手取川攻防
その夜、柴田勝家を総大将とする織田軍一万八千は、加賀国は松任の西、手取川の中州を音も立てずに渡っていた。
目指すは能登七尾城。
一群をなす騎馬の群れ。馬上では鎧の擦れ合う微かな音以外、口を開く者もいない。
嘶きを押さえるためだろうか、馬の口には秣をはませてある。
真上にまで上った月が、川の流れの中にいくつもその半円の姿をかたち作っている。時よりその弱々しい光が、馬の吐く息を白い霞のようにぼんやりと映し出していた。
なおも大きな黒いその固まりは、整然と手取川の流れに逆らうよう、ゆっくりと歩みを進めていた。
話はこれより少し前に遡る。
上杉謙信率いる二万余の越後勢は、頸城口より越中に侵入すると、ほぼこれを手中に納めた。次いで上杉軍は、その矛先を越中の北西能登国に向けたのである。
一方そのころ、能登国では七尾城主畠山義隆の死去に伴い、その子春王丸がその後を継いでいた。しかし、春王丸が幼少ということもあり、事実上その実権は畠山家筆頭老臣の長続連が握っていたのである。
続連はこの上杉勢の侵攻に対して籠城策をとることとした。
当時の七尾城は縄張りも広く堅固な要塞であったため、彼にそのような策をとらせたのであろう。
事実、謙信率いる勇猛果敢な越後勢にあってしても、なかなかこれを攻めあぐねていたのである。
ところが、籠城戦が長引く中、城内では謎の疫病が起こり、それにより畠山軍の兵は次々と死ぬ者までが出てきた。
それだけではない。さらに追い打ちをかけるかのように、幼君春王丸も籠城中に死去するという事態に追い込まれたのである。
この窮地に長続連は、その子連龍を畠山家の使者として、かねてより誼を通じていた安土の織田信長のもとへと送った。
謙信の加賀進出を何よりも懸念していた信長は、早速これを討つべく越前北之庄城より柴田勝家をはじめとする援兵を差し向けることとした。
これに組みした武将には、丹羽長秀、滝川一益、稲葉一鉄、氏家直昌、安藤守就を筆頭に、前田利家、佐々成政、不破光治、原長頼、金森長近などがあり、当時の織田家最強とも言える軍団を要したあたり、信長の真意が伺える。
しかし援軍はすぐに能登へと来ることはなかった。
七尾城の長続連も風前の灯火の中、よく一年余りの間を耐え凌いだが、度重なる越後勢の攻撃に城内の兵は疲弊し、その上物資も次第に底をつき始めている。
続連は来る日も来る日も、織田からの援兵を一日千秋の思いで待ちわびたが、ついにはその思いが叶うことはなかった。
城内において、続連とは犬猿の仲でもあった親上杉派の武将、遊佐続光、温井景隆らの手によって謀反が起こったのである。
これにより続連をはじめとする長一族はことごとく討ち取られ、まもなく、能登七尾城も上杉謙信率いる越後勢の手に落ちることとなった。
そしてそれは、織田信長によって差し向けられた援軍が、加賀より到着するほんの少し前のことでもあった。
よってこの時も、柴田勝家率いる織田の軍勢は、能登七尾城はおろか、わずか一里半先の加賀松任城までもが、すでに謙信の手に落ちていたことを知る由もなかったのである。
「おい一平、加賀は上杉勢だけではなく、一向一揆もおると言うことだが、わしらは本当に大丈夫かのう」
「黙れ三郎太、声が高いわ」
十一月の手取川の水は、この若い兵達の脚に容赦なくまとわり着く。
それに明かりといっても、頭上高くにどんよりと張り付く半月だけである。もしそれが雲に隠れようものならば、いっそう兵達の心は沈黙をする。
「お、おい一平、わしを置いていかないでくれ・・・」
「まったく世話の焼ける奴だな、これに掴まれ。早くしろ三郎太」
相馬一平は、自分の槍の柄を差し出す。
望月三郎太はその柄を掴むと、転げるようにしながら川を渡った。
川岸に上がり、その流れの音から解放されると、どこからか遠くの方より梟の鳴く声が聞こえてきた。
