093:家族の記憶
「んん……」
マリラは目を覚ました。すると、横にアイリスがいた。
「おはようございます、マリラさん」
「ああ……時間はもう昼頃かしら……?」
髪を手櫛で整えながら、マリラはぼんやりと呟く。周りを見渡すと、眠るライと、剣の手入れをしながら休んでいるジェスがいた。
「大丈夫、マリラ? どこも痛まない?」
「あ……」
そこでマリラは、自分の体、特に足の怪我が治っていることに気付く。
「寝ている間にアイリスが治してくれたのね、ありがとう」
マリラはアイリスの頭を撫でた。
あれから、氷の棺の部屋を出た一行は、一旦、結界で守られた書庫へと戻った。四人とも疲れていたし、魔法使いの残した手記を読んで、ピアの解放の方法を探さなければいけない。
それに、ピアを夫の傍に居させてあげたいと思った。
ジェスが見張りをしている間、マリラ、アイリス、ライは書庫で泥のように眠った。ただし――ライだけはマリラの魔法で眠らせた。
ライは、足の折れたマリラを抱えてこの部屋まで来る途中、こっそりと小声でそれを頼んだ。
「疲れてるところ、悪いんだが……魔法で、眠らせてもらっていいか?」
「……。」
マリラは何も言わずに頷く。抵抗しない相手を眠らせるのなら、難しいことではない。
ライは、本当にひどい悪夢を見続けたのだと、分かる。しかもそれはただの夢ではなく、ライの過去――ライの心の傷そのものなのだから。
もうあの魔物はいなくても、今のライは悪夢を見るかもしれない。ライはそれが怖いのだ。
「もし、嫌でなければ……話、聞くわよ」
マリラはそう言ったが、ライは苦笑しただけだった。今はまだ、話せることではないのかもしれない。
ライが起きるまではそっとしてあげようと、一行は部屋で静かにしていた。ライの件は、ジェスもマリラから大体聞いていた。
「……あのさ、聞いていいかな」
ジェスが、静かにマリラとアイリスに尋ねた。
「あの魔物に眠らされていた時、僕達は、それぞれ過去の出来事を見たんだよね?」
「そうね」
「……私もそうです」
それを聞き、ジェスは何とも言えない顔をした。
「僕は、自分の見た夢がよく分からなかったんだ」
ジェスは胸を押さえた。
「確かに、何だか胸が苦しくなるような……そんな気はしたんだけど……。僕の記憶にない夢だったんだよ」
「え……?」
「そうだ、夢の中で、僕は誰かにずっと話しかけられていたんだけど、何を言っていたのか、分からなくて」
「……。」
マリラとアイリスは顔を見合わせた。
だが、二人とも、何とも言いようがない。
「マリラの唱える呪文の響きに似ていたかもしれないんだ、その言葉。マリラなら意味が分かるかもしれない」
「古代語なの? とりあえず聞かせてくれる?」
ジェスは、夢の中で聞いた言葉のうち、何度も響いていた音を、記憶を手繰り寄せて、真似て発音した。他にも何か言われていたと思うが、あとは分からなかった。
「えっ……」
そのジェスの言葉を聞いたマリラは、呆けたような、驚いた顔をした。
「マリラ、分かる?」
「……。『愛している』」
「え?」
聞き返したジェスに、マリラは説明した。
「とても強い――とても強い意味の言葉。強い思いは魔法になる。それくらい意味のある――最大級の愛情の言葉」
日の光が差し込む部屋の中――ピアは、夫の骸の傍にずっと寄り添っていた。暖かな光は、少しずつピアの体を包む氷を溶かし、その傍に倒れる骨の横に、水溜まりを作っていた。
「……ずっと、寂しい思いをさせたのね」
彼は、とても強い魔法使いだったから、ピアを失った時に、生き返らせる方法を考えたのだろう。
彼ほどの魔法使いが、それが不可能だと知らないはずがないのに、それでも。
「待たせて、ごめんなさいね」
どうしてだろう。こうしていると、昔の温かな記憶を――ピアにとって唯一の家族の記憶を、思い出す。
彼女が自分の夫と初めて出会ったのは、闇市場だった。
彼女は鎖に繋がれ、薄く丈の短いワンピース一枚を着せられ、寒さに震えていた。
「……まったく、こんな値段でも売れないのか。役に立たない娘だ」
