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母から託されたもの

  母との思い出は決まって病室だった。


  生まれながら病弱な体質だった母は体調を崩しては入退院を繰り返していた。俺が物心がついた頃には入院と退院の日が逆転していて、痩せ細った体や病的に白い肌を目にするたびに子供心ながら胸を締め付ける痛みを感じていた。そんな俺の心情を察してか、或いは弱さを見せたくなかっただけなのか、一度として苦しむ姿を見せることはせず、常に笑顔を浮かべていた。それは力強いものではなく、開放されている窓から吹きいる潮風ひとつで消し飛んでしまいそうな儚さを纏ったものだ。


 そんな母は暇があれば病室の窓を開けて外を見ている。視線の先に広がるのは果ての見えない広大な海だ。地上に視線を落とせば親子が釣り糸を垂らしていて、上空に視線を動かせば春風に吹かれてゆっくりと流れる雲が視界に映る。景色がいいだけの田舎の風景だ。その景色も地元の人間からすれば日常の風景であって面白味のひとつもない。それでも母は頬を緩ませながら海を、空を見る。


「本当にお母さんは空が好きだよね」


  お見舞いに持ってきたリンゴを果物ナイフで剥きながら自然と会話を始めた。話しかけられた母はこちらに振り向くことはせず空を見上げたまま返事をする。


「大好きよ。だってお母さんにとって青春そのものだったから。彼方も空、好きでしょ?」

「もちろん! 空を飛ぶ爽快感と疾走感はもちろんだけど、何より手を伸ばせば空を掴めそうなのが好きなんだ!」

「ふふ、やはり私の息子ね。武彦さんがいたら同じことを言っていると思うわ」


  ようやく窓から俺に顔の向きを変えた母は口許に手を添えて上品に笑っていた。武彦さんというのは母の番で、つまり俺の父親だ。


  空を飛ぶというのは比喩ではない。とある科学者の手によってこの世界で単身飛行を可能とした。老若男女問わず練習をすれば誰だって空を飛ぶことができる。


  一方で明確なルールと安全設備が急ピッチで確立されていった。飛行禁止区域や夜間飛行を安全とするための街灯の設置。他にも停留所を作ることで地上の歩行者や車両との接触事故を回避を目論むなど、あらゆる可能性を考慮して工事は進められた。その結果、空を飛ぶことが自転車に乗るような日常的なものへと変化したことは言うまでもない。


  単身飛行が日常的になるに連れて人は娯楽の道を考え出した。空を舞台にしたスポーツ競技だ。定められたコースを複数人で競うレース競技で、怪我をさせない程度の接触も有りとしたルールになっている。本来であればスポーツマンシップに反する行為で批判の声が挙がるところ、そうならないのは空の競技のモチーフとなったのが漫画やアニメを参考にしたからとされている。


  長々と説明してしまったが、つまり何を言いたいかというと、俺の母はその競技選手だったということさ。


「病弱って分かっていて良くやろうと思ったよね」

「人生は一度きりなのよ? 病弱だからといって何もせずに諦めていたらつまらないじゃない」


 病人とは思えない前向きな姿勢は息子として学ぶべきところが多い。


「そうそう、武彦さんから聞いたわよ。彼方も藍千高校を受験するそうじゃない」


 藍千高校は地元の学校であり、母の母校でもある。


「俺も母さんと同じ景色を見たくてさ……。それに親が叶えることの出来なかった夢を息子が叶えてやろうと思ってね」


「あら? 嬉しいことを言ってくれるじゃない」


  頬を綻ばせて喜ぶ母は「それなら」と独白した後、ベッドの下に手を伸ばして何かを手に取った。


「それって母さんの……」

「そう、現役の頃に使ってた空靴。いつか復帰して使うつもりだったけど、母さんには難しそうだから彼方に託したいの」


  母さんから差し出された空靴を両手で受け取って胸の中に沈めるように抱え込んだ。


「あげる、じゃなくて、託す、だからね。この意味が今の彼方ならわかるよね?」


  俺は躊躇いなく頷いた。この空靴には母さんが叶えられなかった夢も含まれている。それらを一身に託されたのだ。


「見てて。必ず叶えてみせるから」

「期待せずに待ってるよ」


  それが最後の言葉だった。

  それから一週間後に母は他界した。

  中学一年生の春のことである。

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