5.キスの重み
鍋の底を木べらでガンガン打ち鳴らしながら、真純はシンヤの部屋に入った。呼んだくらいでは起きない事を、昨日の朝学習したからだ。
さすがにシンヤも目を覚ましたらしく、唸りながら頭を抱えて身を縮めた。
布団から出ようとしないシンヤに、真純はベッドの側まで歩み寄り、頭の上でもう一発鍋を叩く。
シンヤは頭を抱えたまま、か細い声で懇願した。
「わかったから……やめて。頭痛いし、気持ち悪いんだ……」
「二日酔いだよ、それ。弱いくせにバカ飲みしたんでしょ」
シンヤはのろのろと身体を起こし、俯いたまま片手で顔を覆った。
「正直、あんま覚えてない……。どうやって帰ってきたのか……。どうやって布団に入ったのか……」
「何? 記憶も飛んでるの?」
真純は驚いて目を見張る。とても、そこまで泥酔しているようには見えなかった。
足取りは多少フラついていたものの、顔色も変わってなかったし、はっきりとしゃべっていた。眠り込んだ後、たたき起こしたら、自分で階段を上がり部屋に入ったのだ。
「うーん。断片的には覚えてる。真純さんに怒鳴られた事とか、番犬になるって言った事とか……」
ゆうべの記憶が蘇り、ドクリと鼓動が跳ねる。少しドキドキしながら尋ねた。
「その先は?」
「……全然。だから、どうやって寝たのかわからない」
少しホッとしたと同時に、記憶のない酔っぱらいに翻弄されていたのかと思うと、無性に苛つく。
真純は顔をしかめてシンヤを睨んだ。
「おまえ、酒ぐせ悪すぎ」
途端にシンヤは顔を上げてうろたえた。
「えぇ?! 僕、何か変な事したの?!」
「した。抱きついて離れないし、キスしようとするし。相手によってはセクハラで訴えられるよ」
「マジ?! 全然覚えてない!」
あまりに悲愴な面持ちがおかしくて、ちょっとだけ気が済んだ。
どうせ、もうしばらくは何も食べられないだろう。
「朝ご飯はいらないでしょ? 何か飲むなら下りてくれば?」
そう言って背を向けた時、いきなり腕を強く掴まれた。咄嗟の事に驚いて、真純は手にした鍋を取り落とす。
「な、何?」
振り向くとシンヤは、真顔で見つめていた。正面から視線がぶつかり、ドキリとする。
「改めて、キスしていい?」
まだ酔っているのだろうか。
いや、確かに二日酔いっぽいけど、意識ははっきりしていると思うが――。
何が「改めて」なのか、よく分からない。
真純は苦笑に顔を引きつらせて問い返す。
「意味、わかんないんだけど?」
「だって、覚えてないの悔しいもん。だから意識のある状態で、ちゃんとキスしたい」
どうやらキスしたと勘違いしているらしい。
「勝手に都合よく話をねじ曲げないで。しようとしただけで、してないから」
かすめたかもしれない事は黙っておく。
シンヤは呆けたようにホッと息をつく。
「あ、そうなんだ」
そしてニッコリ笑って、掴んだ腕を引き寄せた。真純は抗う間もなく、シンヤの腕の中に捕らえられる。
「じゃあ、やっぱり、ちゃんとキスしたい」
「だから! 別にしなくていいから!」
抵抗すればするほど、シンヤはきつく抱きしめる。
「でも、したいからする。僕、真純さんが好きだし」
そんな、ついでのようにサラリと言われても、信用できない。
間近に迫った吐息から逃れるように、顔を背けて真純はわめいた。
「私の気持ちはどうなの?!」
シンヤはピタリと動きを止める。恐る恐るその顔に視線を向ける。目が合うと、シンヤはイタズラっぽく笑った。
「知ってるよ。僕の事、好きだよね?」
「う……」
何を根拠にそう決めつけているのか分からない。自分で言っておきながら自分の気持ちが分からず、真純は絶句する。
嫌いではないと思う。けれど好きかと問われれば、どうなのか分からない。
確かに抱きしめられるとドキドキする。現に今もドキドキしている。だからといって、これが恋愛感情によるものだとは限らないと思う。
自信満々に人の気持ちを決めつけるシンヤに苛つく。
真純は木べらを持った手をシンヤの背中に回し、手首を返して後頭部をパコンと叩いた。
「自惚れるな」
「いてっ!」
シンヤは腕をほどき、両手で後頭部を抱えるようにして俯いた。
「マジいてぇ。頭痛が三割り増しになった」
「自業自得」
いいながら真純は、拾った鍋を木べらでガンガンかき鳴らす。シンヤはたまらないといった表情で、両手で耳を塞ぎ、顔をしかめた。
「お願い……それ、やめて」
真純は手を止める。シンヤは両手を下ろし、安心したように大きく息を吐いた。
「鍋叩いて起こすって、マンガとかでは見た事あるけど、本当にやる人初めて見た」
「呼んでも起きない、おまえのせいだよ」
ムッとして言い返すと、シンヤは唇に人差し指を当て、上目遣いに見つめて言う。
「キスで起こしてくれたら、一発で起きるよ」
「ふざけるな。新婚夫婦じゃあるまいし」
「ちぇーっ。いいじゃん。キスくらい」
ふてくされたようなシンヤの声を背に、真純は部屋を出た。階段を下りながら、最後の言葉が引っかかる。
「キスくらい」
シンヤにとってキスは、その程度の重みなのだ。
自分の頭が固すぎるのかもしれないが、ドキドキした事が虚しく思えてきた。
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