駅
善子は部活が終わるとすぐさま学校を出た。
母親が何かでかい荷物を受けとるので手伝って欲しいから、今日は早く帰ってきてとのことだった。
なので少し様子を見たかったのであるが、早く帰りつく為に学校をでたのである。
が、ゆっくりとしていた方が良かったかもと道半ばで思い、駅に着いた頃にはもう、生きた心地がしなかった。
善子は駅の構内に入るや否や、トイレに駆け込んだ。
善子は涙目になっていた。
トイレの個室に入れた時、今迄の苦行が報われたと善子は思った。
トイレから出ようとして、ふと気付いたことがある。
駅に到着したなり一直線にトイレに駆け込んだと言うことに。
時間帯を考えると、知り合いに見られている可能性はそれなりにある。
善子は呻いた。駅に着くなりトイレに駆け込むなど、もしそれを見られていたらと思うと、恥ずかしくて外に出られない。
便座に腰掛け考える。
もし、様子を伺う為にトイレの外を覗こうとトイレから駅構内を覗いた時、知り合いと目が合い、気まずい空気が流れたらと考えると……。
「外に出られないっ!」
善子は頭を抱えた。
ハッと気づくと辺りは真っ暗だった。
「怖っ!」
何故自分がこの様な所にいるのか、何故この様な状態なのかわからなかった。
消え行く様な自分の感情を感じながら、ああ、と思った。
「寝ちゃったんだ。」
何時の間にか善子は眠っていた。
「…………」
トイレは為終えているから問題はなかった。
耳をそばだてて、辺りを伺ってみるが、何一つ物音はしなかった。
鍵を開ける音が自棄に高く響く。
ドアの隙間を開けて見るが真っ暗で何も分からない。
「あっ」
善子は扉を閉め鞄からスマートフォンを取り出した。
善子は自分の胸元にスマートフォンを抱き寄せ、スマートフォンを操作し出した。
スマートフォンの画面はほんのりとした明かりを辺りにもたらす。
意を結してトイレの個室の扉を開ける。善子は耳を澄まし何も聞こえない事を確認するとほんのりとしたスマートフォンの明かりで辺りを照らす。
ひっそりとしていて壁も床も何時もとは違っていた。
一応武器になりそうな、ドラムスティック二本を鞄から取り出してガッツリ握り、スマートフォンの明かりを頼りに、個室を一つ一つ眺めた。
何もない事に安堵しつつ、トイレの出入り口に向かう。鏡を横目で見つめながら歩き、出入り口の外を照らし、覗き込み、誰もいない事を確認する。
そんなことをしながら、行く手に後ろに、人影が無いか確認しつつ、やっと駅のエントランスに出た。
エントランスの壁に沿って、出来るだけ目立たないように様子を伺い、駅の中も外も誰もいない事を確かめて、出入り口に向かう。
扉は鍵が掛かっていて、出ることが出来ない。
善子は着信履歴に母からの着信が山のように入ってあったので、取り敢えず電話をかけることにした。
「善子!何処に居るの。大丈夫なの?」
「うん。トイレの中で寝ちゃっただけ。」
「なんでそんなところで寝るの!」
「御免なさい、駅にいるから迎えに来て。」
母はかなり怒っていたが、迎えに来てくれるとの事だった。
さて、と善子は思う。エントランスのシャッターが下ろされていないと言うことは、まだ、本格的に戸締まりをしてはいないということだ。
なら、何処かにいる係員さんに言えば、外に出してくれるかも知れない。
暗い中通路に何かが動いた様な気がした。
ぎょっとして通路を見ると曲がり角を、髪の長い女の人が歩いていった様な気がした。
辺りに気を付けながら小走りで通路に進み、曲がり角を曲がると、丁度警備員姿の髪の長い女性が角を曲がろうとしていた。
女の守衛さんがいるのかな?
鍵の掛かった扉を開けて貰う為、善子は後を追う。
「あの、すみません」声が構内に響いた。
女の守衛らしき人影はどんどんと通路を右へ左へ曲がっていく。
あれ、こんなに駅って広かったかな?
