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宙の落とし子  作者: 小岩井豊
序章
1/28

この世界で最も愛されなかった子ども〔前〕

 もう二十年は前のこと。

 私の最初の記憶は、(こけ)臭い井戸の底での光景だった。


 見上げると、丸く切り取られた空が見えた。青空の円から時おり雲の切れ目がのぞいており、このかび臭い空間から見るとより爽快に映った。

 周囲の石壁は一面、焦茶の苔で覆われていた。一帯は湿気でじめりとしており全身がむず痒い。足元は緩んだ屁泥で、蛆や蚯蚓(みみず)が無数に蠢いていた。助けを求めようとしたが、喉が潰れているのか、上手く声が出せない。


 私には記憶がなかった。

 どういった経緯でそこへ落ちたのか思い出せない。頭を打ったらしく、頭頂部に触れると深い凹みがあるのが判った。頭髪はほとんど抜け落ちており、ざりざりとした不快な感覚が掌に残った。全く状況が読めず、また当時の私はまだ幼かったからその場で直ぐ泣き出しそうになってしまう。


 が、どういうわけか涙は出なかった。泣きたいという思いはあるのに涙が出ないのひどく不思議であった。

 屁泥に尻を着け、肌に触る蟲ののたうちに耐えながら井戸の上を見あげる。待っていれば誰かがこの井戸を覗き込んでくれるかもしれないと一縷の望みを掛け、じっと空を睨んだ。


 四日を過ぎても井戸を覗く者は現れなかった。

 空腹に耐えかねた私は、ひどく迷ったのだが、足元に沸く蚯蚓や蛆を食んで過ごした。三日目には雨が降り、天に口をいっぱい開いて雨粒を飲み、また苔や泥に吸収された水分を舐め取り喉の渇きを潤した。


 五日目の昼。

 三人の子どもが井戸から私を見下ろしているのに気づいた。最初は厚い雲が太陽を隠したのだと思ったが、それは三人の子どもの頭であった。

 私は力無く子どもたちへ助けを求める。喉は幾らか回復していたが、みっともないうめき声を上げることしかできない。それでも声はある程度の意味を持ち、子どもらへと届いたようだ。

 しばらく黙って私の声を聞いていた子どもたちは、私が何故ここに落ちたのか覚えていないことを知ると、ひそひそと相談事を始めた。やがて年長者と思しき少年が事のあらましを語った。


 どうやら、彼ら三人は私の兄姉であるらしい。

 私は五歳の末っ子で、彼ら三人は私を誘導しこの井戸に突き落としたのであると。どうしてそんなひどい事をするのか、問うより以前に長男が話した。


「お前は忌み子なんだよ。ぼくら家族にとって不要な存在なんだ。だから兄弟たちと協力し、お前をこの井戸に突き落として殺そうと計画した」


 受けた言葉の意味は、幼かった私には半分も理解できなかったが、彼はこうも続けた。


「だけれどお前は生きている。これはもしかしたら、神の思し召しかもしれないな。どうやらぼくの裁量を超えた問題のようだ」


 そう残し、三人の子どもは井戸を去っていった。




 翌朝、再び井戸に顔を出したのは昨日の三人の子どもと、一人の男だった。男は黒い帽子(ハット)を目深に被っている。彼は、自分が私の実父であることを話した。


「お前の(はだ)は毒に犯されている」


 父の台詞は厭に無機質で、まるで台本でも読まされているかのようであった。


「お前を生んだ瞬間、愛する妻が死んだ。腹の中に居た頃は正常だったが、出産時に産道を通る際、どういうわけかお前の中から毒が滲み出し、彼女を犯したのだ。またお前を取りあげた産婆も一日と持たず毒死した。私は、お前に付けるはずだった名を取り下げた。お前は人じゃないようだからな。証拠に、お前には生殖器が無い」


 私は自身の股ぐらを探る。そこはのっぺりとしており、およそ性器と呼べるものは存在しなかった。


「お前を五歳まで生かしたのは“研究対象としての価値”があったからに他ならぬ。無生殖の、かつ未知の病原体を調べるためのな。だが、その役目ももう終わった。お前をどうすべきかと持て余していた所、長男坊が良い仕事をしてくれたようだ」


 父は咥内を動かし、たっぷりと唾を溜めてから井戸の底へと吐き出す。唾は私の頭頂に付着し、凹んだ部分を流れてへばりついた。


「私の妻を殺したこと、地獄で詫びろ。憎き忌み子よ」




 * * *




 それっきり父や兄姉が井戸に現れることはなかった。

 代わりに、一匹の鴉が度々井戸を訪れるようになる。赤い目をした鴉だ。彼は私を哀れんでいるように見えた。言葉は交わせないが、そのような目をしている気がした。

 鴉は時おり井戸の底に訪れては、嘴に咥えた鼠や栗鼠(リス)の死骸を寄こした。屁泥に沸く蚯蚓や蛆だけでは腹を満たせなかったから、それは私の命を繋ぐ重要な食餌となった。

 私は鴉が愛おしくて仕方なく、また欠けがえのない親友のように感じていたが、決して彼に触れるような真似はしなかった。私の膚は毒に犯されているらしいからだ。彼が居なくなればきっと私は飢え死んでしまうだろう。