彼ら若い兵の誰もが、この声のする方を瞬きもせずに見ている。
それはこの暗闇の中、鳴き声の主を捜そうとでもいうのか、それとも得体の知れない恐怖に身動きすることを忘れてしまったのか、誰一人として喋るものもいない。
梟はそんな彼らのことを知ってか知らずか、またホーホーとのどを鳴らした。
それから半時ほどして、彼らは手取川の東、水島の地に陣を張った。
陣と言っても簡素なものである。武将達の陣屋にこそ幔幕が張られてはいたが、兵達のそれは、彼らが持参した丸太を組み上げただけの簡単な柵である。
その中にいくつか薪が燃える明かりが見える。
兵達は皆、暖を取るためか、それとも濡れた草履を乾かす為だろうか、その明かりを取り囲むようにと座っている。
前田利家の家臣、奥村永福が率いる槍隊もその中にいた。
奥村永福は前田家譜代の家臣であり、利家の戦があるところ、必ず彼の姿もあるという武将でもある。
そんな永福は、黒塗りの鎧に緑と朱色の糸通しをした垂れをあてがい、兜の前立ては金の昇り鯉という出で立ちをしている。永福は、震える若い兵の中に分け入ると、そのひとり一人に声をかけて回った。
「そちの名は何と申す」
「は、はい、望月三郎太でございます」
三郎太は頭を垂れたまま答える。
「三郎太、草鞋が濡れていては風邪をひくぞ、すぐに新しい物と替えよ」
「は、はい、有り難うございます・・・」
三郎太は跪いて、さらに頭を垂れた。
永福は、三郎太の隣で槍を片手に片膝を立て、頭を下げるひとりの若い兵に目を下ろした。
「ほう、おぬしは震えておらんようだが、名は何と申す」
「相馬一平と申します」
「一平か、良い名じゃ。戦は何度目じゃ」
「こたびが初めてでございます」
相馬一平は凛とした眼差しで奥村永福を見上げる。
「では一平、こたびは生きよ。最後まで生き残ることを考えて戦うのじゃ」
そう言って笑顔を見せる永福の顔には、幾つもの戦をかいくぐってきた皺と刀傷とが刻まれている。それが薪の炎によりいっそう深く溝を作っているようにも見えた。
「よいか、殿のために死ぬるも戦、じゃが戦って生きることもこれまた戦じゃ」
永福は彼の肩をひとつ叩く。
一平は永福の後ろ姿に、もう一度深く頭を垂れた。
織田軍が水島の地で戦支度をしてから四半時も経っただろうか、先に放っておいた先遣隊から火急の知らせがもたらされた。
もちろん知らせは、松任城にいる上杉謙信のことである。
織田軍による七尾城への派兵をいち早く知った上杉軍は、攻略した七尾城より急遽南下し、加賀の松任城を囲んだ。そして、織田軍の到着前に、この上杉軍による強襲を知らせることなく城を落としたというのである。
今、その上杉軍二万余が、まさに彼らの目と鼻の先に位置する織田軍に襲いかかろうとしているのだ。
知らせを受けた柴田勝家は驚愕した。
それでも彼はすぐさま諸将を集めると、水島からの撤退を口にした。
「今すぐここを立ち、北之庄に戻る」
勝家の下知はこれだけであった。
彼もまた戦に長けた武将である。今この状態で、上杉謙信率いる越後勢と戦って勝てる見込みのないことを瞬時に察知したのである。
勝家は殿を前田利家に託すと、直ぐさま手取川に向け馬を走らせた。
一方利家の判断も速かった。彼は奥村永福の槍隊に、虎の子の鉄砲隊を授けて最後尾にすると、自らも川の縁にと陣を構えた。
こうして、織田軍一万五千余は、数時前に渡った手取川を、また渡河することとなったのである。
「よいか皆の者、殿は命無いものと思え」
地が震えるような声で、永福は叱咤する。
それから、松任城の方角に向け鉄砲隊を前面に押し出すと、一平達の槍隊はその後ろにと配置された。
戦が始まれば、まず敵の第一陣を前面の鉄砲隊が射撃するのである。しかしそれもおそらくは最初の一回だけであろう。その後押し寄せる敵に対しては、槍隊が突撃をかけることとなる。
