霧雨市怪奇譚 トイレの花子さん
実話怪談っぽさを意識して書いた作品です。前回同様、劇的なことは何ひとつ起こりません。
日常に潜む「ちょっと不気味な噂」が本作のテーマです。
前回ちょい役だった黒田がにょこっと出てきます。
「ねえ、ハナコさんって、知ってる?」
石田美咲に問われ、大谷吉乃は原稿から顔を上げた。
「ハナコ? それって、トイレの?」
「うん。この学校にも、いるらしいよ……」
それは、他愛のない噂話の類だった。
どの学校にも一つか二つはある、根拠のない怪談話。
頭から信じる者などいないそれは、しかし確実に広まっていた。
「一階の女子トイレに出るんだって。奥から三番目の個室の中で戸を三回ノックして呼ぶと、返事するんだって」
「馬鹿らしい。高校生にもなって、そんな話信じてるわけ?」
吉乃は鼻で笑った。
「大体、そんなのがいたら、トイレに入れないでしょうが」
「まあ、そうなんだけどね」
美咲は曖昧に笑って原稿に戻った。黒田孝美が発言したのは、その時だった。
「僕はハナコさんの方から呼びかけてくるって聞きましたよ」
吉乃と美咲は思わず孝美に視線を向けた。
知的好奇心に満ちた鳶色の目が二人を見返している。
「それで、赤いちゃんちゃんこを着ているとか」
「黒田、馬鹿らしい話は後にしな!」
孝美は、吉乃が声を荒げたのも意に介さずに話を続けた。
あるいは、そういう吉乃の反応を楽しんでいる部分があるのかもしれない。
文芸部のホラー担当というか、歩く妖怪図鑑といった感のある娘なのだ。
「鬼ごっこというか、かくれんぼが好きらしいですね」
「それじゃあ何さ、トイレの中で鬼ごっこしましょって出てくるわけ? 馬鹿らしい」
「信じないんですか、先輩?」
「ん、信じない。学校の怪談なんてどうせガセばかりだしね」
「本当にそう言い切れます?」
「なんなら、今からあたしがトイレに行って確かめてこようか?」
「じゃあ、お願いしますね、先輩」
噂には尾ひれが付き、徐々にそれを変質させていく。
元の形を覚えているものも、いつしかいなくなっていた。
いや、そもそも元の形になど、意味はないのかもしれない。
それは語られる限り変化を続けるのだから。
***
吉乃は、トイレの前にたどり着くと、一度深呼吸をして体制を整えた。
静まり返った校舎の圧迫感に気圧されそうになるが、逃げ出すわけにはいかない。
「好奇心に忠実なれ」を理念とする文芸部員として、花子さんなどいないことを確認しなくてはならない。
軋む扉を開けると、芳香剤の微かな香りがした。
扉が大きな音と共に閉じると、遠く聞こえていた吹奏楽部の練習も聞こえなくなり、静けさが増す。
トイレだけが外界と隔絶されたような錯覚。
上履きをサンダルに履き替えて一歩、踏み出す。
サンダル特有の足音が、静まり返ったトイレに思いのほか大きく響いた。
吉乃は頭の中で噂を確認しながら個室を選ぶ。
「確か、奥から三番目――っと、ここだ」
戸は内側に開いたまま、特に変わった様子もない。
当然だ。個室の戸は洋式の便器が設置されている一番奥の個室を除けば、未使用時は開きっぱなしになるようになっている。
吉乃は緊張しながらも、個室に入り、戸を閉めた。それだけで、個室は薄闇に包まれる。
人工の黄昏刻。
噂では、ここで三回戸を叩き、呼びかけることになっている。
考えればおかしな話だ。
なぜ、個室の戸を内側からノックしなければならない?
「このテの話は大抵、そこが忘れられてるんだよな。やはりここは何もなかった、ということで」
吉乃は個室から出ようとして、固まった。
小さな音が三回、個室に響いたのだ。
ノックするような、硬く短い音だった。
「――誰?」
吉乃は思わず声を上げた。
誰かが入ってきたにしては静かすぎる。
そういえば、入り口の扉が開く音はしただろうか?
それに、サンダルの足音は?
