愛する者のため
それより二時後、日向徳兵衛の離れに、額を付け合わせる二人の男がいた。一人は徳兵衛であり、もう一人は相馬一平である。
二人の前には白山の里の絵図が敷かれている。
「相馬殿、こたびの戦は勝てますかな?」
「わかりませぬ。織田勢は我らとは違い、戦に慣れていまする。ただ・・・」
「ただ?・・・」
徳兵衛は小首を傾げた。
「ただ、織田方の大将が猪突猛進を信条とすると雑兵達が言っていましたので、あるいは勝機もあるかと・・・」
相馬一平は絵地図の一点を何度も見つめ直している。
「ところで相馬殿、以前貴殿は、戦わぬことが愛する者を守ることだと言っておったが・・・」
徳兵衛は、どうしてもその答えを彼の口から聞いてみたかった。
「今でもそれは変わりありません」
「では、何故・・・」
一平は静かに目を閉じると、静かに天を仰いだ。
「人がこの世を作るのではなく、この世が人を作り、そして変えるのです。この里に暮らしてみて、少しだけそれが分かったような気がします。今は愛する人のため、供に暮らす仲間達のために戦うだけでございます」
「この世が人を変える・・・か」
徳兵衛はひとつ、深いため息をついた。
二日後、谷に忍ばせておいた物見の者から知らせが届いた。いよいよ織田勢が動き出したのである。
知らせによると織田方の軍勢は鉄砲隊を中心としたもので、その数はおよそ五百。一平が松任城で聞いた通りである。
それを指揮する侍大将もこれまた毛受勝照であり、これまた変わりはなかった。
一平は手筈通りの指示を与えると、自らは十人の仲間を引き連れ、一路舟岡山へと向かった。
対する織田勢は、松任城より真っ直ぐ南下すると、鶴木の河原で隊を整え、再び細長い隊列となって手取川を遡って来る。
その織田勢が舟岡山に差し掛かったとき、一平は彼の作戦を実行に移したのである。
「よいか、鏑矢は敵を射るのではない。隊列の遙か上を狙って対岸の山へと打ち込むのじゃ」
そう言うと、彼は弓弦を力の限り引っ張り、鏑矢を織田勢の上空に向けて放つ。
鏑矢は『くおーん』と言う音と供に彼らの頭上を越えると、対岸の森へと消えていった。
その音は山を背に、こだまして幾重にも反響する。
突然の音に、驚いたのは織田勢である。そのもの悲しい音のこだまは、織田勢の足を止めることとなった。
中には頭を抱えてしゃがみ込む者さえいる。
毛受勝照は大声で叱咤したが、この何とも奇妙な音は彼らを震え上がらせるには十分な効果があった。
一平のそれに村の若者達も続く。
その音は天空にある黄泉の世界から聞こえて来るようにも、はたまた地獄の入り口から聞こえてくるようにも感じられる。
兵達は音がする度に天を仰ぐが、もうその時には鏑矢の姿は無い。たまに矢が対岸の木々に当たって木が騒ぐものなら、それがまたいっそう恐怖を誘うこととなるのだ。
ついに織田方の兵の中には、その恐ろしさのあまり、山肌に向け無作為に鉄砲を放つ者まで出てきた。
その都度、またも隊列の足は止まることとなるのである。
よって、やっと織田勢が瀬木野の河原に到着したときは、すでに夕暮れを迎えようとしていた。
それでも、すでに白山の里とは目と鼻の先である。毛受勝照は念のため物見を放つと、今日の野営地をこの瀬木野の河原とした。
織田軍は河原いっぱいに陣を張ると、所狭しとばかりに薪に火を点けた。山間にあって、ここだけはまさに昼間のように明るい。
と、ここまではまさに一平の計画通りにことが運んでいる。
半時もすると、物見の者が戻ってきた。
早速勝照はその様子を問う。
「一向衆の里の様子からは、今宵我らに攻め入る気配はございませぬ」
「何故じゃ?」
勝照は何事にも短気である。
「里の家々には明かりが灯り、どこにも夕餉支度の煙が上がっておりまする」
「所詮は烏合の衆じゃ。たっぷりと飯でも食わせてやるが良い。明日の朝になれば、その首と胴とは繋がってはおらんのだからのお」
勝照は勝ち誇ったかのような口振りで呟くと、近くの兵にもっと篝火を燃やすように指示をした。
一方、牛淵の崖に潜んでいた太助は自分の目を疑った。今まさに、自分達の目の前で、一平が言っていた通りに織田の軍勢が野営のための陣を張り始めているからである。
太助ら弓部隊は音も立てず左右に広がると、一平からの合図の時を静かに待った。
「それにしても、なんと河原は昼間のように明るいことじゃな・・・」
太助は驚きと供に一人呟く。
森のあちこちでは梟がほうほうと寂しそうに鳴いている。
兵の中にはその姿を見定めようとしているのだろうか、真っ暗闇をじっと見つめている者も少なくはなかった。
夜も深まり、満天の星が空に一筋の川を作り始めた頃、一平は次の作戦に出た。彼は鏑矢を真上に向けると、その満天の星空に向け力一杯放った。
鏑矢は面妖な音と供に、織田勢がいる陣の中へと落ちていった。
それを合図に、太助達の弓隊は織田の陣に向けて一斉に矢を射込んだのである。
夜の帳の中を、空気を切るような音がしたかと思うと、篝火の側に立っていた兵がばたりと倒れる。一人、また一人と・・・
