01.女神さまは社畜だった。
※蜘蛛嫌いな方は全話閲覧注意! 一応ヒロインの正体はぼかしてます。
ちょうど太陽が中天に差し掛かった頃、アパートの自分の部屋の前に辿り着いた俺は、やっと一息ついた。
ゴールデンウィークも過ぎた今、長袖は少し暑かったかもしれない。
とりあえず部屋に入ったら水だ、と思いつつ、鍵を開けて扉を開ける。
扉を開けて部屋を覗いた俺は、まず自分の目を疑った。
俺は今、一人暮らしのはずだ。ちゃんと鍵も掛かっていた。
それにも拘わらず、部屋の中に誰かいるのだ。
美しい女だった。
まず日本人ではないであろう。俺の何回りも小さな白い顔の持ち主である。
それがどういうわけか全裸。豊満な肉体を俺の前に晒していた。
腰まで伸びたサラサラとした赤髪、赤い瞳、白い肉体、二つの巨峰、キュッとしたくびれ、下は無毛、そして肉感のある、しかし太すぎない太もも。
そこまではいい。そこまでは普通の女。いや、こんな極上の女はテレビでも見たことない、というのは除いて。
問題はそこから下だった。
膝から下が無い。いや、あるにはある。あるにはあるが、あると言っていいかわからない。いや、駄目だろう。どう見ても足じゃない。
女の膝から下にあったのは、巨大な蜘蛛だった。
体色は薄茶色で、焦げ茶色の縞模様があり、体長は百六十センチぐらい。全長は、……わからないが部屋いっぱいに足を伸ばしている。
アラクネ。
咄嗟にその単語が思い付いた。
思い付いた途端、しっくりくる。
こいつは間違いなくアラクネだ。問題はなぜそんなファンタジーみたいなモンスター娘が俺の部屋にいるかという事だが。
アラクネの赤い瞳と目があった。
彼女は可憐に微笑む。
そして言ったのだ。凛とした声で。
「お帰りなさい、マスター」
~~~
【アラクネと遭遇する五時間前】
俺が目を覚ますとそいつは俺の胸の上にいた。
そいつは俺の部屋の居候、というよりは、俺の方が後から来たのかもしれんが。
まぁ、ともかく、人間ではない。かといって、ペットってわけでもない。
守り神、部屋の主、同居人、家族、……一番しっくりくるのは相棒だろうか。
「お早う」
『お早う、マスター』
「じゃ、お休み」
『ダメです、マスター。起きてください。今日は仕事を探しに行くんでしょう? このままじゃダメ人間になっちゃ……もうなって……なっちゃいますよ!』
俺は一つ伸びをし、嫌々ながらも起き上った。
そいつは俺の胸の上から退避し、ベッドの横にある、ちゃっちいプラスチック製の箪笥の上に移動している。
俺には特技がある。
それは人間以外と会話できること、ではなく、そいつ限定で声が頭に直接聞こえてくることだ。
寂しさのあまり聞こえてくるようになってしまったと思われるのだが、それを特技で済まそうとしている俺は、もう色々手遅れなんだと思う。
そいつに見守られながら、洗面台まで移動し、顔を洗い、髭を剃り、口をゆすぐ。
まだ頭はぼぅっとするが、習慣のまま体は動き続け、パンをトースターで焼いて、冷蔵庫から卵とベーコンを出した。
フライパンに火をかけ、油を垂らし、ベーコンから焼いて行くのだが、その前にベーコンを一欠けらちぎって、俺の肩の上まで移動してきたそいつに渡した。
『ありがとう、マスター。とても美味しいです』
多分そいつと同じ種は、こんな風に餌は食べないと思う。確か生きた奴しか食わないんじゃなかったか。とりあえずベーコンなんか食べないだろう。
そいつが俺に食料をねだって来るようになったのは、六年ぐらい前の寒い冬の日だ。
それ以来一日二食、きっかりねだってくる。
と言っても、せいぜいが肉の欠片だけなので、食費に打撃はないから、あまり気にならない。
俺は自分の肩でそいつがもきゅもきゅしているのを尻目に、フライパンでベーコンを焼き、その上に目玉焼きを作っていく。味付けは塩コショウで十分。
あとは温めのココアを作って、それらをテーブルの上に置いて、朝ご飯にした。
『マスター、お仕事見つかるといいですね』
「見つからないって。俺みたいな持病持ち、どこも雇ってくれないさ」
『弱気になってはダメです。きっとどこかにマスターに適した仕事があるはずです』