通路の窓に目をやると、窓には不安そうな善子の表情が浮かんでいた。
咄嗟に守衛を追って駈け足になる。暗い通路の中で鏡の様になった窓には、善子の後を追ってくる長い髪を振り乱した女が写っていたのだ。
通路を曲がると突き当たりに部屋があった。
扉の向こうから何か音がする。凄い音だ。
善子は赤い扉を開ける。
籠っていた匂いが溢れだしてくる。
部屋の中の手近な窓を開けた。
窓の外は暗い闇が広がり何の音も気配もしなかった。
ガダガダガダ ガダガダガダ ガダガダガダ ガダガダガダ
何かの音がしていた。何も見えない暗闇の部屋の中ではずっと音がしていた。
スマートフォンを取り出すと仄かな明かりが点いた。
ぼんやりした明かりに照らされて、長い髪の白いワンピースを着た女がずっと仏壇に向かってガタガタと小さな声で言っていた。
「何していらっしゃるんですか?」
ワンピースを着た女の首が真後ろを向き、善子を見る。
ガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダガダ
女は何故か同じ言葉を繰り返していた。
善子はその時になってやっと、その女がおいしい事に気付いた。
首の向きが体をねじることなく真後ろを向くことは人には出来ない。が、女は首のみを曲げて真後ろを向いている。そして、息継ぎをせずにずっと同じ言葉を繰り返していた。
善子が息をのむと、女の体がビクッと震え、白目が血の様に真っ赤に染まった。
女は真後ろを向いたまま立ち上がろうとした。前屈みにギクシャクと動きよろめき立ち上がった。
すくっと背筋を伸ばし、じっと赤い目で善子を見つめていた。
静寂が耳に痛かった。
アーアーアーアーアーアーアーアーアーアーアー
女が叫び声を上げた。善子は部屋を出ようとして床に倒れた。後ろにいた何かにぶつかったのだ。
善子が何にぶつかったのかと目線を上げると、髪を振り乱した女が部屋の出入り口にぼうっと立っていた。
善子の背後から声が掛かる。
『…ぃだいのぉ』
『……ぃだいのぉ』
頭が反対を向いた女が背中を向け善子を追ってくる。
善子は廊下を逃げた。
善子が走る廊下は、何処まで逃げても終らない。
だが、先程の女が後ろから追い掛けてくる訳でもなかった。
それでも善子は走るのを止めなかった。
なぜなら、鏡の様になった窓ガラスには善子の後を一定間隔でついてくる首の曲がった女の姿が写るからだ。
善子は何処かへ逃げ込めないかと考えた。
漸くエントランスに出る。
丁度部屋があった。そのドアを開けようと善子は近付く。
たしか此の部屋はタバコの喫煙室で何故だか神棚があったのだ。それに善子は賭けた。
立て付けが悪く中々開かない、幸いなことに鍵は掛かっていなかった。
『……っ…ぃ・ぃだいのぉ』
女の声が遠く聞こえた。
『………ぃだいのぉ』
女のものかヒタヒタという足音もする。明らかに近付いてきていた。
『……ぃだいのぉおおおおおおお!!!!!』
すぐ真後ろに女の声が聞こえた。と同時に扉が開いた。善子は兎も角飛び込んだ。と同時にあんなに固かった扉が独りでに閉じる。
バタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタバタ
喫煙室の窓という窓が震え、びっしりと血の様に赤い手形がついていく。
善子は目をさ迷わせ、神棚を見つけた。
「助けてください助けてください良い子にしますし、お供えもします助けてください!」
善子は自分が世間一般的に良い子であるのでは?という疑問を感じつつも神棚に一生懸命祈った。
ドォン!
