14.ホテルで一晩過ごした。だけど何もなかった。
11/03、2話目
「どうしました? 八雲さん」
俺のあげた声に気付き、三人がベランダに寄ってきた。
「あ、あれを見てくれ」
俺の指差した先には月があった。
「月……でしょうか?」
「あおいよ」
「うむ、青いですね」
俺はさらに別の方角を指差す。
「月が……もう一つありますね」
「あかいよ」
「うむ、赤いな」
そしてさらに別の方角を指差した。
「……月、まだあるんですか」
「おっきいー」
「うむ、月が大きいな」
地球にいるはずなのに、まるで違う星に来てしまったような感覚だ。
少なくともここは、太陽系第三惑星ではない、というより、地球が太陽系第三惑星ではなくなってしまった、という事なのだろう。
しかしそうすると、色々と疑問が浮かぶ。
社畜のお姉さんが言っていた「異世界に地球が召喚された」という事についてだ。
それが本当だというなら、その異世界とやらの地形はどうなってしまったのだ? 建造物とかはないのか? 元いた異世界の住民はどこに行ってしまったのだろう? いや、そもそも、地球が異世界召喚されたというのは一体どういうことなのだろうか?
あまり賢くない俺がこれ以上考えても、何も答えは浮かばなさそうだ。
何と言うか、地に足がついていないような漠然とした不安感はあるが、俺は俺が今できることを精一杯頑張ろう。
とりあえずの目標は、……俺は働かない! うん、これだ。
今はルージュがいるから何とでもなるが、問題はこの後どうなるか、いや、レンがどうするか、である。
それは、明日になってみない事にはわからないが。
今日はもう寝ることになったのだが、そこまでまた一つ問題が起きた。
端的に言うと、ルージュの我が儘だ。もう勘弁してほしい。
ちなみに俺たちは今、レンの家から蝋燭を探し出して部屋を照らしている。
「マスターは私と一緒に寝てください。今までずっとそうだったじゃないですか!」
「どうやってだよ」
「まず私の糸でぐるぐる巻きにします」
「却下」
「そ、そんなぁ……」
「頼むからベッドで寝かせてくれ」
「そうですよ、ルージュさん。折角ベッドがあるんですから、ベッドで寝た方が疲れが取れやすいじゃないですか」
「ということは、奈穂殿はマスターと添い寝をするつもりなのか?」
ルージュがジト目で春川さんを睨むと、春川さんは頬に手を当てて恥ずかしがるように微笑んだ。
「いや、間にレンを挟むからセーフだよ」
そのレンはというと、もうすでにベッドの上で寝ている。
色々あったから、疲れていたのだろう。すぐに眠ってしまった。
俺もさっさと寝たい。
「ふんっ、マスターはまたそうやって、ヤってないからセーフだとか言い張るつもりなんですね」
俺の額にじわっと汗が浮かんだ。
こいつ、まさか三者面談の時の会話まで覚えてやがるのか……?
俺は一度、まだ俺が働いていて嫁と一緒に住んでいた時、朝帰りをしてしまったことがある。
その時一夜を共にしていたのが、他でもない、この春川さんだ。
俺は飲み会で潰れてしまい、というより、ほとんど瀕死だったのだが、そんな状態の俺を春川さんが介抱してくれた。朝まで。ホテルで。
気が付いたら朝で、春川さんと同じベッドに裸で寝ていた俺は大いに焦った。
すぐに何があったのか春川さんに問い質すと、俺が潰れてそれを解放していただけで何もなかったと言われたのだが、安心できるはずもない。お互い全裸で俺は記憶が無く、嫁にも一切連絡を入れていないのだから。
俺は大慌てのまま家に帰り、そのまま嫁にあったことを包み隠さず話し、謝罪した。
その結果、三者面談となってしまったのだ。
今思えば、黙っておけば良かったと思う。
「ルージュさん、私たちは本当に何もなかったんですよ」
そう、あの時も同じことを春川さんは嫁に説明してくれた。
ただ問題があった。
「八雲さんの意識があったらどうなっていたかはわかりませんけどね。お互い裸でしたし。私はそのつもりでしたし」
そうなのだ。
三者面談の時も、今みたいにそんな余計なことを言ってくれたおかげで、嫁は憤怒し、家を出て行ってしまったのである。
「だ、そうですよ、マスター。今回はどうなのでしょうね?」
ルージュの燃えるように赤い瞳が冷たい。あれは完全に俺を信じていない目だ。
「だから、今回はレンがいるって言ってるだろ?」
「もう寝てしまっていて、きっと見られても何をしているのかはわからないレンが、ですね?」
こいつ、ポンコツのくせに急に鋭くなりやがった。
「だいたいホテルで一晩過ごして何もなかったなんて、通じると思っているんですか? 見苦しいだけですよ?」
「まぁ、傍から見たらそうだろうな。だけど、俺のこと信じているなら、話は違うんじゃねえか? だいたい俺が酒飲めないのは事実だしな」
「ひ、開き直りましたね……。ですが、マスター。マスターは何もする気が無くても、奈穂殿もそうだとは限りませんよ」
まぁ、確かにそれはそうだ。
春川さんを見ると、彼女はすっと目を逸らした。
どうしよう。不安になってきた。
「マスターの安全のためにも、やはり私と寝ましょう。使い慣れたタオルケットだってあるので、きっとよく眠れます」
「は? タオルケット?」
ルージュがしまったという顔をする。
よくわからないが、ルージュはきっと俺の家からタオルケットを持ってきてくれたのだろう。
必要かと聞かれると、首を捻らざるを得ないが、別に責められるようなことでもないと思う。
なのになんだろう、ルージュの表情は。てっきり俺に怒られるのが嫌なのかと思ったが、そうではないようで、顔を赤くしてそっぽを向いている。恥ずかしがっているらしい。
「どうしてタオルケットなんか持ってきたんだ?」
「い、いいではないですか。別に」
怪しい。
寝る時に必要だと思った、とか適当に言い訳すればいいものを、なぜ誤魔化そうとする?