「喘息、その他諸々の病気があっても雇ってくれるとこねぇ……」
『はい!』
正直、何かの臨床実験のモルモットぐらいしか思い付かないんだが。
俺も若い頃はここまで体が弱くなかった。いや、幼少の頃は小児喘息を持っていて、苦労はしていたのだが。
中学に上がる少し前ぐらいから、体が強くなり出し、十九ぐらいまではスポーツだってガンガンやってたくらいだ。
調子が狂い始めたのは成人してすぐの頃だろう。
成人発症喘息というのを発症し、他にも特定指定難病という、少しばかり厄介な病気を患ってしまった。
もう一生治ることは無いそうだ。医療科学が発達すれば、ワンチャンあるかもしれんが。
そんな体の弱い俺でも、一か月前まではちゃんと働いていた。
派遣ではあるが、正社員雇用も視野に入れてもらった仕事だったのだ。
一日四時間は無償で残業し、休みの日は仕事のために勉強して、おかげで機械音痴だった俺が自作PCなんかも作れるようになった。
だが、一か月前に、体が弱いことを理由に切られてしまった。
派遣切りなんて簡単なものなんだろう。
というわけで、職を失ってから一か月は無気力だったのだが、今日から少し活動することにしたのだ。
ハロワに行って仕事を探す。
ま、見つからなくても、探すふりだけしときゃ、失業保険は入るわけだし。
朝食を済ませた俺は、着替えて必要書類を確認し、出掛けることにした。
そいつはシューズラックの前まで登ってきて、俺を見送ってくれる。
『いってらっしゃい、マスター。私は応援していますよ!』
「おう、期待はするなよ」
俺は手を振りつつ、外に出てチャリに乗ってハロワに向かったのだった。
三十分後、ハロワに着いた。
本当は十五分ぐらいで、バスで来られるのだが、出費を抑えるため、チャリにしている。
チャリを止めて中に入った。
書類を書いたりなんだりして、最後に同じ申請をした何人かの人が集まり、説明を受けることになった。
そしてその時、それは起きた。
『ピンポンパンポン。地球の皆様、初めまして 』
突如どこからか、若い女の声が聞こえてきた。
聞こえているのは俺だけじゃない。誰もが辺りをきょろきょろと見回している。
『私は地球の管理者です。この度こうしてお話しさせていただいているのは、そうせざるを得ない理由ができてしまったからです』
アナウンスみたいな始まり方だったけど、この声はもっとはっきりと聞こえる。周りの人たちが騒がしくしていても、明瞭なのだ。
まるで脳内に直接響いてくるような……。そうだ。そう考えるとしっくりくる。でも、そんなバカな。
『誠に遺憾ながら、とある世界のある人物が、皆様を、いえ、地球ごと自分の世界へと召喚してしまいました。そのおかげで、はぁ、私の仕事が 』
それにしても、さっきからなんてこと言ってるんだろう。とても信じられるような内容じゃない。
ただこのお姉さんの声、冗談を言っているようには聞こえない。
さらにこの声からは、一つの感情がありありと伺える。
――疲れた。
地球の管理者を名乗るこの女性は、間違いなく社畜だった。
社畜がこんな悪ふざけするだろうか。いいや、しない。
『残念ながら私は世界を元に戻すことができません。さらに悪いことに、地球とこの世界との融合が始まってしまっています。あと三時間もすれば、世界は人を襲う魔物が跳梁跋扈する世界へと変化していってしまうでしょう』
まるでラノベみたいな展開だ。
そんなこと言われても信じられないし、理解もできない。
だけど社畜のお姉さんは、事実しか言っていないのではないだろうか。
『私に出来るのはせいぜいが皆さんの手助けをするぐらいです。額に手を当ててみてください』
俺は思わず言われた通りにしてしまう。
でもそうしているのは、俺だけじゃない。
だいたいの者が同じようにしていた。
『その状態で【スマートツール】と念じてみてください。声に出してもいいです』
どこからも声は聞こえない。
皆念じているようだ。声に出すなんて恥ずかしいし、俺も当然そうした。
途端におでこから何かが出てきて、掌に当たった。
げっ、なんだこれ! 怖い怖い怖い!