壊れるかという位、窓全体が揺れた。
そして静かにペタペタという足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
「終わったの?」
善子はホッとした。常日頃行いは良くしておくものだ。
喫煙室の窓に近づきソッと外を伺う。何の姿もない。エントランスは静寂に満ちている。
その静寂を打ち破るものがあった。
善子はびく付き慌てて鞄を漁る
スマートフォンがメロディーを奏でていた。
母からの電話だった。善子は電話に出る。
「善子今どこにいるの?」
「今、駅の喫煙室にいる。」
「どうしてそんなところにいるの!タバコはダメだって何時も言って要るでしょ!」
「違うよ。怖くて他に行くとこがなくって。」
「まぁ良いわ早く来なさい。駅の駐車場で待っているから。」
「待って今行くね。」
善子は電話をしつつ喫煙室のドアに近付いた。窓の外には誰も居ない事を確認しつつ、ドアを開けようとする。立て付けが悪いらしく開かない。
「…お母さん……何か聞こえ…ない?」
「えっ!全然聞こえないけど。」
「よく聞いて!私の方から何か聞こえない?」
「何いってるの?早く来なさい。」
そう言って母親は電話を切った。
「待ってお母さん!切らないでお母さん!」
善子はただひたすらに泣きじゃくり出した。
母には聞こえなかったかもしれないが、善子の耳には聞こえていた。
『……ぃだいのォおぉ』
『…………ぃだいのぉおおお』
『……………ぃだいのおおおぉ』
明らかに善子の耳には聞こえていた“痛いの”と。
そして善子は気付く、窓にベッタリと点いた手の跡が、内側からつけられていることに。
善子の体は硬直して動かない。
涙か溢れる目に写ったのは窓ガラスに写る首が異常に曲がった女が善子の後ろに立ち、何かを訴えるように凄まじい形相で怨めしそうな眼差しを善子に向ける女の姿だった。
『…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお……ぃだいのぉお………いだいのぉ…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお…ぃだいのぉお、ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお・ぃだいのぉお…………ぃだいのぉお……ぃだいのぉお……ぃだいのぉお…ぃだいのぉお、…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお…ぃだいのぉお……ぃだいのぉお…ぃだいのぉお………ぃだいのぉお…ぃだいのぉお
わだじぃ、びあのぉびぎぃだいのぉお!!!!!』
女は目から大量の血を流しながらそう言い放った。
「………」
「………」
「………………」
「………ピアノ弾きたいの!?」
首の捻れた女はコクコク頷く。
「……それ、勝手に弾いてたら良いんじゃないの?」
『でがぁでがぁでがぁでがぁ』
女は手に有る何かを見せようとしているらしいが、首が前後ろ反対を向いているので善子には見えづらい。
善子はソッと回り込んで女の胴体の前の方を伺う。女の首はまるで回転式砲台が標的をロックオンしているかの様に、善子が視線から外れない様に見てくる。
気になるものの取り敢えず女が何を見せようとしているか見ようとするが、女は手に何にも持っていなかった。
「何?どうしたいの?」
『でがぁでがぁでがぁでがぁでがぁでがぁでがぁ』
「落ち着いて!何?」
『でがぁ……ぢで汚れでで…』
見ると確かに女の手は血で汚れていた
『こんなででピアノにざわるのはどうがどおもっで
でがぁ………ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ』
「手洗いたいの?」
女はコクコクと頷いた。
「自由に洗えないの?」
血の涙を流しながら女は
『れいだいだからじゃぐぢざわれないじ、ねんりぎもづよくないの。』
