるほどの亜麻色を残すのみである。額や口元には深い皺が刻まれ、不均一に色焦げた肌質が一層年齢を感じさせた。
「こちらこそ申し遅れました。わたしは西の都から参じました、旅商人の――」
決まりの自己紹介の中途、騎士に掌を向けて制止される。
「いや、いい。名乗らなくていいんだ。捻ねた愚論ではあるが、『こういう仕事』をしている以上、極力人の名前を聞かんようにしていてな。互いに名を告げ合わん事、可能ならば諒解してほしい」
思い掛けない提案にケムリは一度口籠もる。
「別段構いません。では仮そめに、騎士さまとお呼びさせていただきます」
「どうか気を悪くせんでくれ。名をな、知ってしまうと。うむ。執着してしまうのだよ」
「執着、でございますか?」
騎士はそっぽを向き、困ったように頬を掻く。後には腕組みをし「まあ、それはよいのだ」と軽く笑うのだった。
「ともかく、さっきのは助かったよ。弓矢のあれ。おかげで命拾いした」
「いえ、どうぞ忘れてください……」
自分の間抜けな弓使いを思い返しケムリは頬を赤くした。
「それで? 行商娘よ。この度はどういったご用向きかな。こんな山深くまで、まさか飛込みの往訪商談というわけでもあるまい」
ケムリは居住まいを正す。
「ええ、仰る通り今回はご商談ではありません。実はというとですね、」
「うむ、言わずとも判る。判るぞ。君のような年若い女の娘が一体全体、どうしてこの辺境まで単身やってこようというのか」
よく人の言を阻まれる方だなあ、とケムリは心中に思った。
「目的は【竜】だな」
騎士は自身の片目を指して言う。
「特に君のような瞳を持つ人物はな、会いたがるのだよ。【竜】に」
ケムリは虚を突かれて押し黙る。
虚を突かれたのには三つほどの理由があった。
当然一つは、竜に会いに行くことを言い当てられてしまったこと。二つ目、自身の『瞳』についての特性に早くも気づかれた節があること。
そして最後の三つ。以上の二点を弁えながらも尚、彼は少女の特異性に特段の驚きを見せないこと。どころか、つつがなき平時とでも言った遇いである。敬愛する継父にさえ深くは告げなかった少女の秘めた決意。名も知らぬ山奥の騎士はこれに軽い首肯という形で終止符を打ち、年嵩のその顔に、剰え少年のような好奇を浮かべてみせるのだった。
ケムリは密かに、旅路着の上から胸元あたりに提げた首飾りを触る。首飾りには、少女の生誕に色濃く関わる石が嵌め込まれていた。石はある条件を満たすことで変事を見せるのだが、今はそれらしい反応もない。
「それよりもおれは、君の話が聞きたいな。つまり、これまでの旅路の話だ。かような僻地に日なが籠っていると、旅人ってやつとも中々出会えんのでな。差し支えがなければ――時の許す限り」
この刻、外はもう闇夜に包まれ始めていた。それを気にしケムリは遠慮がちに外を見やったが、打診するまでもなく騎士より「当然、今晩は兵舎の一室を貸し出そう」と提言があった。加え、騎士より謝礼として香草茶と煮出鍋を振舞われる。久方ぶりの温かい食糧に、幾らかケムリの心に安寧が宿る。
手始めにケムリは、輸入出業務の際に継父と誤って迷い込んだ『迷夢の森』での奇談を話して聞かせる。およそ三年前、まだ十の歳を迎えたばかりの時分である。
騎士は大麦酒を呷り、目を輝かせながら少女の話に相槌を打つ。手慣れた風に次々と酒を飲み下していく様は、歴戦の兵士を越し、もはや老兵と言った風情である。
「待て、三年前が十ということは、君はいま十三の歳ということか」
「ええと、まあ」また話の腰を折られ、ケムリは少しお座なりに応える。
「そうか。おれとは丁度、十個離れているのだな」
寸時言葉の意味が理解できず口籠ってしまうケムリだったが、その動揺を表情にしてしまえば無礼に当たると思い、彼女は何事もなく奇談の続きを話した。