「まぁ、いいや。出してみろよ。一緒に寝るか考えるから」
「は、はい」
ルージュは卵のうを引き裂いて木刀や竹刀、そして件のタオルケットを取り出した。
いつも俺が寝る時に使っているタオルケットだ。
これがどうしたというのか。
俺がそれを引っ張ろうとすると、その前にルージュが自分の体に巻きつけてしまった。
「いや、それじゃあ、俺に掛からないよな?」
「うぐ、そうなのですが……」
その時、春川さんが手をパンと叩いた。
表情から察するに、何か思いついたらしい。
「わかりました。ルージュさんのそれ、ブランケット症候群ですよ」
春川さんの説明によると、お気に入りのブランケットやタオルケットを肌身離さず持って安心感を得る状態になることをそう言うそうだ。
そしてその症状は、幼児期に顕著に出るものだという事である。
幼児期に……。
「ルージュ、お前って見た目に反して、実は幼児なの?」
「ち、違います! 精神年齢もちゃんとした大人です!」
ふーん、そうなんだぁ。大人なんだぁ。なるほどねぇ……。
「やっぱりルージュちゃんはパパがいないと眠れないみたいだから、一緒に寝てあげまちゅかねぇ」
「ぷっ、や、八雲さん、あんまりルージュちゃんをからかったら可哀想ですよ」
と言いつつ、春川さんもちょっと乗ってきている。
さて、ルージュはというと……あれ? 蝋燭の火が消えた。
――キチっ。
ん? あれ? 何かに挟まれたぞ。
「確かに私はマスターがいないと眠れないようです。なのでもういっそのこと、私の中で永眠いたしますか? ドロドロに溶けた後で」
あ、これ牙だ。牙にがっちり挟まれちゃってるわ。
「ル、ルージュ? ルージュさん? ルージュ様? あの、俺、すっごい悪いことしたなって思っているんで、放して頂けたりしないでしょうか?」
「で、今日はどちらにお休みで?」
「ハハハ、もちろんお美しい貴女のお傍で寝かせて頂きたいなぁ、なんて」
「しょうがないですね、マスターは。あ、それと、レンには今の話はしないでくださいね。じゃないと自動回復のスキルで、腕が生えてくるか試すことになりますよ?」
「言うわけないじゃないですかぁ!」
「奈穂殿もですよ」
「ん゛ー、ん゛ー」
春川さんはどうやら顔を糸でぐるぐる巻きにされているらしい。
いつの間にやったのだろう。恐るべき早業だ。
その後俺と春川さんは解放され、春川さんはレンと一緒に、俺は卵のうにしまわれ、ルージュの腹、いや、胸の下で眠ることになってしまった。じゃなくて、ルージュの蜘蛛部分の胸の下、だ。……紛らわしい。
意外と寝心地は悪くなかった。
ただ、暑い。
仕方なく一度服を脱ぐことにする。
「ルージュ、一度外に出してくれ」
「承知しました、マスター」
外に出してもらうと、屋上だった。
いつの間に移動したのだろう。まったく気付かなかった。
「お前、寝ないのか?」
「私は夜行性ですので」
「そういえばそうだったな。昼間はどうしようか?」
「ご心配なく。二時間も眠れば十分ですから。あとは普通に活動できるかと思います」
それならば助かる。
ルージュに合わせて陽が沈んでから動き出すのでは、少しの時間しか移動できなくなってしまう。
「あ、あの、マスター」
「なんだ?」
「いえ、その、なぜ脱いでいるので?」
「それはお前の……」
「わ、私の……?」
「……卵のうの中が暑いからだ」
「ア、ソウデスカ」
パン一になった俺は再びルージュの卵のうの中にしまわれ、そこで眠ることになった。
まぁ、うん。寝心地は悪くないし、いいか。
「マスターは結構いい体していますよね」
「病弱だしな。体鍛えとかないと」
「私の体はどうですか? マスターの好みに合うでしょうか?」
「うっさいな、疲れてるんだから寝かせろよ」
「うっ、すいません」
本当に黙っていて欲しい。
でないと、抑えられなくなってしまう。
俺は昂ぶる感情を抑えて、瞼を下ろした。
気持ちは昂ぶっているが、疲れが勝ったようで、すぐにうつらうつらとしてくる。
明日は……大型スーパーにでも……行こう。
俺は最後にそんなことを考えながら眠りについた。
そこで俺を何が待ち受けているかも知らずに。