彼女は、奴隷だった。奴隷売買は、禁止されているにも関わらず、こうして裏では行われていた。空腹のために体に力が入らず、俯いていた彼女は、自分の前に人が立っているのに気付かなかった。
「……顔、を」
声をかけられていることに気付かなかった彼女は、主に鎖を乱暴にぐいと引かれた。
「このノロマ! 客に顔を見せな!」
「……っ!」
慌てて顔を上げると、そこにはローブを着た男性がいた。フードを目深に被っているため表情は分からないが、向こうはこちらが見えているようだ。
男性はしばらく彼女を見つめると、ぼそり、と奴隷商人に尋ねた。
「……買う。いくらだ」
売れ残りの商品であった彼女は、あっさりと男性に売られた。金貨の袋と交換に、彼女を繋ぐ鎖が男性の手に渡される。
男性はそのまま、彼女を引いて足早に闇市場を出ていく。彼女はそれについて、何の感慨も抱かなかった。
また主が変わるだけで、自分の境遇は変わらない。できたら、今後の主はもう少し食事をくれれば良いのだが。
すると男性は――人気のない場所を見計らうと、懐から杖を取り出した。呪文を唱えながら、鎖ではなく、彼女の腕を掴む。
「?」
驚く暇もなく、彼女と男性の周りの景色が溶けるように消え、次の瞬間には、見慣れない場所にいた。
「……!」
彼女がいたのは、二階建ての立派な屋敷だった。周りは蔦や薔薇で囲まれている。
「……それは、要らない」
「?」
男性は、彼女に向けて呪文を唱える。杖から放たれた赤い光が彼女を繋ぐ鎖にぶつかると、鎖は粉々に砕けて消えた。
「!」
魔法だ、とピアは思った。
この人は魔法使いなのだ、と彼女は今更ながら驚く。
男性は、彼女を見ては顔を反らし、また彼女を見ては顔を反らすという奇妙な行動を繰り返すと――ようやく、話し出した。
「……何か、話さないのか」
「……は、はい。口を利く事を、お許し頂けるなら」
彼女は久しぶりに声を出した。少し枯れた声がする。
「……話してくれ、できるだけ。……。その、ここが君の家だ。自由に使っていい……あ、危ない場所には、入らないで」
「はい、畏まりました」
彼女は奴隷としての生活が長く、主人からの言葉に、反射的に答える癖がついていたが――しかし、彼の言葉はほとんど畏まって承る要素がないことに、答えてから気が付いた。
「君、は……名前は?」
男性に尋ねられ、彼女は頭を下げた。
「……あの、私には、名前はありません」
「……。」
男性はしばらく彼女の頭のてっぺんを無言で眺めていたが、急に踵を返して屋敷の中に入っていく。
彼女はどうしていいか分からなかったが、とりあえず追って屋敷に入る。がらんとしていて誰もいない。困って人を探すと、彼は屋敷の階段に座り、本のページをすごい勢いでめくっていた。
「…………。」
「…………。」
すぐ近くに豪奢な椅子があるのに、何故それに座らないのだろう? と彼女は疑問に思う。
男性は果たして読んでいるのかという速度で延々ページをめくり――そして、急にそれを止めた。
「……ピア」
「え」
「君の、名前は……ピア、で、どう……だろう」
そこで男性は彼女の様子を伺うようにした。返事を待っているのだと気付き、彼女は慌てて返事をした。
「あ、あの……如何ようにもお呼び下さい」
そもそも、今まで彼女は名前を必要とされていなかった。商品として、番号をつけられたことこそあるが、奴隷である彼女は、乱暴に呼び掛けられる一方だったから。
しかしそう言うと、男性はひどく困った顔をして、また本のページをめくり始めた。
「違う……名前がいいか?」
彼女は慌てた。
「いえっ、あの……気に入らなかったのではなく……。……ありがとうございます。これから私は自分の名を問われたら、そう答えます」
「……。」
男性はぱたん、と本を閉じた。彼女を見て、ほっとしたように頷く。
彼女――ピアは、男性に尋ねた。
「あの……あなた様の、お名前は……」
「……。フォンベルグ・テンペラスト……。」
「フォンベルグ様、ですね」
ピアが名前を繰り返すと、フォンベルグは小さく頷いた。