どちらも、静かなトイレの中では大きく響く。
気付かないなどということは、ありえない。
ということは――。
「は、花子さん、ですか?」
吉乃は震える声で訊ねた。
「うん、そう」
個室に、少女の声が響いた。同時に、個室の戸がゆっくりと開く。
その向こうには、誰もいなかった。
吉乃は個室の入り口からそっと周囲を覗うが、人の気配はない。
「どこ見てるの? こっちよ」
不意に聞こえた声に釣られるように、吉乃は上を向いた。
そこには、個室の戸の上辺に腰掛けた、着物姿の少女がいた。
白い着物に赤い帯を締め、その上に赤いちゃんちゃんこを着ている。
「何して遊ぶ?」
少女――花子さんは、無邪気な笑みを浮かべて、首を傾げた。
「――――っ」
吉乃は転がるように個室から飛び出すと、そのままトイレの外まで走った。
トイレから飛び出した途端、そこにいた誰かと派手にぶつかった。
「吉乃先輩、どうでした?」
声を掛けられて、吉乃はそれが孝美であることに気付いた。
「じ、実はさ、花子さん、花子さんがいて――」
「まさか、本当に呼んじゃったんですか?」
「よくわかんないけど、いたんだって!」
孝美は吉乃が動転しているのを見て、ただ事ではないと思ったようだった。
「じゃあ僕、見てきますよ。先輩はここで待っていてください」
孝美がそう言ってトイレに入っていった後、吉乃はその場にへたり込んでしまった。
ややあって、吉乃が落ち着きを取り戻した頃、孝美がトイレから出てきた。
「何か見間違いしたんじゃあないですか? 中には誰もいませんよ」
孝美は笑いながら、吉乃に上履きを差し出した。
「脱ぎっぱなしでしたよ。気をつけてくださいね」
「ん、ごめん。なんかありえないもん見たみたい」
吉乃はそう言いながら、上履きに履き替える。
「そうですよ。大体、あれは単なる噂なんですから」「何して遊ぶ?」
同時に発せられた言葉に驚いた吉乃は、思わず顔を上げた。
孝美の肩越しに、花子さんの顔が見えた。
無邪気な笑みを浮かべて首を傾げている。
吉乃は脱兎の如く駆け出した。
「ちょっと、どうしたんですか、先輩?」
「鬼ごっこがいいの? じゃあ、数えるね。ひとーつ、ふたーつ……」
孝美の声に覆いかぶさるように、花子さんの声が聞こえてきた。
その声はどれほど走っても、校舎に反響して追ってくる。
声が五を数える頃、吉乃は階段を駆け上がった。
そのまま、三階にある自分の教室へ駆け込み、膝を抱えるようにして教卓の裏に隠れた。
その直後、ポケットのスマートフォンが振動し、着信を告げた。
『着信あり 非通知』
画面にはそう表示されていた。
恐る恐る通話ボタンを押すと、スピーカーから砂嵐のようなノイズが聞こえてきた。
『もしもし、私花子。いまね、ご不浄の前よ』
ノイズに混じって微かにそんな声が聞こえ、電話が切れた。
十まで数え終えた花子さんが、動き出したのだ。
思わず、吉乃はスマートフォンを床に投げ出した。
次の瞬間、再びスマートフォンが着信を告げる。
また、非通知着信だった。
吉乃が通話ボタンを押せずにいると、スマートフォンは勝手に通話モードになった。
『もしもし、私花子。いまね、階段のところよ』
ノイズ交じりにそう言うと、電話はぷつり、と切れた。
声が気持ち明瞭になったような気がする。
階段にいる、という宣言からも、花子さんがこちらに近付いているのがわかった。
吉乃は背筋に例えようのない悪寒が走るのを感じた。
まるでよくできた恐怖映画のような展開。
しかし、目の前で起こっているそれはまぎれもなく現実だった。
間髪入れずに次の着信。
今度も、通話ボタンを押す前に通話モードになった。
『もしもし、私花子。いまね、二階に上ったの』
ぷつり。電話が切れた。
それは、一方的な追跡宣言だった。
その不気味な宣言に、吉乃は一つの怪談を思い出す。
あの怪談は確か、追いつかれたところで終わっていた。
だが、その先に都市伝説的な猟奇的終末が待っていることは明らかだ。
『もしもし、私花子。いまね、三階よ』
ぷつり。
反論する余地もない、宣言の連続。
少し前に流行った交霊遊びにも似た、今の状況。
吉乃の中を、後悔と恐怖が紙にインクをこぼしたように染め上げていく。
大声で叫び出したい衝動が湧き上がってくるのを理性の限り押し留める。