途端に辺りから悲鳴やらざわつきやらが聞こえてくる。
こんなもん誰だってビビる。俺だって怖い。
『ご安心ください。それが皆さんの活動を補助する道具です。それを引き抜き、電源を入れてみてください。あとは画面を操作している内に、使い方がわかって行くでしょう。それでは申し訳ありませんが、私にできるのはこれまでです。ごめんなさいね。はぁぁぁ』
盛大な溜息の後、お姉さんの声は完全に聞こえなくなってしまった。
あとに残された俺たちは、説明会だったのも忘れて、全員でおでこを抑えている。
静まり返った室内で全員が額を抑えているという、何ともシュールな画であるが、誰も笑い出す者はいなかった。
俺は意を決してそれを引き抜いてみる。
何の抵抗もなく、それはあっさり額から抜けた。
見た目は真っ黒なスマホだ。お姉さんの話では、これはスマートツールというらしいが。
とりあえず電源を入れてみる。
何のロゴもなく、いきなりホーム画面が表示された。
アプリアイコンは三つしかない。
下に俺の名前が書いてあるアイコンと、「職業」と書かれているアイコン、あと「武器&防具」と書かれているアイコンである。
俺の名前が書かれているアイコンを押してみた。
画面上部に、黒髪短髪の死んだ魚のような目をした男の胸から上が写っている。
俺だ。
相変わらず、評価し辛い顔をしていると思う。
可もなく、不可もない。
これでも中学の時からずっと恋人はいたし、恋人いない歴一年以上ってことは無かったから、不細工ではないんだろうけど。かといってイケメンでもない。濁った眼は酷いが。
それはともかくとして、その下にも色々と情報は載っていた。
名前 :イクト ヤクモ
所属PT:なし
状態 :病(中)
体力 :38
攻撃力 :100
耐久力 :95
敏捷 :32
反応速度:43
魔力 :30
魔力耐性:31
SP :100
職業 :なし
スキル :なし
まるでゲームみたいだ。
この数値が高いのかどうかはわからない。
だが、正確なのではなかろうか。
状態に「病」とあるし、職業は「なし」だし……。
「と、とりあえず、今日の所は以上としまして、書類を受け取った方達から解散してください」
ざわつきつつもその場は解散となった。
俺は外に出て、とりあえず一緒に住んでない家族に連絡を入れてみることにした。
しかしスマホは誰にも繋がらず、そもそも圏外になってしまっている。
未だに信じられずにいるが、あのお姉さんの話では、地球ごと異世界召喚されたのではなかったか。なら、スマホは使えると思ったのだが、使えないらしい。
だがこのスマホが使えない状況は、あまりにも非現実的だ。
お姉さんの言っていることが事実になってしまったかもしれない、と思わせるには十分だった。
胸が早鐘のように鳴っている。
とりあえず一度帰ろう。
そう思ってスマートツール、略してスマツをジーンズのポケットにしまおうとすると、その前に持っていた左手の掌の中に潜って行ってしまった。泥の中に沈んでいくみたいに。
慌てて「スマートツール」と念じると、再びスマツは掌の上に現れた。
どうやら体のどこにでもしまえるようだ。
便利ではあるが、ちょっと怖い。
とりあえずスマツが無事なのを確認した俺は、改めて左手の中にしまい、家に向かってチャリを漕ぎ始めた。
車の行き交う国道を走りながら俺は考える。
正直、こんな展開を俺は待ち望んでいた。
無職ではあるが、色んなしがらみから解放されるかもしれない。
社会なんかぶっ壊れてしまえ、俺はずっとそんなことを考えてきたのだ。
だけど問題がある。
それはやっぱり持病だ。
社会が壊れれば、病院だって当然機能しなくなる。
結局俺は、社会が無ければ生きていくことのままならない弱い人間の一人なのだろう。
そんな風に感傷に浸っていても、しょうがない。
家に帰れば薬はあるし、多分一か月ぐらいは持つと思う。
それから先はどうしたものか、わからないが。
全ては帰ってから考えることにして、俺はチャリを急がせた。
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【そして、物語冒頭】
「お帰りなさい、マスター」
赤い髪と赤い目のアラクネは、気高く、そして美しく微笑む。
今日あった異常事態は、目の前の異常事態に、一瞬にして吹き飛ばされたのだった。
※今日明日で数話投稿予定です。
※本来であれば、冬眠にて越冬しますが、通常の倍以上生きている異常個体という設定です。蜘蛛は八年生きると妖怪になるとか……。