 だから私はじっと、彼のきらきらと光る赤い目を見つめて過ごした。


 そのようにして三年ほどの時を井戸で過ごす。

 私は八歳か九歳になっていて(結局誕生日は知らされなかったが、大体それぐらいだろう)、それなりに身体は大きくなっていた。ぬかるんだ泥は深く下半身に埋もれるようになり、ほとんど身動きが取れなくなるほどであった。

 ある日、降り注ぐ豪雨とともに井戸の底が抜けた。


 井戸が抜けた先に落下した私は、衝撃で暫時気を失っていたのだが、目を覚ますと広い地下水路が眼前にあった。

 水路の先は暗く、遠くを見通すことはできない。落下したことで私の右足は折れてしまっていた。(くるぶし)から骨が突き出しておりとても使いものにならない。ともかく私は水路の先を目指し、足を引き摺って歩いた。


 二日か三日か。時の感覚はもはや失われていたが、やがて辿り着いたのは小規模な地下集落。

 十数軒ほどの住居に小柄な人種が住まっている。その頃は知らなかったが、彼らは所謂亜人種と呼ばれる存在で、一般的に洞人(ドワーフ)だとか小人(ツヴェルク)と呼ばれていた。


「人間の餓鬼か?」


 通りかかった洞人が訝しげに近づいてくる。私の肩に触れた瞬間、洞人は「ぎゃっ」と悲鳴を上げた。のたうち回る彼の右手は赤黒く爛れている。微かに湯気が立ち上り、辺りに異臭を漂わせた。

 私は数人の洞人に囲まれ、棒や斧の柄で叩かれた。私は頭を抱えて身を守ったが、気絶するまでその打擲(ちょうちゃく)は止まなかった。

 

 気づけば私は独房に閉じ込めらていた。

 看守の洞人(ドワーフ)が忌々しそうに私を見張っている。お前のせいで俺の友人は右手を切り落とすことになった、と看守は話した。父の言う通り、私の膚は本当に生物へ害を与えるものであるらしい。


 私は週に一度牢から出され、手錠と足枷を着けられた状態で集落の見世物小屋へと連れられた。

 見世物小屋では定期的に殺し合いの催しが行われているようであった。

 小屋の内部では常に、酒飲みの洞人が(たむろ)している。中央には巨大な鳥籠のようなものが設置されていた。私は枷を着けられたまま、短剣を一本だけ渡され籠に入れられる。


 私が初めて殺したのは、どこからか攫われてきたらしい幼い女の子だった。私より二つか三つは下に見える。

 女の子は私の貌を見るなり恐怖に慄き、この世の終わりのように泣き叫んだ。

 私はそれまで自分の貌を見たことがなかったが、彼女にとっては途轍もなく恐ろしい風貌であったようだ。

 女の子も短剣を手にしていたが、およそ殺し合うという意志があるようには見えない。


「殺しあわなきゃ、両方死ぬことになるぞ」


 洞人たちは言うが、当時の私はどうすれば人が死ぬのかを理解していなかった。観衆の一人が「そいつで喉を思いっきり引っかくんだよ」と言うので、言われた通りにした。

 女の子の首から血が噴き上がった。鮮血は私の貌をいっぱいに濡らし、それで驚嘆(びっくり)して尻もちをついてしまう。周囲から下卑た嗤笑が響いた。




 * * *




 洞人(ドワーフ)の集落で過ごして半年。私が牢の中ですることと言ったら、粗末な食事を採ることと、一冊の本を繰り返し読むことであった。看守が気まぐれでくれた、ひどく古ぼけた本である。

 私はあまり頭が良くなく、字もほとんど読めなかったから、本に記された内容の大半は理解できなかった。文章の意味をしょっちゅう看守に尋ねたが、よほど彼の機嫌が良くないと返事がないので、やはり私にその本を読み解くのは難しかった。

 だが、なんとなく自分はこのままではいけないのでは、と思うようになっていた。


 私はこの半年で、数え切れないほどの人間の子どもを殺した。はじめは何と思うこともなかったが、この本に記された文言を眺めていると、私はとんでもなく悪いことをしているんじゃないか、という気分がしてきていた。相変わらず意味は分からないものの、そのような確信が肥大して止まらくなっていた。

 やがて私は、この本をもっとよく知りたいという強い願望を持つようになっていた。


 さらに一年が経った頃。看守が檻のそばで居眠りしている隙を見、鍵を奪った私は、長らく閉じ込められていた牢から脱することに成功する。

 私は本を胸に抱き、未だに治っていない足を引き摺って逃げる。追っ手の洞人に殺されそうになりながら、命からがら外の世界へと飛び出した。


 太陽が網膜を焼く。あまりに眩しくて、たっぷり半日は目蓋を開けることができなかった。

 やがて目が慣れてくると、そこには広大な大地と青い空が広がっていた。

 私は茫然と足を止める。追手が来るかもしれないのに、暫くそこから動くことができなかった。


 自分の住む世界がこんなに広いのだということを、私は知らなかった。

 本を抱き寄せ、高鳴る胸の鼓動を抑える。

 目頭が熱くなったが、涙はやはり出てこなかった。

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