そうして、彼らが少しでも時間を稼いでいる間に、一人でも多くの味方を手取川の対岸へと渡らせれば良いのである。
しかし、殿となった彼らを救うものはなく、まさに捨て駒となっての戦いというわけだ。
気が付くと、先程までの静寂とは打って変わり、どこからとなく馬の嘶きが聞こえる。
馬だけではない。それは真っ黒な暗闇の中、無数の人間の息づかいと地面を踏みしめる音が反響しているのだ。
一平は極限にまで研ぎ澄まされていく自分の五感を感じていた。
隣では望月三郎太も両手で槍を握りしめては、眼前に広がる大きな闇のうごめきに目を凝らしている。
風向きが変わったのだろうか、鉄砲隊の方から伝わる硝煙の臭いを感じたときだった。得も知れぬうごめきの中から人の声が、そう無数の人の声が聞こえてきた。
それは、奇声や罵声といった類のものではなく、一種唸るような、それでいて唄のような抑揚がある。
一平はさらに耳を澄ます。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
暗闇からは確かにそう聞こえて来る。そして、それは少しずつ数を増してははっきり聞こえるようになってきた。
「いっ、一平、念仏が聞こえるぞ。一向一揆が攻めて来たんじゃ」
三郎太が持つ槍の穂先ががくがくと音を立てて震え始める。
「静かにしろ三郎太。よいか、合図と供に切り込むぞ」
一平は槍の刃先を絞り込むようにと下げた。
その時、暗がりの中で一向衆徒らが持つ松明に、いっせいに火が点けられた。
いつの間にか、彼らはその顔が一平達にもはっきりと分かるところまで近付いて来ていたのである。
彼らが手にする無数の松明がそれらを赤々と映し出し、いっそう彼らの動きを異様なものへと感じさせる。
念仏に調子を付けるかのように銅鑼や太鼓の音が響き渡る。それらが乾いた夜の空気の中をまっすぐにと飛んで来るのだ。
「ダッダッーン」
異様な混沌とした空気を切り裂くかのように、鉄砲隊の射撃が始まった。
すると、目の前に迫った最初の一列が、まるで泥の人形のようにその場へと崩れ落ちる。その死体の上を、次の一列が何もなかったかのように再び渡り歩いてくるのだ。
なおも念仏の声は大きくなる。
一平達の前を、射撃を終えた兵達が足早に後退していく。次の射撃の準備をするためだ。
馬上の奥村永福は右手を大きく構えると、槍隊に突撃の合図を送った。
一平も三郎太も大声をあげながら、津波のように押し寄せる一向衆の人間の山へと向かって突進をする。
一方手取川の方でも、半分ほどの織田勢が川に入り始めたとき戦は始まった。
松任城から出撃した上杉軍の追撃部隊が動き始めたのである。
それに呼応するかのように、手取川の川上からは小舟に乗って控えていた別働隊が、一気に織田勢めがけて川を下って来た。
彼らは半弓を用いては、川中で立ち往生する織田勢に襲いかかった。
たちまち川は、傷を負った織田方の兵で溢れかえる。
挟撃を受けたのは川だけではなかった。殿を任されていた奥村永福隊ばかりでなく、富田重政の軍勢ものっぴきならぬ窮地に立たされていたのである。
彼らは城から出てきた一万余の上杉軍に加え、永福勢のそれと同様に、謙信に従った加賀の一向衆徒からも攻撃を受けることとなった。
すなわち手取川河岸は、鉄砲の音と鬨の声とが飛び交い、怒号と悲鳴とで覆い尽くされた。それらを無数の松明がゆらゆらと照らし出している。
その中に、先程の相馬一平と望月三郎太の姿もあった。
一平達は目の前に広がっていた一向一揆の津波の中を駆け抜けると、別の一向衆徒が群がる川上へと歩を進めた。もちろん望月三郎太も一緒である。
「三郎太、このまま山に向かうぞ」
「一平、わしはもうダメじゃ。あやつらは人間ではないわ。斬っても斬っても後から湧いてくるのじゃ」