一瞬にして織田方の陣の中は、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。逃げまどう者もあれば、闇雲に鉄砲を闇に向け放つ者もいる。
毛受勝照ですら兜を着けることも忘れるほどに狼狽えた。彼は逃げまどう兵らを捕まえるとすぐさま指示を与えた。
「篝火を増やすのじゃ。河原を昼間のように照らすのじゃ!」
たちまち河原は、また広間のような明るさを取り戻す。しかし、これは織田勢にとっては必ずしも正解ではなかった。
河原が明るくなればなるほど、周りの闇はいっそう濃いものとなり、それは太助らの姿を隠すことにもなる。
太助は賢明に矢を射ながらも、一平が言っていた言葉を思い出している。
『よいか太助、もし織田勢が騒ぎ出した後、篝火をにわかに消すようなことがあれば、その時は黙って退くのじゃ。しかし、逆にさらに火を焚くようなことがあれば、その時はその篝火めがけて矢を射込むのじゃ』
しかして河原は、まさしく一平の言葉通りとなった。
太助ら弓衆はその矢が尽きるまで、篝火に向かって矢を放った。
そんな中、織田の陣営より兵が一人二人と森へ逃げ出し始めた。
すでに瀬木野の河原は織田方の兵の骸がその黒い影を幾重にも作っている。兵達は我先にと揚原山へ続く森を駆け抜けていく。
ところが彼らもまた、この後地獄を見ることとなるのである。
森を抜けた兵達は、広く平らな高台に出た。足元には何故か藁が敷き詰めてある。 しかしこの時の彼らにとっては、それがどのような意味を成すものなのかなど到底考える余地もない。
兵達は何の疑いもないまま、その上を駆け抜けていこうとする。
ところが、そんな彼らが藁に染み込んだ油の臭いに気付くまでには、そう長い時間はかからなかった。
一本の火矢が彼らの頭上を飛び越えたかと思うと、落ちた周りの藁からはすぐに炎の塊があがった。火矢は四方八方へと放たれる。
最初、火の手は彼らを囲むかのようにと見えた。しかし気が付けば、既に火は炎の大波となって兵達を飲み込もうとしている。
逃げ惑う兵達がまるで炎の中を踊っているようにも見える。そして、轟々《ごうごう》と燃えたぎる炎の渦の中から、最後を迎えようとする人間の断末魔が闇夜を切り裂く。
それでも、辛うじてそこから逃れた者はさらに山を目指した。そこには、武器も捨て具足も捨て這うようにして逃げる人の姿がある。
塹壕の中で鉄砲を構える孫一らは、目の前で繰り広げられるこの光景にしばし言葉を失った。とその時、鏑矢の音が空に響く。一平からの合図である。
孫一は再び我に返ると、大声で叫んだ。
「放てーっ」
轟音と供にその声は、山の谷間に幾度もこだまする。そしてこだまが止んだ時、その台地には一人の動く者も見つけることはできなかった。
まさに一向一揆軍の圧勝である。
毛受勝照は数人の供回りの者を連れると、手取川の河原を這々《ほうほう》の体で逃げていく。
若者らはこれを追おうとしたが、一平はこれを許さなかった。
ここで彼らを全滅させたのでは、次に織田軍が来る時、今日の何倍という兵力となるであろうということを知っていたからである。
男達は腹の底から勝利の雄叫びをあげた。
中には一平に気を使っているのであろうか、この輪には加わらない者もいたが、それでも皆一様にその顔には笑みがこぼれている。
しかし一平だけは燃え盛る炎の中で、これから始まるであろう本当の地獄を思い、一人浮かぬ顔をしていた。
次の日、彼は河原に散乱した武器を集めさせると、織田の兵の骸はその台地へと埋葬した。
そこからは、揚原山のあの彼岸花が真っ赤に染まって見えていた。
数日後、一平は揚原山の棚田にいた。次の戦に備え、鉄砲隊を配置する場所をこの高台より探していたのである。
今日は傍らに香がいる。
すっかり秋めいた風の中、田では今年も稲穂が大きく実り、空には無数の赤蜻蛉がくっきりと動く紋様を作っている。
それは二人が出会ってから、二度目の秋を迎えようとしていた。
「今年も見事な稲穂が実りそうですね」
「はい」
香は一平の少し後をついて歩く。
「稲穂が刈り取れるまで、時間があればよいのですが・・・」
彼は稲穂を、そっと掌に取る。
その棚田に沿うように畦には、今年も彼岸花が赤色の花を付けている。
「曼珠沙華、でしたよね?」
一平は、その花が咲き誇る畦に腰を下ろした。香もそれにならう。
「相馬様、曼珠沙華の花の言葉をご存じですか?」
「花の言葉?・・・」
「曼珠沙華には、悲しい思い出という意味があるのです」
香は、その花を一輪折って手に取る。
「悲しい思い出?・・・」
一平は香を見つめた。
香の白い手の中で、花はさらに赤く悲しく見える。
「でも曼珠沙華には、別の花の言葉もあると聞いたことがあります。それは、また会える日を思ってひとり待つ、と言うのだそうです」
香は微笑むと、一平を見つめた。
「いつか、私もこの曼珠沙華の花の中、また一平様にお会いできる日が来ることを、信じております」
「お香様・・・」
燃えるような朱赤色の花に、いつしか二人の姿は溶けて交わっていった。