縁(えにし)
考えてみれば、人の縁とは不思議なものである。
つい半年ほど前まで、相馬一平は京にいた。もちろん友の望月三郎太もである。
彼らは侍頭である奥村永福らのもと、京の街の警護に就いていた。それは、当時京を統括していた織田信長が、前田利家に命じたものでもあった。
京での生活は、田舎出の二人にとってまさに毎日が新しい発見の連続である。
当然警護の任は生易しいものではない。しかしそんな彼らにも僅かではあるが、四日に一度ほど自分達の時間が与えられた。
当然その時間を何に使うかは各々《おのおの》の勝手で、今日も望月三郎太は何処かの茶屋でに転がり込んでは、大好きな饅頭を腹一杯食べていることであろう。それでも彼は、何某かの金銭が貯まると国に残した母親に送ったりもしていた。
相馬一平は次番の警護の者と交代するや、具足もそのままに、早速その足で頂妙寺へと向かった。
頂妙寺は土御門大路と油小路とが交差するところにある。
京の北部を警護していた彼は、細川屋敷の脇を抜けると堀川小路へと出た。この辺りは比較的道幅も広く、走るのには打ってつけであるからだ。
一条大路を曲がると、正面には頂妙寺の大銀杏が目に入る。一平は息を切らせながら、その三門をくぐり抜けた。
「やあ一平、今日も参ったか」
いち早く彼の姿を見つけた武者が声を掛ける。その者は見るからに聡明そうな顔立ちをしている。
「高瀬様、宜しくお頼み申します」
相馬一平は一礼すると、早速向かいの者と槍の稽古をし始める。
「一平、槍を突くときはこうじゃ。両の手を内側に絞り込むように突き刺すのじゃ」
「はいっ」
一平は熱心に指導を付けてくれる高瀬右京を見つめた。
実は一平、毎回非番の時には寸暇を惜しむようにこの頂妙寺へと足を運んでいたのである。
そこではこの高瀬右京らによる剣術、槍術の訓練の他、兵法や兵学に関する抗議が行われていた。
また、この私塾とも呼べる集まりには、下級の武士はもとより雑兵にいたるまで、身分に分け隔てなく参加することができた。よって一平をはじめ幾人もの足軽達がこぞって通い詰めている。
そんな中でも一平の槍術や弓術は抜きに出ており、右京もそんな一平に少なからず関心を持っていたのである。
ところで、その高瀬右京と言えば、もともとは前田利家の家臣、木村三蔵に仕えていた。今でも三蔵の家臣であることには変わりないが、それに加え三蔵が京の警護に就いている間、このように若侍の訓練をも任されていたわけである。
前田利家は早くからこの高瀬右京の武術、学術の才能を見抜いており、木村三蔵を通して頂妙寺の私塾を開かせていたのであった。
「それでは本日は、少ない兵で多勢を相手にするときの兵法についての講義じゃ」
右京は境内の一角に大きな絵地図を広げると、その中に小石をぱらぱらと並べ始めた。どうやら地図は京の街とそれを取り囲む山々のようである。
右京は手際よく兵に見立てた小石を並べ終えると、細い竹の棒で一点を指し示す。
「本日敵が攻めるはここじゃ。敵は京の北側より進軍してくる。そなた達、京の守備力は至って少ない。さあ、どう防ぐかじゃが、意見のある者は言うてみよ」
このように、右近の講義はいつも実践さながらの、それも《もんどう》問答形式で進んでいくのだ。
河埜善太という侍頭が真っ先に答える。
「少ない兵を集め、京の北、禅昌院の門を固めまする」
「それで」
高瀬右京は優しく相づちを打つ。
「お味方が到着するまでの間、我らが決死の覚悟で門を死守するのでございまする」
河埜善太は鼻息も荒く、一気に捲し立てるように語りかける。
右京は穏やかな微笑みと供に、図面上の小石を竹の棒先で器用に集めては、それを禅昌院の前へと並べた。
「他にはおらぬか」
右京は足軽達にも意見を促す。
「京で一番大切なのは御所だとお聞きしました。某なら兵を御所の周りに集めて、御所をお守りいたします」
やはり前田利家の家臣、篠原一孝に仕える荻野和馬という足軽が答える。
一平も荻野のことは何度もこの塾の中で見聞きしていた。彼の剣術の腕は相当なものらしい。
「もちろん御所をお守り致すは、我らにとってもっとも大事なことであるな」
右京は目を細めると、荻野和馬に言葉を返す。
一平はふと思った。それは京の町中ではなく、敵が集結しているという山の中である。彼は食い入るようにその一点を見つめると、あることを思いついた。
当然右京も、そのような一平の反応を見逃すはずがない。彼は名指しで一平に意見を求めた。
「相馬一平、おぬしはこれをどう見る」
皆が一平の方に目をやる。この私塾の中では、皆もまた、一平の武術の腕と学術を修めようとする熱心さをよく知っていたからである。
一平は絵地図の北側に回り込むと、山を表す線の一点を指で指した。
「お味方の兵は少数と言うことなので、とても京の街をお守りすることは叶わないでしょう。ましてや、もし敵が京への進入口を二手以上にしたならば、我々にとって守る術はございません」
高瀬右京はひとつ大きく頷く。
「では、如何する?」
「私ならば、この山間の切り通しで待ち伏せいたします。相手の位置からして、敵は必ずやこの道を通りましょう。そこで先にこれを叩き時間を稼ぎます。また、ここならば敵は大群を動かすことができず、勝負は少数対少数と言うことになりましょう。さらに・・・」
一平がすべてを言い終わらないうちに、右京は細い竹棒で自分の膝をピシャリと叩いた。