《念力だったのか》
『びどをべやにとじごめるのがぜいいっばいで、あど“でがだ”づげだり』
《税一杯?……精一杯か。》
そういうことで、善子は幽霊の手をウェットティッシュを取り出して拭いてみる。
直ぐに真っ赤に染まりとてもではないが、拭いきれない。
もう普通にトイレで手を洗う。
「あっ!」
『どヴじだの?』
「そう言えば、…トイレから出た後、…手を洗ってなかったなぁぁぁぁーっと、思ってね。」
黒いオーラが首の捻れた女の幽霊から立ち上る。
「でも、ホラ、今まとめて洗っているから。」
捻れた首の女の幽霊は不審な他人を見る目付きで善子を見るのを止められない様だった。
「そんなだったらもう、手伝わないからね!」
驚愕の眼差しになる幽霊。
善子の被害者面した態度に、幽霊は少しばかりの混乱が生じた。
『えっ!だっで、でをあらっでないんだよね。』
「あっ!もうダメだ。もう手伝わない!」
『“ぜいどうが”ずるの?いまどぎのごばみんなごんななの?』
善子はトイレの出入り口に進んでいく。
『ごめんなざい……もヴいいまぜん。』
善子は幽霊をじっと見る。明らかに不服そうだった。善子は更に見詰める。
幽霊はブリッジの様な格好になりつつ、“ごめんなざい”といった。多分最敬礼をしたのだろう。
「まぁ、良いでしょう。許して上げますよ。」
善子は勝ち誇った表情で蛇口を捻り、幽霊は手を洗うことが出来た。
ダンドンダンドンダーダーッダーダーッダーダーダダーダーダダーダーダダーダーダダッデラララランデラララランドンドンドンドン………
手を洗い終え、首の捻れていた女は、楽しそうにピアノを弾いていた。
「何で怒りの日?」
善子が呟くとピアノの音が止まり、女が善子を見ながら血の涙が心なしか倍増で流れる。
タパタパ流れる血の涙
『なんのぎょぐならいい?おおでぃえんずがぎにいらないならじょうがないがら』
「えっとごめんねそんなつもりじゃ無かったんだ。良い曲だよね怒りの日。」
じっと見つめる幽霊
「えっとじゃあね」っと、善子はスマートフォンを取り出した。
「これかな。」
善子は自分の好きなアイドルの曲を流した。
幽霊の女の人は三分四十九秒のアイドルソングを聞き終えた後、少し間を置いてから、ピアノを弾きだした。
凄く美しいピアノだった。
善子の好きな曲、“夢を語り合うなら夢を歌い合おう”が、今までにない心の染み入り方をしていく。
「そう言えばどんな亡くなり方をしたの。」
その時背後から、「善子迎えに来たわよ。」と女の声がした。
善子はぼんやりと駅のエントランスで佇んでいた。
『もう、こんなところにいたの早く来なさい!』
母の声だった。
振り返るとそこには髪を振り乱した女が立っていた。
『お母さん! 』
善子は歩み寄り、髪を振り乱した女と手を繋ぎホームへと歩いて行く。
ホームで佇み、始発のディーゼル車が駅に入って来る寸前に、髪を振り乱した女に手を引かれてホームから線路へと降りた。
ディーゼルの車両が耳を劈ざくブレーキ音を響かせる中、激しい衝撃と何も写す事の無い青い光景と共に善子の意識は途絶えた。
善子は膝から崩れ落ちた。
私は今死んだ。髪を振り乱した女と共に電車に轢かれて。
しかし今、生きている。
「何今の」
『わだじがじんだどぎのぎおぐ』
『わだしばおんだいぜいだづだんだげど、れいがんがむがじがらあっだの。
でも、ごわいがらぢがづがないようにじでいだの。
でも、あるどぎどーじでもあのよにいぎだいっでびどがいで、なんどもあだまをさげでぎだの。
だがらまあ、ぼだざれで、いんだーねっどでじらべで、おばらいをしであげだの。
ぞじだらぼがのれいもやっでぎで、ばらっでばらっでっでだのむがら、ばらっでだの。
で、ぞのヴぢにづよいれいがいで、ぞれがいぎでるびどをごろじでいるっでわがっだの。
だげどぞのれいはじにんにば、ぎょうみがないみだいでだがらわだじもずぎをみで、れいをあのよべどおぐるごどがでぎだの。
