092:棺の番人
魔物の目から放たれた光を見て、ジェスが深い眠りの中で見たものは、真っ暗な記憶だった。
真っ暗で、何も見えていない。いや、光がないのではない。自分の瞼が開かないから、暗いのだと――ジェスはぼんやりとした意識の中感じていた。
ぼくは……なにを……?
夢の中の自分はまどろんでいるようで、意識がはっきりしない。もう少し、温かい場所で眠っていたいような気分だった。
自分の体も、ろくに動かせない。濡れているらしいことは、ぼんやりと分かる。その濡れた体に、さっきから強い風が当たっているからだ。
ちがう……風がふいているんじゃない、ぼくが……動いているんだ……?
自分は体を動かしていないのに動いている。つまり、夢の中でジェスは何者かに抱えられて――その何者かがすごい速度で動いているのだ。
不意に、風が止む。ジェスを抱えていた何者かが、そしてジェスを離した。
嫌だ、と思った。
何故なのか、誰なのか、分からないのに。
なのに、胸の奥がどうしようもなく痛んで――離さないでとジェスは叫ぼうとしているのに、声さえも出ない。
(……、……)
その誰かは、一生懸命ジェスに話す。ジェスはその言葉の意味が分からない。ただ、その声は、必死で何かを伝えるようにしてきていて、その声にジェスの心は締め付けられる。
なに、ききとれないよ。
(……、……!)
声の主は離れていく。
おねがい、いかないで……。いかないで!
……。
…………。
そしてジェスの記憶は、また暗闇に沈んでいく。
ジェスは剣の一振りで魔物の腕を切り落とした後――、更に剣を返して切りつける。
「ギャオウ!」
魔物は傷を負ってのたうつ。
さらにジェスは、容赦なく剣を叩き込み、確実に魔物の体力を奪い続けた。
目の魔力がなくなったとはいえ、体から発する冷気の勢いは衰えていないのに、ジェスの持つ剣の黒い輝きは、その冷気を押しのけていた。
「……グ、グギャ!」
魔物は後ろに下がってジェスから距離を取り、冷気を放った。凍り付くような冷たい風が、ジェスを襲うが、ジェスはその風に向けて、空を切るように剣を一閃した。
剣から発せられる黒いオーラが、幕のように広がり、冷たい風を拡散させる。
「――これで終わりだ!」
ジェスは床を蹴って、魔物に一直線に飛び込んだ。
「……あの剣は、一体?」
マリラは呆然とした。
ジェスが持っていた剣が、急に黒く染まり、闇の力を宿したかと思うと――ジェスはそれを迷うことなく振るい、魔物を追い詰めていた。
ジェスの剣の腕前はかなりのものだ。しかしそれを差し引いても、あの高い防御力を持った魔物に、あれほど大きなダメージを与えているのは、あの剣の力が大きいはずだ。
(確かあの剣、この館の主の魔法使いが、わざわざ集めていた剣――何か特別な力が……?)
アイリスも、同じことを思っていたが、今はそれを追求している場合ではない。
アイリスは、ジェスが魔物を相手している間に、壁添いに移動してライのところまで走り、眠っているライに〈癒し〉の呪文を唱えた。だが、消耗したアイリスの今の精神力では、完全に回復させることができず、残った傷は腕を強く縛ることで止血した。
「ひどい傷です……」
アイリスは、それがライ自身のつけた傷だとは知らなかったが、胸を痛めた。
「……うっ」
顔を顰め、ライが目を覚ます。
「ライさん!」
「……うう……」
傷を治したにも関わらず、ライは苦しそうな様子で顔を覆った。そして、弱々しく呟く。
「俺は……肝心な、時に……」
「大丈夫ですよ、私達は――」
アイリスはライの顔を覆う手をそっと外し、優しく微笑んだ。ひどく憔悴した顔を真正面から見つめ、告げる。
「仲間、ですから」
振りかぶったジェスの剣の一撃が、魔物を頭から一刀両断する。剣が一際強く輝き、魔物は二つに裂かれたところからバラバラに崩れ落ちた。
「やった……」
ジェスもさすがに、肩で息をしていた。
そして、そこで改めて、自分の使っていた剣を見た。漆黒に染まっている剣を、掲げて眺めていると――剣を包んでいた黒い光は消え、刀身の色も、元の白銀に戻った。
「……何だったんだろ、これ?」
「散々使いこなしておいて、それはないわね……」
マリラが突っ込みを入れた。
「あ、それより、マリラ、大丈夫?」
「え? ええ……」
そうは言ったが、足が折れていて立ち上がれない。ジェスはマリラに近付くと、足を見た。
「折れてる。アイリスの精神力が回復するまで、応急処置をするね……えっと、何か添え木になるようなもの……」
ジェスは周りを見渡し、まっすぐな棒のようなものがないか探すが、適当なものが見当たらない。そこでジェスは、自分の腰に提げられている剣の鞘を見た。
「長くて邪魔かもしれないけど、一旦これで」
「……ありがとう」
その間、あれだけ活躍した剣は、抜き身で床に転がされている。ジェスは剣士の割に、時々剣を大切にしないと思うことがある。戦いの最中に、剣を放り投げるくらいは平気でするのだ。
(まあ大体、それは仲間のためなんだけどね……)
ジェスらしいと思いながら、マリラはジェスの手当を受けていた。
魔物を倒したところで、一行は、改めて、氷の棺に向かい合う。マリラは、ジェスに肩を支えられながら、それに触れる。
「表面が、溶けてきてる……。さっきのあの魔物が、冷気でこの氷を維持していたのね」
「なるほどな。あの魔物は、この氷の中の、ピアの本体を守ってたってわけか。俺たちを襲ったのも、それでだろ」
魔物が倒された今、部屋の温度は徐々に上がってきていた。この巨大な氷が全て溶けるには時間がかかるだろうが、それでもじきに、ピアの体を包む氷は消えるだろう。
「……でも、一体、どうなっているんでしょうか? ピアさんの体は、こうして氷の中にあって、そして、意識の方は、この屋敷の中で彷徨っていたわけですよね?」
アイリスの問いに、ライは――呟いた。
「その答えは、ここにあるのかもな……」
「え?」
ライの目線の先に、一同は目をやる。氷の棺の裏側、部屋の入り口側から見えない場所に、骸骨が倒れていた。マリラとアイリスは、小さな悲鳴を上げる。
「この人って……」
「魔法使いのローブを着てる。恐らく、これがこの屋敷の主人で、ピアの夫だっていう魔法使いだ。で……」
ライは、その骸骨の、骨だけになった腕が抱えている本を取り出した。ボロボロの本のページを、慎重にめくる。
「多分、魔法の研究について書かれてるんだろうな、恐らくピアのことも……」
「それは、私が見た方がいいわね」
マリラが言うと、ライは頷いた。
そして、一行は振り返る。
魔物が倒された今、この部屋を覆っていた息の詰まる苦しさはない。
今だから分かるが、一行はこの部屋に近付く中、すでに魔物の力により、精神に影響を受けていた。それぞれ、苦しかった過去の出来事を思い起こさせられていたのはそれが原因だ。
それは意識だけの存在であったピアにも影響していたのだろう。ピアはこの部屋に近付くことさえ、かなわなかった。
「あなた……」
ピア――意識となった半透明の彼女は、夫の骸の前に佇んだ。
決して触れることはできないはずなのに、その体に手を伸ばし、抱きしめようとする。
「……今は、そっとしておこう」
ジェスの言葉に、四人はそっと部屋を出た。
いつの間にか嵐は去り、窓からは朝日が差し込んできていた。