「一平、その通りだ。よくぞ京の街を出て戦うことを思いついたな」
右京は一平の肩を、ぽんとひとつ叩く。
この後も、一平はこの高瀬右京の私塾に足繁く通った。右京の方も、そんな一平に対し何かと目を掛けるようになっていったのである。
ある時、弓術の訓練をする一平を見つけた右京は、彼に質問をしてみたくなった。
「一平、物見に出たおぬしが敵方の軍勢を見つけたとしよう。少し離れた味方に、このことを知らせなければならない。しかし、おぬしは敵方のまっただ中じゃ、容易に馬で駆け出すわけにも行かぬ。おぬしなら如何する?」
一平は手にした弓を差し出すと、その弓に矢をあてがい、腰に巻いた布をちぎってその鏃に巻き付けた。
「このように、矢に布を巻きお味方の陣地に向け思い切り射りまする」
「ほう、味方の陣に」
右京は表情を崩す。
「あらかじめ幾つもの色の布を用意しておれば、おおよそ敵の数や陣形をお味方に知らせることもできまする」
一平は弓弦を大きく引くと、それを大空に向けてひとつ射る真似をして見せた。
右京は答える代わりに、懐より何かを取り出すと、それを一平の掌へと乗せる。何やら堅い木で細工されたものらしい。
一平は桐の木で作られたその楕円形の物体を不思議そうに眺め回す。
「これは鏑というものじゃ」
「かぶら?・・・」
彼が初めて聞く名前である。
一平はその木に空けられた複数の穴と、細く巻かれた糸の上からは漆が塗られている様に、いっそう興味をそそられた。
「そうじゃ。鏃につけ空高く射るのじゃ。すると何とも不思議な音がする」
「音が・・・」
一平には、もうその意味がはっきりと分かっている。
つまりは自分が思っていた布の代わりをこの鏑が音で伝えてくれると言うことなのだ。彼はその鏑を片手で振ってみたが、もちろん音などするはずはない。
右京は弓を手にすると、その鏑を鏃に付け、自分の真上に向けて思い切り弓をはじく。
鏑を付けた矢は、『ふおーん』という音を残して空高く消えていく。
「何とももの悲しげな音でございまするな」
一平は思ったままを口にした。
しばらくすると、また悲しげな音と供に矢は二人のすぐ側へと落ちてきた。
高瀬右京はその矢より鏑を引き抜くと、再びそれを一平に手渡す。
「そちにこれをやろう。もうすぐわしも加賀へと参る、頂妙寺での講義も今日が最後となろう」
「しかし、木村様は京の警護に残るとお聞きいたしておりまするが」
「確かに殿は京の警備として残られるが、今回わしは篠原殿の与力として加賀へと向かうことになったのじゃ」
つまりはこれより少し前、北陸の戦況がにわかに悪化するに連れ、柴田勝家の与力である前田利家も、当然これに参戦することとなったのである。
利家は家臣を二分することにした。すなわち、京の警護に残る隊と、北陸に向かうというものである。
京の警護には、譜代より木村三蔵と荒子衆の村井長頼を残すこととした。
当然木村三蔵の家臣である高瀬右京も残るものと思われたが、利家が右京の力を必要としたのである。
結局利家は、彼を篠原一孝の与力として組み入れることとしたのであった。よって、前田利家と共に北陸方面へは譜代衆の篠原一孝、与力の富田重政の他、奥村永福の隊が向かうことになったのである。
利家は最後まで、永福に京へ残るよう説得したが、忠誠心の強い永福はこれを良しとはしない。彼は片時も、利家と離れることを忠義とは思わなかったからである。
必然的に、相馬一平と望月三郎太の槍隊も、慣れ親しんだ京を離れることになったのである。
一平は高瀬右京からもらった鏑を大切に懐へと納めると、槍を片手に奥村隊の列へと加わった。京に後ろ髪を引かれる思いであった三郎太も、この時ばかりは潔く一平の後ろにと従って歩く。
九月、京を後にした一行は琵琶湖の東岸を抜け、まずは越前へと向かった。
途中、北国街道を今庄から三ヶ所山へと歩を進める兵の前に、鍋倉山の裾野が目に映る。兵達は皆、その光景に思わず息を飲んだ。
鍋倉山の頂上へと続くその裾野一面が、まるで赤い染料でも流したかのように染まっていたからである。
それは燃えるような、それでいて何処かもの悲しげな朱赤色をしている。
「彼岸花じゃ、まるで儂らを迎えてくれているようじゃな」
ひとりの雑兵が声を上げたが、皆これには何も答えずに、また黙々と前を向いて歩き始める。
十月、柴田勝家の居城でもある北之庄城には、与力の前田利家や佐々成政、不破光治らの兵が続々と集まってきた。
これに加え、すでに越前の各諸城からは丹羽長秀、滝川一益、稲葉一徹らの軍勢も集結しつつある。
柴田勝家をはじめとする各武将達は、城内に張られた陣幕の中で出陣の祝いを済ませると、それぞれが自慢の馬に跨った。
この時ばかりは、兵卒にも少しばかりの御神酒と勝ち栗とが配られる。
御神酒は小さな素焼きの杯に濁り酒が注がれ、飲み終わるとその場で杯を割ってしまうという習わしになっている。
焼き栗の方は半紙の中に納められている。縁起を担ぐためであろうか、その数は八つと決まっている。
相馬一平は、酒を一気に煽ると、勝ち栗はそのまま懐にしまった。
隣では望月三郎太が美味そうにその酒を口へと運んでいる。
「三郎太、共に手柄を立てて、国のおっかあに美味い飯を食わせてやろうぞ」
「わしはいつでもお前について行くぞい」
三郎太は丸い顔いっぱいに白い歯を見せた。
それから間もなくして、柴田勝家率いる織田勢一万八千は、この北之庄を後にした・・・