『もしもし、私花子。いまね、二年一組の前よ』
ぷつり。
ノイズの向こうから聞こえる声は次第にはっきりしてくる。
もう、花子さんはすぐそこまで来ている。
見つかるのも時間の問題だった。
それでも、吉乃は動けなかった。いや、動く機会を逸したのだ。
今更動いても見つかるのが早まるだけだ。
それに気付いて、吉乃はもう駄目だ、と思った。
『もしもし、私花子。いまね、二年二組の前よ』
ぷつり。
吉乃は目を閉じ、頭を抱えた。
心臓の鼓動が普段の何倍も大きく感じられた。
息苦しさを感じ、呼吸が荒くなる。
次はこの教室の前だ。それなら、その次は――。
『もしもし、私花子。いまね、二年三組の前よ』
その声はノイズに紛れることなく、はっきりと聞こえた。
吉乃は今にも花子さんが教卓を覗くのではないかと身を硬くした。
しかし、その様子はない。
どころか、スマートフォンも沈黙している。
しばらくして、吉乃はそれに気付いた。
そっと目を開け、周囲の様子をうかがうが、人の気配はしない。
吉乃は一瞬、安堵のため息を吐いたが、すぐにそれが間違いだったことに気付いた。
スマートフォンは沈黙していたのではなく、ずっとノイズを流していたのだ。
「いまね、あなたの後ろにいるの」
花子さんの声。それは目の前のスマートフォンではなく、背後から聞こえてきた。
教卓の向こうから。
「ふ、ふふ、ふ。見ぃつけた。ほら、出ておいで」
唐突に教卓が滑り出し、吉乃は後ろ向きに投げ出された。
痛みをこらえつつ起き上がった吉乃は、恐る恐る後ろを振り向いた。
花子さんが、いた。楽しげな笑顔を浮かべて吉乃を見ている。
その右手には何故か一振りの包丁が握られていた。
「仲良しのしるしに赤いちゃんちゃんこ、着せてあげるね」
そう言って包丁を振り上げた花子さんの目には、微塵の害意も邪気も、狂気すらもなかった。
ひたすらに無邪気。
吉乃は地面を這うようにして後ずさるが、そもそも広くない空間で、すぐに壁にぶつかった。
「どうして逃げるの? お友達でしょう?」
花子さんは無邪気な笑みを浮かべたまま人形のようなぎこちない動きで近付いてくる。
吉乃はもう駄目だ、と思った。
その時、横合いから割り込むように、何かが二人の間に差し出された。
それを見た花子さんの動きが止まる。
それは、一対の折り紙の雛人形だった。
白い紙の男雛と赤い紙の女雛で、見るからに急ごしらえとわかる。
それを突きつけるようにして、孝美が花子さんの前に立ちはだかった。
「赤い紙やろうか、白い紙やろうか」
孝美が問いかけると、花子さんは黙って雛人形を受け取り、そのまま周囲に溶けるように消えていった。
「先輩、大丈夫ですか?」
孝美が心配そうな顔で振り向いた。
吉乃は大きく息を吐くと、壁につかまるようにして立ち上がった。
「なに、さっきの……?」
「古いトイレの妖怪を祭り、鎮める儀式みたいなものです。花子さんにも効くかもと思ったんで用意しました」
孝美は言った。
平然としてはいるが、急いで用意したのだろうことは想像に難くなかった。
「そっか……。ありがと」
吉乃はそう言うのが精一杯だった。
「それにしても、どうしてこうなったんでしょうね?」
孝美はわからないという顔をした。
「花子さんといえば、人を脅かすだけの害のないお化けだったのに……」
「噂のせい、かもね」
「噂、ですか。そうかもしれませんね。あるいは時代――」
「時代?」
「昔からお化けというものは時代に合わせて変質していくものですから」
孝美はそう言って吉乃に背を向けた。
「……馬鹿らしい」
吉乃はそう言って鼻で笑った。
トイレの花子さん(といれのはなこさん)……
全国的に言われるトイレの妖怪現象。
ただ返事をするだけの場合が殆どだが、中には呼んだ者を冥界へ引き込んだり、食い殺したりすることもあるという。
出没する個室も学校によってまちまちで、奥から三番目だったり、手前から三番目だったりする。
――――十詠社刊『本朝妖怪録』より抜粋
終盤、吉乃と花子さんの間に孝美が割ってはいる部分は吸血鬼映画で観た、吸血鬼が画面に近付いてきた時に画面外から主人公の手が割り込んできて十字架を突きつける場面をイメージしてます。
やはり、前作同様、HP掲載時とほとんど変化はありませんが、多少なりと楽しんでいただければ幸いです。