げど、あだじばいづのまにがめをづげられでいだの
だぶんいぎでいるにんげんべのまーぎんぐみだいなものをじゃまじだぜいだどおもヴ。』
《女子大生だったのか。》
『わだじにば、ぼんどヴにおがあざんにじがみえながっだ。ぼがのびどだぢも、ばばおやにじがみえないどが、ぢぢおやにじがみえながっだの。
だがら、ぎおづげで。あなだのうじろにいるびどが、ぼんどヴにあなだのおがあざんどば、がぎらないがら。』
善子は後ろの暗がりで佇む母を見た。確かに本物にしか見えない。
「本物か偽物か、確かめる術はないの?」
『ごめんなざい。わだじにば、わがらないの。だがら、がんばっでにげで。ずべでのそんざいがらにげでだら、ぎっど、あざびがだずげでぐれるがら。』
「……アサヒさんが助けてくれるの?」
『ずいべいぜんなり、ぢべいぜんなりがら、だいよヴがのぼっで、だずがるばず。』
「……だよね。」
『ごめんね。わたじどヴじでもじょヴぶづじだがっだがら、だがら、ごえがげだの。ながぐびどっどごろにいるどあんまりよぐないがら。ごめんね。』
「いいよ。ずっと永いこと居たんでしょ。」
『………ろっがげづぐらいがな?』
「十分だよ。ところで、何か助けて。サポートチックでも、なんでも良いから。」
『ごめんね。あなだばのろいが、ぶぐずヴががっで、かんじがらめになっでいるがら、わだじのぢがらじゃのろいをどげないの。それに……』
どうやら彼女には時間が残されていないらしい。話をしている間に、女の幽霊は淡い光に包まれ体がほどける様に、チリチリと消えていっている。
『わだじ、おおきなぢがらをがんじるの。だがら、ぎょヴじがながっだの。ごめんね。』
「…うん、大丈夫だよ。ちゃんと逃げ切って見せるから。」
『ごめんね。』
「うん。いいよ。」
『ぁの!ありがどぅ…』
最後に首の捻れた幽霊はありがとうの言葉を残して消えていった。
光一杯で少し眩しかったが、心配そうな表情だった。だから、心配しないで成仏して欲しいと善子は心から思うのだった。
「ーーーーっ!」
善子の背後にある気配が強くなるのが分かった。
「善子。こんなところにいたのね。さぁ、帰りましょう。」
善子が振り向くと母は満面の笑みを浮かべていた。
けれど、善子には分からなかった。善子には何も分からなかった。
数秒、善子は母を見つめる。その時、善子の本能が訴えた。
ー逃げろー
善子は母から遠ざかる為に、踵を返し、駆け出した。兎も角、この母には畏れしか感じなかった。
「―善子―」
母の声が聞こえた。静かな声だった。
その声を聞いて善子は体がすくんだ。
ヒタヒタと近付く足音があった。
善子が後ろに向き直るとそこには笑顔の母の姿があった。
だが、母の目はかわいい娘を見る眼差しでは無かった。
善子は恐怖に呑まれた。
「ごめんなさい!ごめんなさい!お母さん!お母さん!」
善子は頭の中ではわかっていた。この世には神も仏もいないのだと。
この世に有るのは只、恐怖だけなのだと。
善子は必死に母を呼び、必死にごめんなさいを繰り返すしか出来ず、父の姿を見たときは、タスケテと呼び掛けることしか出来なかった。
だが、誰も善子を恐怖から救ってくれはしなかったのだ。
その後、駅で善子を見た他人は誰もいない。
なぜなら、
母親による車での登下校になったからだ。
善子としては最悪だった。あの後母親には凄く怒られ、父親にも味方になって貰えず、駅怖い!お母さん更に怖い!と不登校になっていたら、車で送ってあげるの一言。
嗚呼、この世に神も仏もいないなど思って申し訳ないと考えていたのだが、よくよく考えれば、電車で時たま会う気になる男の子に、勇気を出して声を掛けようと、心の準備が漸く出来たところで、あの騒ぎでこの対応だ。声をかける機会が失われてしまった。
弱り目に祟り目?と嘆く日が続いた。
善子にとってあの出来事は、青春の終焉をもたらした厄災だった。
一応駅の神棚には御供えをした。(母が供えた)
怖さもあって二度と駅には行きたくなかったのだ。