三郎太は槍を放ると、返り血で真っ赤に染まった自分の掌を握りしめる。
「三郎太、生きるのじゃ。生きておっかあの元へと帰るのじゃ」
一平はその槍を拾うと、三郎太へと手渡す。
とその時、一向衆徒の一群が二人を囲んだ。彼らは手に手に竹槍や鎌を持っては、異様な程の眼光で迫ってくる。
「三郎太、右じゃ」
言うが早いか、一平は槍で最初の二人ほどを薙ぎ倒すと、次なる群へと突進する。
三郎太も最後の力を振り絞っては、血糊で滑るその槍を振り回したが、それも長くは続かなかった。
正面の男を突き刺すと三郎太は大声をあげた。
「一平―っ、槍が、槍が抜けん」
男の腹に深く刺さった槍は、彼の意に反してその男と供に地面へと落ちた。
三郎太は代わりに小太刀に手をかける。しかし、彼はそのまま、ついに小太刀を抜くことはなかった。後ろからのしかかってきた一向衆徒に鎌で腕を切られたのである。
「一平―っ、助けてくれーっ」
三郎太はその場に転がるようにうずくまった。
「三郎太―っ、こっちじゃ、走れ、走るのじゃーっ」
近くで相馬一平の声が聞こえる。
三郎太は再び立ち上がって、一歩二歩と走り始めた。その三郎太めがけて、一向衆徒が群がり始める。
ついに三郎太は走ることをやめた。そして、へたへたとそこに座り込んでしまった。
「三郎太、走るのじゃ。走って生きるのじゃーっ」
一平は、一向衆徒達が繰り出す竹槍をなぎ払うと、三郎太の元へと戻ろうとする。しかし、彼の目の前からは、すでに三郎太の姿は掻き消されてしまっていた。
「三郎太―っ!」
後ろを振り返ると、殿の奥村隊もすでに上杉勢の旗の中に飲み込まれようとしている。
上杉軍によるものだろうか、手取川の対岸に向けて幾百もの火矢が放たれているのが見える。それは真っ黒な空の下、きれいな弧を描いて飛んでいく。
その火矢の光の下には、今はもう動くことをやめた無数の骸が川面に浮かんでいるのが見える。
一平は、なおも山に向かって走った。
一向衆徒の最後の一群の中を駆け抜けようとしたとき、彼は上杉方の弓隊に出くわした。
弓隊は躊躇うことなく一向衆徒諸共、一平に矢を射かけてきた。
冷たい夜の空気を、見えない矢の音だけが切り裂いていく。
それはあたかも、細い若竹で空間を思い切り振るような音にも似ていた。その乾いた音の後、彼に襲いかかる一向衆徒達は理由も無くばたばたと倒れていく。
「馬鹿な、供に仲間ではないのか」
一平は声にして叫びたかったが、そうする時間も気力も、今の彼には残されていなかった。
たちまち一平の周りには、幾人もの一向衆徒が作った死体の山ができあがったのである。
そんな中、さらに一平は地面を這うように山へと向かって脚を動かした。途中、笠も捨て槍も捨てた。ただ暗闇の中を走り続けたのである。
「生きるのじゃ、生きるのじゃ・・・」
一平は、何度も口に出して呟いた。
倉ヶ岳の麓にたどり着いたとき、一平は初めて腰のあたりに違和感を覚えた。
振り向く彼の目には、腰に刺さった一本の矢が映る。
それでも一平は山を登った。
岩に寄りかかり木の根を掴む。手のひらで泥を握りしめては、それでもただひたすら彼は歩くことを続ける。
次第に鬨の声も喧噪も、彼の耳からは遠くのものになっていく。
一平は、大きな杉の木の切り株が、朽ち果ててむき出しになっているところを見つけた。
崩れた切り株の横には、かつてその木がしっかりと地面に根付いていたのであろうか、根の抜けたところに大きな穴がぽっかりと空いているのが見える。
次第に薄れていく意識の中で、彼はその穴に身を委ねた。
まるで先程までのことが嘘であったかのように、物音一つ聞こえない静寂が辺りを包み込んでいる。
穴から見上げる切り株越しに、無数の星が瞬いているのが見える。
ほどなく、一平は深い眠りについた・・・